南京事件FQA 【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった】への反論

2020年02月10日 21時22分41秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>2.安全区外の南京城内は無人地帯ではなかった】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
いまさらながら、【まさか】このような主張をされる【否定派】の方は居られないとは思うが、教育的配慮で、もう一度反論を試みておく。


【(A)否定派の主張】
南京城内には安全区以外に人がいなかった。南京戦が始まった時点で、ほぼすべての難民は安全区への避難を完了していた


【(A)についての一言】
この記事は、2008年であるが、2020年代に於いてもこのような認識の【否定派】が居るのなら当然ながら馬鹿にされよう。2008年当時は未だ東中野氏の主張が【否定派】では主流だったのかも知れないが、現在(2020年)における【否定派】の【認識】は違うであろう。(広範囲にアンケートを採ったことが無いので何とも言えないが、少なくとも当方は違うのでこの【主張】には当たらない。

こういう【主張】を今だに【掲載】し続ける方がどうかしていると考える。

 


【1.反論】
「安全区以外は無人地帯」説は、根拠薄弱なイメージ操作に過ぎない。


【1.反論への反論】
【イメージ】を先行させて【印象操作】を行うテクニックは、むしろこのサイトの方々の方が次に述べるよう【に巧み】とは思う。
安全区以外の地帯に於ける人口調査がある訳ではなく、どれだけの非戦闘員がどの辺に分布・数量的に居たかも全く不明で、兵卒(戦闘員)か住民(非戦闘員)かの区別も付けようがない。又陥落前の国際安全委員会からの申し出に関して【安全地帯】を一応準中立地帯として攻撃を極力控えると日本軍は約束したが、その他のエリアは【戦闘区域】であると言う事をこのサイトの方々は忘れておられるらしい。中国軍による【非戦闘員】の【国際安全地区】への【避難命令】を【無視】して【居続けていた場合】の【リスク】は自己責任である。又【避難命令】が行き届かなかった場合に関しても、それが【日本軍】の責任である訳では無い。

こういった【主張】は、年々【更新】による【変更】をされるべきと考えるが、何時までも【同じ儘】にしておいてこのような安直なイメージを何時までも否定派の【主流】であるという【印象操作】を行っている。
東中野氏の【現在の主張】は知らないし興味もないが、少なくとも【当方】は違う【意見】であり、【一般的な完全否定派の主張として一括りにする】とすることは非常に問題である。

 


【2.ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は日本軍占領直前の状況について】

引用《
ニューヨーク・タイムズ記事(12月19日付)
一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p423)

①ダーディンは安全区の難民数を「10万を越す」とするなど、必ずしも正確な人口を把握していたわけではない。
②少なくとも安全区外に多数の市民が残っていたという認識を抱いていたことは間違いない。
③これは後年のインタビューにおいても確認される(同書p567-568)。
④陥落時に安全区外にいたという中国人の証言も多くある。
⑤日本軍の城内侵入時、市民の一部が中国軍と共に挹江門に殺到し、城外(下関)へと脱出したことがわかっている。
⑥この事実は安全区に避難していなかった難民が一定数いたことを示唆している。


【分析】
①②③によりダーディンは、正確ではないが、【安全区外】に【非戦闘員】が多数居たという【認識】を持っていた。
【ゆう 日中戦争−小さな資料集=>F・T・ダーディンからの聞き書き】から引用すると

引用《
F・T・ダーディンからの聞き書き(2)
日時: 一九八七年八月十四日午後一〇-一二時と翌十五日午前九-一〇時
場所: カリフォルニア州、ガーデン・グローブのウェストランド宅
質問者: 笠原十九司、伊原陽子
笠原:さっそくですが、南京難民区に避難して来た人たちは、おもにどこから来たのですか。
ダーディン:城内と城外の二つの場所から避難して来ましたが、南京の郊外から避難して来た人たちのほうが多かったでしょう。南京城内に住居のある人たちは、自分の家にいれば安全だろうと考えていました。戦闘から逃れるために城内に入ってきた難民たちは、住む家がないので安全区つまり難民区へやって来ました。
もちろん、日本軍の南京占領前に南京から避難していった市民も相当いましたが、ほとんどの城内の住民は、自分の家に留まりました。彼らは最初、日本軍は残忍なことはしないだろうと思っていました。そして二、三日もたてば、すべての片が付いて平静な事態にもどると考えていました。
住民は怖がってはいました。しかし、厳格な軍事占領となるであろうから、全面殺戮などおこるはずがないと考えていました

