読み始めた方は最後まで読んで下さいね。途中で止めると誤解するかもしれませんので。
人に教えるときのコツ
麻酔科医なので麻酔のプラクティスに例えて話します。ほぼすべての麻酔科医ならご経験済みと思いますが、自分の個人的好みの範疇に入るやり方をガンガン押し付けてくる先輩っていませんか(いませんでしたか)?
・例えば 呼吸バッグをどう押すか
・喉頭鏡をどう持つか
・どのようにして患者さんの口を開けるか(クロスフィンガー vs 左手で頭を後屈させる vs それ以外)
・気管チューブにスタイレットを通しておくかスタイレットを使わないか
・気管挿管後に気管チューブをテープでどのように固定するか
・どのように抜管するか(吸引しながら抜管するか vs 加圧しながら抜管するか) など。
どーも苦手でした、ガンガン押し付ける先生。
もちろん、医療の世界はまだまだ謎だらけ。標準的と言われるプラクティスには幅があり、その中で個人の好みが許される。「どうぞお好きに」と任されています。
個人的好みを押しつけるのが苦手な理由1
我々医療者には
・患者さんに有益であることが研究の結果確実である(医療のすべての世界でまだまだ少数派です)
・研究の結果おそらくそうであろう、
・百歩譲って生理学的、薬理学的に有効性がある、 のどれか、かつ
・実害あるいはその可能性がなく、かつ
・費用がより安い(これも試算は単純ではありませんが)
診療をやる義務が(義務ですよ、繰り返しますが)あり、上記に当てはまらない診療はやらないようにしなければなりません。したがって、この条件を満たす限り(簡単に言ってしまえば標準的なプラクティスである限り)、あとは「どうぞお好きに」ではないでしょうか。
レジデントの皆さんは指導医の先生に向かって「先生、テープをこう止めろ、とおっしゃいますが、私は以前別な先生にこう止めろと教わりました。先生のやり方に何か根拠あるんですか?」と聞いてみて下さい(ムッとされるだけならいいですがもしかしたらクビになるかもしれませんね。後述します)。
苦手な理由2
これはもう、生理的、反射的な反応と言ってもいいと思います。根拠なく自信を持ってご自分のやり方を押し付けてくる方に感じてしまう、抑え難い衝動といっても良い。
そこで、自分では人を教えるときに「自分の好みを押し付けることだけは金輪際しません、おかあさん」と決めました。 どちらかと言えば、ココはいったん任せる、と決めたら、黙って観察するタイプ。よく言うじゃありませんか。家で普段台所(死語?)に全く立たない毎日の非料理担当者が、ある日突然気が狂って(何か言えないマズイことしちゃったんでしょうか)「日曜はボク(わたし)が夕食を作る」とか宣言したとします。それを毎日の料理担当者が、制作初期段階から、口を出し、手を出し、毎日の料理担当者のやり方を押し付けたらどうなるでしょうか。
おそらく毎日の非料理担当者は、一気にやる気が失せ、「じゃあキミ(あなた)やれよ(やりなさいよ)」、ということになるはずです。
コツは、任せる方は、黙って観察、助けを乞われたときのみ相手を尊重しながら口を出す、手を出す、かつ、作品がどんなに人類が食することのできる最低限のレベルであっても「美味い」と言いつづけることです。これを守れば、半永久的に日曜夕方にラクすることができるでしょう。それに、月日が経てば必ずもっと美味い料理がテーブルに並ぶはずです。
教わるときのコツ
カンの良い方はもうすでにお気づきですね。そうです、教わるときは、教える側の言うことをとりあえずよく聞く、そしてまずはやり方に実直に合わせる、ことです。
推奨する理由1
医療の話に戻りますが、自分のやり方を広げておく(たくさん引き出しをもつ)ことは本当に困った時に患者さんのためになります。これはエビデンス云々で語れる話ではない経験知で、臨床ではしばしば起こります。
・◯◯がないからできません(◯◯には、フェンタニル、アルチバ、ブリディオン、エスラックス、血管エコー、何とか針、何でも入りますね)
・◯◯はやったことがないからこの方法しかできません(◯◯には、神経ブロック、鎖骨下静脈穿刺、ファイバー挿管、スワンガンツカテーテル挿入、何でも入りますね)
・◯◯のときにはXXしろと書いてあるから状況に関わらずしないと気持ち悪い(心房細動があるからレートコントロールしたらかえって血圧、尿量が減っちゃった、とか)
自分が慣れ親しんだ方法にしがみつくことはとても簡単で心地よいものですが、それが自分の引き出しを限定してしまい、患者さんの生死を分つ状況で一発形勢逆転を狙う自由な発想の治療を思いつく力が身につきません。まず第一歩は、全然自分と違うやり方の他人のマネをしてみる。それによって引き出しは一つ一つ作られていきます。
推奨する理由2
年齢を重ね、どうしても教わるよりも教える方が多くなります。教えるときに最初から自分のやり方を主張してくる教わり手をしばしば見かけますが、そんな方には多くの場合「うん、じゃあそれでいいよ」とお伝えします。突き放したように、冷たい、と受け取られるかもしれませんが、上述のように標準的プラクティスの範囲内であれば個人の好みの範疇なので、自分の好みを押し付ける根拠がないからです。
さきほどの料理の話ですが、毎日の非料理担当者に毎日の料理担当者が勇気を出して「さかなのさばき方はね....などと」助言しても、すぐに「オレ(わたし)はこうしたいんです」と主張されたら、教える側も教える気が減ります、人間なので。
教わるときは、教える側の言うことをとりあえずよく聞いて損はなく、最初に教わったその時点で教える側から自分の知りたいことが得られなくても、次にはあるかもしれませんよね。次に教えてもらえなくなってしまったら、自分の引き出しをもう一つ増やすチャンスを失うかもしれません
個人的にしばしばやることですが、「まずは30例言われた通りにやってみよう」と思います。そこで改めて判断して「やっぱり今までのやり方の方がよいからそうします」という結論でもそれで良いのです。30例で、今までのやり方がうまく行かなかったときの引き出しは形成されています。したがって◯◯が身につくには1~2例じゃもちろんだめで、経験からすると最低30例やればそのやり方の評価ができるとともに、いざ本当に困った時に何とか次の引き出しとして使えるようになる最低限の必要経験数であるからです。もちろん絶対に30例に到達しない状況もあれば、30例やっても身に付かない手技もあるでしょうし、30例経験しなくても十分使えるようになるものもありますので、あくまで30は参考値ですかね。
振り返って自分はどうか。自分は良い教わり手か、良い教え手だったでしょうか。いずれも合格点は与えられないなあ、と客観的に思います。永遠の努力目標なのかもしれません。