サロン中央アジア

中央アジアの自然と人々

タシケント郊外の日本人滞在者

2008-06-08 22:59:40 | 中央アジア日誌
それは1998年5月27日のことであった。ウズベキスタンの環境団体の招待で日本の環境関連団体一行の一員としてタシケントを訪問した時である。13000人の住民がいる綿花ソホーズでシャシリクのご馳走をいただいていた。その日の我が日記には、「シャシリクを焼く煙が広がっている。小柄な老人が紹介された。ウズベキスタンの白黒模様の帽子を被った日に焼けた老人の名前はクリヤコフさんという。本名はクリヤカワ(廚川よしのり)である。1950年にサハリンからこのタシケントに送られて来た老人は、北海道生まれの71歳だという。どうしてここに送られてきたのか、どうしてソ連邦に渡ったのかなどの詳細は不明であるが、少なくとも本人の意志でこちらに来たのではないことだけは確かである。はにかむ様に微笑むクリヤコフは好々爺と言う表現が適しているだろう。彼の側にはいつもウズベク人の同年輩の老人が付き添うように立っている。タシケントに来て以来の無二の親友だと言う。二人とも笑顔がよい。夕日を浴びながらの二人の写真を数多く撮る。」と記している。そして、2002年に再びタシケントを訪問したときの日誌には、「7月28日(日)10時出発で残留日本人のクリヤコフを訪問するため、というより捜しに出かける。タシケントで得た情報では、タシケントから60キロほどのヨンギグル地区にあるドストリク・コフホーズに住んでいるという。そこまで分かっていれば捜しだすのも用意であろうと出かける。ドストリクは簡単に見つかったが、1998年に撮影したクリヤコフの写真を見せるも住民は知らない。人口2000人ほどの村であるから何人かに聞けば分かるだろうとのんびりと構えていたが、そうはいかない。通訳も苦労している。この村のことならすべて知っているという朝鮮人の老人、村の議長、副議長、戸籍係の自宅を訪ねるも不発である。昼前にはあきらめてタシケントに戻り、食事とする。」と記している。このことは、タシケントの日本大使館にも厚生省の担当部局にも情報提供しておいたが、その結果はどうなったのか分からない。本人の意思を確かめないといけないが、どんな理由でタシケントに来られたのか、日本との連絡は必要ないのかなど、せめて状況把握だけはしておくべきではないかと思う。もし、この方の情報を知っている人がおられたら一報いただきたい。

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