【全面殺戮などおこるはずがないと考えていました。】と書いているので、実際に【城内】での【全面殺戮】があった認識でいる。
④⑤⑥は【根拠】となる【史料】の提示無し。②の【多数】と⑥の【一定数】は同じ意味に使っている。

【2.ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は日本軍占領直前の状況についてへの反論】
①②③で城南という中国人居住エリアであるとしているが、そのエリアは第六師団、第114師団、第九師団による【中華門】、雨花門、武定門、通済門、光華門という中国軍の【防衛拠点】に近く、山砲・野砲などの【流弾】などが届く範囲である。
因みに、紅卍字会 3,655体、崇善堂 4,648体 合計 8,303体である。この中にどれだけの【非戦闘員(住民)】が居たかは不明である。当方の記事【F・ティルマン・ダーディン/ニューヨーク・タイムズ特電 南京発 水曜日 12月8日】に掲載したダーディン記者の記事には面白い記述がある。それを引用すると、

引用《
南京守備隊の司令官唐生智(Tang Sheng-chih)は、戦場は街へ突入したと重大な宣言をした。全ての非戦闘員は国際的に管轄された安全区に集まらなければならないと命令した。非戦闘員が市内のどこかへ異動する事は禁止された。特別なシンボルをスタンプされた下黄色い腕章を示せる特別に許可された人間を除いて。

とか、

引用《
防衛隊の報道官は、戦闘区域の民間人の避難を強制するのと同様に障害物を破壊したと言った。

という記事の文面がある、【中国軍】は【命令】により【一般人(非戦闘員)】に対して【強制措置】を行ったにも拘わらず、残留していたということはどういう事であったのだろうか。(ダーディン記者が笠原十九司氏のインタビューを受けた1987年の際には【呆け】ていたと言う事であろうか。【記憶に歪み・事実と異なる想像】が見られる。)そう言う状態での13日の南部に入城した部隊により【掃討作戦という戦闘行為】の際【誤認】されて【殺傷】されたとしても、日本軍に何の【瑕疵】があると言えるのであろうか。全く無い。因みに、五万という数値の内、埋葬記録が全て【非戦闘員】だとしても四分の一である。その【殺傷】を【違法】とか【不法】と出来る【根拠】はどこにも無い。

次に当方も人のことは言えないが、このサイトの記述者はどうも言葉の使い方がおかしいようで、②の【多数】と⑥の【一定数】を同じ使い方をしており、一定数が【多数】であると言うことでは無い。単なる【印象操作】である。
⑤⑥の挹江門へ逃げたとされる人間および城壁から城外へ出るために軍服等(便衣を含む)の着衣を繋ぎ併せてロープ状にしたことは良く知られた事実で、兵卒が【便衣】になっている時点で【非戦闘員】区別が付かなくなった為に、【非戦闘員】が交じっていたという【根拠】はどこにも無い。因みに【挹江門前】や【交通省】付近で【退却する第88師】と【挹江門を守る第36師(教導隊)】が【同士討ち】を演じているのを何故記述しないのか不思議である。(*1)

こういう【トリミング】という【トリック】を使われておられるようになかなかの【テクニシャン】である。
この戦後のインタビューでは、【全面殺戮などおこるはずがないと考えていました。(=>全面殺戮を行った)】と言及しているが、この人物は【城内】で【全面殺戮】が起こったと【有もしないこと】を平然と言及している点で非常に【由々しき人物】、つまり当時の【ジャーナリスト】の【本質的姿】を見事に露わにしている。当時ベイツのメモを【裏取りもせずにそのまま書いた】というように、【事実】などどうでもよい、【裏取りしない】ことを【事実】として書く当時のジャーナリストの【ド屑】の代表的人物そのものだと言う事である

