私たち日本人は、江戸時代末期の黒船の出現以来の横文字好きと言えるのでしょうか。巷には横文字が溢れています。ただ、この横文字を外来語と置き換えれば、そもそも漢字は中国から輸入したものですし、ひらがなにしてもカタカナにしてもその派生形に過ぎないので、元来日本民族は外来語好きと言えるのかもしれませんが(注1)。
医療界ではどうでしょうか。しばしば使用される横文字をあげてみると、レジデント、ドクター、ナース、ケア、キュアに始まり、アセスメント、マネージメント、コントロバーシーなどが次々出てきますね。近年では、エビデンス、フィジカルアセスメントなど、神保町の三省堂の医療書籍新刊コーナーの、特に看護のコーナーに行くと、二冊に一冊はこの手の横文字が使われている印象を持ちます。確かにその用語がもつイメージを端的に表現する日本語がない(=適切な訳語がない)という事情から、“そのまま“使うのが最も適切な場合があります。しかし、レジデント、ドクター、ナースなど、すでに対応する適切な日本語もあるのに横文字をそのまま使うことも多いですよね。やっぱりわたしたちは“横文字好き”なんでしょう。
横文字を使用すると、何となく表現が穏やかになったような気になりますし、黒船的な有無を言わせない強引な押しつけ作用、水戸黄門の印籠的に皆を黙らせる作用、シンボルとして注目を集める作用、かつ、オレが言ってんじゃないもん的な「責任を回避できる」ような作用がある気がします。すくなくとも「ちょっとかっこいい感じ」は確実で、それを出版社が利用し本の表題に使うからさらに広まるという悪循環(出版社にとっては好循環?)になるわけです(Intensivistもそーじゃない? おっしゃるとおりです)。
それと同時に、日本には「自分が知らないことを他人に知られるのは恥である」と思わせる空気が漂っています。だから人前で「質問しにくい」。これは、ほぼすべての日本人が幼少時代から無意識にもつ共通感覚だろうと思います。その結果、多くのカンファレンスは恐ろしいほどに単調で静寂で(居眠り以外にすることがなくなりま)す。
したがって、このような“横文字好き”かつ“質問しない”日本人に対し、新しい横文字を使用して見せることは、それを聞いたわたしたちを「おおっ凄い。知らない自分が悪いのね」と思わせる効果があるでしょう。すると、聞いた人の中の賢者、勇者たちが「何となくこの用語はこんな意味なんだろうな」と想像してシロートの火遊び的に使用するようになるでしょう。結果的に、それが伝言ゲームのように伝搬し、最後には意味が原義からズレていくこともあるでしょう。
私は「横文字を使うな」と主張しているわけではありません。コトバは生き物であり、多くの外来語が輸入され定着する過程は似通ったものであるはずなので、いくら私が学生時代「美しい日本語を守る会」の会長だった(会員2名)としても、黙って見守ることしかできません。私が指摘したいのは、新しい横文字が上記のような定着過程を辿るうちに、その横文字本来の意味が見えにくくなってしまうのではないか、という点です。結果として、横文字をちりばめた発言や文章が「何となくわかるけど心の底から納得できない」といつまでも違和感が消えなかったり、コトバのイメージが共有されていないために議論が噛み合なくなったりします。
先日、とある先生(医師)が私との会話の中で、“オーディット”ということばをお使いになり、その意味は確かインスペクション(査察、監査)みいたな意味だったと思うけど、はてどのようなコンテクストで使われているのかな、と自分の頭で考えながらその先生のお話を聞きしていました。結果として「で、オーディットって何ですか」と訊くタイミングを逸してしまい(注2)、このオーディットがしっくりこないうちに、次の話題に移ってしまいました。このブログを書いている今も自分の中にモヤモヤが残っています。
このような「使う方も使われる方もよくわからんで使う、あるいはわかっているつもりで使っているのに実はよくわかっていない」横文字の代表に、“エビデンス”という用語があります。いまや医療従事者の間で、エビデンスやEBM(evidence-based medicine)という用語は共通語、流行語になりました。例えば、「エビデンスはないですが.....」とか「エビデンス的には....」などの発言を耳にしたり、「エビデンスにもとづく◯◯学」とか「◯◯ケアのエビデンス」という表題を三省堂の医療書籍新刊コーナーで五冊に一冊はみかけたり、「エビデンスに厳しい」先生(この言い方も変です!)が「エビちゃん」という別称で呼ばれたりするようにさえなりました。
しかし、多くの場合その発言、記述の中にエビデンスやEBMに対する誤解の匂いを感じ取ることが多いのです。自分の中ではそのような誤解が恐くて、1990年代の登場時に魅了されたエビデンスというコトバが、近年ではなるべく使わないように心がける相対的禁忌にさえなっています。
もと「美しい日本語を守る会」の会長だった(会員2名)ので、コトバに対する感度は失いたくないものです。というよりも、自分の中のそういう衝動を消そうと思っても消えません。これが性(さが)なんでしょうか。
注1:歴史や漢字の事情通には、日本語の書き言葉の成り立ちをそんな軽く扱うなー、不適切な引用やめてください、と怒られそうですけど....
注2:年取ったことの特権の一つに、人に尋ねることを厭わなくなることがあるので、たいがいの場合「◯◯って何ですか」と聞けるようになったのですが、話の流れで聞くタイミングを失うことは今でもあります。