横浜 青葉 茗荷館 (よこはま あおば みょうがかん)

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宇都宮城址

2012-01-26 | 城・史跡・神社仏閣 (関東)

宇都宮城は関東七名城の一つとされています。築城については、平安時代の天慶3年(940年)に藤原秀郷が築城したという説と、藤原宗円(宇都宮氏の祖)が二荒山の南に館を構えたのが始まりという説があるそうです。藤原宗円が前九年の役の功により、下野国の領主となった後、約530年間、宇都宮氏の居城として続いたそうです。慶長2年(1597年)、豊臣秀吉による改易で、下野宇都宮氏は滅びました。慶長3年(1598年)に蒲生秀行が入城した後、江戸時代には慶長6年(1601年)に奥平氏の居城となり、明治維新の戸田氏まで、譜代大名の居城でした。
戊辰戦争の”宇都宮城の戦い”、そして、太平洋戦争の”軍都・宇都宮空襲(昭和20年7月12日、他)”で、街は焼かれ、歴史的な建造物なども失いました。昭和30年代前半頃までは、堀の一部が埋め立てられずに残っていましたが、復興と都市化の波により、城郭の遺構などの殆んどが残ってはいませんでした。
市政110周年記念行事の復元計画により、平成19年(2007年)、御本丸の西半分に堀や土塁、そして、清明台、富士見櫓などが造られ、宇都宮城址公園となっています。園内には、清明館歴史展示室、宇都宮城ものしり館やまちなみ情報館があります。






















復元されたのは、本丸の一部です。古地図を見ると広大な城です。石垣では無く、土塁主体の構造で、天守閣はありませんでした。


この近く(旧三の丸)には、推定樹齢400年、樹高33メートル、枝張り10メートルから13メートル、周囲6.5メートルの大銀杏(いちょう)の木があります。戊辰戦争や空襲にも耐え抜いて、生き続けています


「宇都宮の歴史と文化財」のホームページ、こちらから見る事ができます。


宇都宮に纏わる主な出来事を記載しました。

●宇都宮釣天井
元和5年(1619年)に本多正純(徳川家康の重臣)が入城し、宇都宮城などの改修を行い、城下町、門前町(二荒山神社)、宿場町としての機能を整備したそうです。その後、謀反の噂などが流布され、江戸幕府内での権力闘争の結果、元和8年(1622年)に正純は改易されました。このことが後年「宇都宮城釣天井」として脚色され、一般に知られていますが、実際には「宇都宮城釣天井」は存在しませんでした。

●浄瑠璃坂の仇討
浄瑠璃坂の仇討は、宇都宮藩の前藩主、奥平忠昌の法要の際に起こった家臣同士の刃傷沙汰が発端でした。4年後の寛文12年(1672年)2月3日、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂などで藩を脱藩した奥平源八とその一党が父の仇、奥平隼人を討ちました。仇討ちの当事者は、本来ならば死罪というところでしたが、恩赦の後に他家へ仕官を果たしたそうです。30年後、赤穂浪士らの討ち入りにおいて、戦略や衣装などが参考にされたともいわれています。

●幕末の農民運動と戊辰戦争・宇都宮城の戦い
”ええじゃないか”や”世直し”が宇都宮城下にも波及し、慶応4年4月1日(1868年)に約3万人が八幡山に結集し、宇都宮城内への突入を試みたが失敗。反転して、鹿沼や今市方面へ向かったたそうです。このような世情の中、大政奉還、そして、戊辰戦争となりました。
戊辰戦争で宇都宮藩は新政府軍についたため、大鳥圭介と土方歳三(新撰組)の旧幕府軍との激しい攻防戦が行われたとのことです。宇都宮、炎上。このときに、宇都宮藩兵が城の抜け穴(本多正純の時代に造った?)から退却したという伝承が残っているそうです。戦いの最中、土方歳三は足を負傷し、会津へ退却したそうです。







【アクセス】: JR宇都宮線宇都宮駅、東武宇都宮線宇都宮駅
        東北自動車道鹿沼IC、宇都宮IC、北関東自動車道宇都宮上三川IC、壬生IC

【データ】 : Nikonデジタル一眼レフカメラ、広角~中望遠系ズームレンズ
        2007年4月





  
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