 


【3.日本軍に見る南京安全区外の情報】
①『熊本兵団戦史 支那事変編』(熊本日日新聞社)p128-129

引用《
…のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。
》(ゆうサイト【Link】

②第六師団長・谷寿夫の軍状報告

引用《
之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て、覆はれたる状態を生じたのであります。
》(リンク切れにて元サイト不明 http://ww1.m78.com/topix-2/tani.html


【分析】
①②の日本軍による戦闘状況。

【反論】
①は、【平服】から判断したものか、どういう理由で【非戦闘員】と判断したのか不明だが、【敗走する敗残兵】を【掃蕩】する事は【通常】の【戦闘行為】。【非戦闘員】が含まれるとして【見逃せば】【軍命令】としては甚だ問題である。【戦後】の【美談】にはなった可能性ぐらいで【戦果】としては甚だ問題のある行為である。【戦闘エリア】で、【非戦闘員】が【戦闘員】と交じって、【降伏】ではなく、【逃走】を試みた故の【悲劇】と言える。これだけの情報では日本軍に【瑕疵】があるかと問われれば【それ】はない。
②に関して、第6師団45連隊は敗残兵という認識で戦っており、全く何等問題もない【正当行為】としての【戦闘経過】話である。これの何処が【非戦闘員が居た】という【証拠】として掲載されている意味すら判らない。【戦果の結果】を【不服】として【再調査】つまりちゃんと遺体をカウントさせた所、最初の報告よりも戦果は低くなった問い、ある意味【目測】だけでは、【戦果】を過大評価すると言う事になることを示すものだとされている。(*2)

 


①確かに国際委員会のメンバーは、当初ほとんどの難民が安全区に入ったものと考えていた。
②確認したわけではなかった。
③事実として安全区外には多くの難民が残っていたのであり、その実態に気づいてからは認識を修正している。

【4.ラーベの日記(1938年1月17日)】

引用《
昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。〔中略〕南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。
日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。今は道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。
》(『南京の真実』文庫版p216)

こちらがリンクが切れていたので、貼っておく。
【A】安全区外は無人地帯?【東中野氏の徹底検証 8 安全区外は無人地帯?】
http://yu77799.g1.xrea.com/higasinakano92.html
【B】資料:「安全区外」の残留住民
http://yu77799.g1.xrea.com/anzentitaigai.html
【C】「マギー牧師の解説書」より ー 続・安全区外の残留住民
http://yu77799.g1.xrea.com/anzentitaigai2.html


 

【分析】
①②③や【4.ラーベの日記】も、城内の【安全区外】。
【A】
【城内の安全区外】住谷盤根、第三艦隊軍医長泰山弘道軍医大佐、土屋正治中尉、折小野末太郎、南京安全区国際委員会(ラーベも含む)が【城内】の【安全区外】へ【避難をしなかった】の【可能性】がある住民の記述を残している。
【B】
①ダーディンの戦後のインタビューからで、忘却した【記憶】もある。
②ナチスドイツの構成員であるクルーガーのいうボルヒャート、ポーレ、マイアー邸の場所や燕京新村の家々―リンデマン邸、センツェク邸、ブッセ邸の位置が不明。中央路は判明しており鼓楼から中華門へ北へ延びる道で、33連隊の【掃蕩エリア】である。


(出典:偕行社『南京戦史』 P.155 【要図19:歩兵第30旅団(33連隊・38連隊)の南京北部地区掃蕩概況図 12月14日】)

 

③クンスト&アルバース邸には、門番が居たにもかかわらず、殺害もされることもなく、中の財産も大丈夫であった示されている。
④佐藤増次(第16師団第9連隊第一大隊本部先任書記)、戦車第一中隊長・城島赳夫氏、読売新聞、真柄カメラマン、第6師団歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵などの【記録】によって【城内】の他のエリアに【残留住民】が居たことを示す。
【C】
①マギー等宣教師が行った、【フィルム】に【解説を付したもの】という【米国で行った】【プロパガンダ】様のもの。【フィルム映像自体】は【第一次史料】。

【反論】
【A】【B】にしても、【住民】の有る無しで、2020年の状況で、これを【史料】から【否定する】人間は居ない。
【B】については、①ダーディンの回想についての疑問は【記事】で掲載した通りで、【命令】があったことを【無視】して居住をしていたのは、それなりの理由があったと考えるが、それが日本軍により【殺傷】されたかということは【正確度】のある【史料】は存在していない。
②ナチスドイツの構成員であるクルーガーのいうボルヒャート、ポーレ、マイアー邸の場所や燕京新村の家々―リンデマン邸、センツェク邸、ブッセ邸の位置が判らない。中央路は判明、鼓楼から中華門へ北へ延びる道で、33連隊の【掃蕩エリア】である。クンスト&アルバース邸には、門番が居たにもかかわらず、殺害もされることもなく、中の財産も大丈夫であった示されている。
なぜ、④の【N・Y】氏の記述のように、【和やかな状態】のことを【理解】出来ずに、これらの【史料】を【日本軍の不当行為】のたたき台の史料にするのか理解不能である。つまり【非戦闘員】を【識別】して【殺傷】しなかったと言うことの一つの【証左】でもある。

引用《
十二月十三日
茅屋の前に積まれた薪の山の裾がカサカサ動いて土民の一家族が這い出してきた。巧妙な偽装をこらした掩蓋なのであった。敗残兵かと一寸ぎくりとしたが土民なのが判ると、配給されたばかりのビスケットや乾パンなどを与えて、誰もが和やかな気持になっていた。

これは極稀な一部だというのなら、【日本軍の不当行為】を【根拠】として挙げているという【日記】なども極稀な一部であるに過ぎないことになる。
【C】については、マギー宣教師の自己の撮影したフィルムへの【解説】なのだが、南京に残留していた米国のキリスト教の宣教師等が、当時【虚偽の戦時宣伝】を行ってきたということは、当方は【何度も】ブログで【記事】として書いてきた、根拠としては【ソ連】の【工作】として彼らに騙されて(利用されて)日本と米国の関係悪化を狙っていた【工作】に沿った【活動】と言うことが判明している。最も【土下座強要派】の方々は、表だった【ソ連】の活動が無いことを否定されているが【影響力工作】なので【秘匿】はアタリ前と言うことが【教養レベル】でも判らない方々ので【否定】されるが、マギーは当時ソ連人のコラと同居していたし、東京裁判でマギー証言の【一件】の【目撃情報】もその【事後確認】を【ソ連人のコラ】が行っていることを【マギーが妻への手紙】で書いている。(*3)
そして、マギーフィルムの目的だが、フィルム自体が当時を写してはいるが、解説】や【キャプション(説明書き)】はその【状況】を必ずしも正確に【反映】させているわけではない。
判りやすい例で言うと、村瀬守保氏(*4)が撮影したという画像につけられた【キャプション】と絵柄の示す文字が違うことが判るのではないだろうか。

 


(出典:村瀬守保氏『私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集一兵士が写した戦場の記録』より)

又、有名な笠原十九司先生が、誤用を指摘された、朝日新聞のアサヒグラフ昭和十二年十一月一〇日号に掲載された、「我が兵士に護られて野良仕事よりへかへる日の丸の女子供の群」を【「日本兵に拉致される江南地方の中国女性たち、国民政府軍事委員会政治部『日冦暴行実録』一九三八年発行所蔵」】にしていたというものがある。これは当時蒋介石の下にいた【共産党系】の宣伝部隊が作成したネガティブプロパガンダ(*5)による【虚偽】の【写真集】である。
そう言った意味で、フィルム自体の【第一次史料】として【価値】は揺るぎはないが、【解説】などについては、ハッキリ言って【虚偽】であるといえる。
例えば、

引用①《
(一)地方の田舎町や小都市では、何千、何万の人々が暴行され殺されたが、 そこには外国人の目が届いていない。もっとも、真実を語る彼らの言葉がときおり寄せられてはいるのだが。(「ドイツ外交官の見た南京事件」 P167)

引用②《
(七)この男性の家は南門の内側にあった。日本兵が一二月一三日にやってきたとき、かれらはこの男性の二人の兄弟を殺害し、かれの胸を銃剣で刺した。かれは一二月一七日になってようやく病院に運ばれた。この映像は診療所で撮影されたものである。かれは胸をゴロゴロ鳴らしていたが、おそらくもう亡くなっているであろう。

引用①は、デンマーク人の情報(*6)や、ドイツの外交ルートでの北支の状況を元にしているものだが、当然ながら【ガセネタ】である。
石田勇治訳/笠原十九司監修『ドイツ外交官の見た南京事件』を引用を読むと判るが、北支の状況などをビダーという外交官が【南京】と同じよな報告している。

 


(出典:石田勇治訳/笠原十九司・吉田裕/編集協力 『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』【Amazon】

一般に戦時プロパガンダと言うものは、メディアを通じて行われる【虚偽情報】拡散と考えられているが、実際には【外交官】を通じて【秘密情報】として【意図又は不作為にあるガセネタを本国に送る】こともあるのである。所謂インテリジェンス情報。よく【根拠】として使われる日本の石射猪太郎(*7)の東京裁判での証言などは、【ガセネタ】を調べもせずに【信用した】というお粗末な話として【外交官失格】を露呈した話である。
メディア情報としては、当方の前記事【南京事件FQA 【0.「南京論争」の前に=>3.南京事件/南京大虐殺の呼称は何がいいか】への反論】の参考文献に載せたが、ソ連が当時から【世界的大虐殺行動開始】とソ連の機関誌であるタス通信を使って拡散しようとしていた。
【プロパガンダ】というのは、【幾通りかの手法(ルート)】があると言う事を理解しなければならないにも関わらず、何故か存在自体を無視するという有様で、東宝撮影の『南京』をプロパガンダなので【根拠】にならないなどと真逆なことをいう人物も居る始末。
引用②に関しても、南門は中華門のことであり、【激戦地の一つ】である。13日は門内突入後である。この人物等がなぜここに留まれたのか全く不明で、どのような経緯があったことも書かれていない。当時から現在に続くプロパガンダには、【平和】な【通常生活】を営まれていたエリアに【突然武力侵攻】してきた日本軍というイメージを付けるものがある(*8)。当時は戦闘状態で、あり得ない話。これを【真に受ける】人は余程の【人のいい人】ぐらいしか居ない。

 


①日本兵による暴行がより激しかったのは、外国人の目が届かない安全区外の地域であった。
②日本側の記録は市民に対する暴行・強姦・虐殺の事実をほとんど伝えていないが、中国側には安全区外にいた住民の被害証言が多く残されている。



【分析】
①目撃者が居ない、マギーの話でも500名【殺傷】という話が、何故か夏淑琴女史の【近親者】の【猟奇的殺害話】に【のみ】になっている。
②米国宣教師の映像も根拠としての価値は低い(マギーのフィルムは確証が無い)のは前述済み、日本側にあるわけはなく、中国側の【証言】というが多くは【戦後】の本多勝一等の事後数十年立ったものである。

【反論】
①【安全地帯以外】は中立的意味合いの強い、第三国の欧米人の記録も無い。事後である以上警察のような調査能力を当時の安全委員会のメンバーが持ち得て居らず、ほぼ【伝聞情報】で構成されていて、当時の宣教師等の【目的・意図】を考えれば、極めて不適切なものと考えられる。
夏淑琴女史は、【単に正直で】【聞いた事】を述べられているのであって、女史が【嘘】を付いていると言う事では全く無い。詳細は当方の以前書いた記事『南京事件の一つとされる【夏淑琴】事件についての考察』を読んでいただければ、女史の正直で【嘘】など言わない人柄が理解出来ると考える。但し【話の内容自体】は【虚偽】であることは理解出来る。以前、このサイトの執筆者の一人であるK-K(@KKnanking)氏とこの件で、南京での専門的な知見を持って居られるとのことで、お尋ねした事があったが、碌な【返答】が出来ないという笑い話があった。
②【被害証言】というものの殆どが【戦後】のもので、蒋介石vs共産党の戦乱や文化大革命を経た上で、当時の生存者がどれだけ残って居たのかも不明であり、共産党に逆らえる人など皆無であったと考えられるので、このような【証言】の【史料価値】は【極めて低劣】であるものある。有り体に言えば【根拠】としては【ゼロ】に等しい。
土下座強要派のアカデミック村の方々やジャーナリスト、政治家、メディアの関係者、そしてこういうサイトに代表されるような人々及び読んで信じる様な方々は、【地図】による分析が全く出来ない、意図して行わない、理解しようとしないようである。【文面】を追うだけではなく、多角的に【調査・分析・考察】すべきである。科学的検証をするならば、地図上の位置からの動きなどの【検証】は【必要不可欠】と考える。
何故そう言えるかというと次のこのサイトの記事に【欠陥】が現れているからである。

南京事件FQAの次の記事 【城内、安全区以外の市民の被害】

 


【参考文献・サイト・リンク】


(*1)偕行社『南京戦史』(非売品) 第12節 第三国人が見た城内の状況=>中国軍の退却と掠奪放火 P.274 13行目 【Link】

(*2)板倉由明著『本当はこうだった南京事件』 日本図書刊行会(1999/12/1) 第12章 歴史教科書への抗議 その二 中島日記の引用=>水増しの戦果報告の実態 P.374/15行目 【Amazon】

(*3)当方記事『ジョン・マギー牧師(John Gillespie Magee)の目撃してないという妻への手紙』 【Link】

(*4)村瀬守保氏『私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集一兵士が写した戦場の記録』 【Amazon】

(*5)松尾一郎氏ブログ『電脳日本の歴史研究会blog』
この方に言わせれば、当方など【盗っ人猛々しい】という事になろう。全くその通りで、ここでコッソリ【謝罪】と【感謝】を記しておく。

(*6)BBC『南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰』 【Link】
ZF殿ブログ『《補記7》湖山村の虐殺』 【Link】

(*7)石射猪太郎著『外交官の一生』 【Amazon】

(*8)Youtube 【Link】


【参考記事・当方参考記事】
産経ニュース【聞きたい。】池田悠さん 『一次史料が明かす 南京事件の真実』
(事件の半年以上前の)昭和12年5月6日、上海で開催された全国基督(キリスト)教連盟総会における蒋介石の政治運動『新生活運動』への支援決【Link】

当方の記事【1937年 南京事件に於けるティルマン・ダーディン(Frank Tillman Durdin)が目撃したとする記事の部分】【Link】
当方の記事【F.T.ダーディン記者の1937年の南京事件に於ける記事の矛盾点について】【Link】
当方の記事【The New York Times by F.Tillman Durdin 1937 Nov.22】【Link】
当方の記事【F・ティルマン・ダーディン ニューヨーク・タイムズ 特電 南京 12月7日 火曜日】【Link】
当方の記事【F・ティルマン・ダーディン ニューヨーク・タイムズ特電 南京発 水曜日 12月8日】【Link】
当方の記事【秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその1】【Link】
当方の記事【秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその2】【Link】
当方の記事【1937年 NYTダーティン記者等メディア向け渡されたベイツメモ】【Link】



最新の画像もっと見る

コメントを投稿