南京の戦場及び安全区についての理解

2023年12月01日 08時15分00秒 | 1937年 南京攻略...

南京陥落前後に生じた所謂南京事件(南京大虐殺・南京虐殺・レイプオブ南京)を理解する為には南京城の構造や戦場の状況を少し説明する必要がある。

なお、日本国内の議論やSNSなどの口論では南京事件は捕虜及び中国兵の処刑の国際法に準じていたかが論点になることが多い。ただ今回は東京裁判や中国共産党や海外のWikiやブログなど定義である一般人の大量殺害を定義としている。

南京市は、高さ10m〜12mの古代中国帝国によって作られた城壁に囲まれた南京城の内のエリアと、城壁外の門前にひろがる門前街および各地村落と未開発エリアに分かれる。

戦場は主に重要な城壁外の2つの防衛拠点があり、南の雨花台、東の紫禁山と呼ばれる小高い山に中国軍の要塞が築かれていた。

本格的な南京城壁外の戦闘が9日に始まってから、激しい戦闘の後12日夜に司令官が黙って南京から逃亡し、南京防衛中国軍は戦闘に敗北した。中国軍は北部の揚子江側と東の北側などから逃走を図ったが、ほとんど日本軍に殲滅された。(出典:冨澤繁信「原典による南京事件の解明」http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Using-Primary-Sources.pdf


南京を理解する為には、この城壁内の状況と城壁外の状況があるということを知っておく必要がある。

南京陥落前は城壁内部は非戦闘地域で、城壁外部は主要戦場だった。
当時、アメリカ人やドイツ人、イギリス人が、城壁内部の欧米人居留エリアに安全地帯つくった。上海戦でフランス人牧師(Robert Jacquinot de Besange)が作った上海の安全地帯に習って作られた。
彼らは[The International Committee for Nanking Safety Zone]と自称し、彼らは安全地区で約20万人の大勢の一般の中国人を保護した。
そのエリアを管理する上で、彼らは日本軍との交渉や苦情・陳情を行った。
公式文書として、南京安全区檔案(Documents of the Nanking Safety Zone)を残して居る。「檔案」は公式文書の意味である。


有名なジョン・ラーベを始め、欧米人の彼らの情報のほとんどが、その周辺で見たり聞いたりしたことだった。
公式文書には日本軍の不法行為(殺人・強姦・掠奪・放火)が書かれているが、どれも証拠不十分な噂程度の話で、殺人も23件で、53人の被害者に過ぎなかった。
安全委員会の実質的なリーダーだったアメリカ人宣教師・金陵大学教授のベイツは13日から15日までの3日間が最も酷かったと記述を残したり、東京裁判で陳述しているが、公式記録には僅か15人程度である。
城壁外部に眼を向けると、戦闘終了後では地雷や不発弾などがあり危険で、中国敗残兵の掃蕩も行っていたので彼らの城壁外の探索を日本軍も許可をしてなかった。
彼らの情報源は、城壁内部にほとんど限られていた。
一部、デンマーク人のシンドバーグ(シンベア/南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357)という若者が、南京城壁から30km離れた龍潭近くのセメント工場から避難民の陳述書を安全区のメンバーに伝える為に日本軍の来るまで移送されてやって来たが、彼の情報でも9箇所の村で死者は50人程で、彼らが兵士だったのか一般人で戦闘で巻きこまれたのか日本兵による犯罪を証明する証拠は残されていない。(出典:『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店 石田勇治・笠原十九司・田嶋信雄・吉田裕 2001年)
WW2後に日本の政治家や将軍を裁く東京裁判が開かれ、その軍事裁判で南京暴虐事件が告発された。
それによると1937年12月13日から1938年2月6日迄の6週間に、南京の城壁内部周辺で20万以上の【一般人が大量殺害】され、強姦や、放火、掠奪が行われたと【判決(judgment)】を受けた。この判決で重要なのは【一般人の大量殺害】であることで、捕虜や中国兵への扱いではない。


南京の攻略戦を指揮した日本軍の松井石根大将が、防止措置を何もしなかった又は効果のない命令を出した無責任だったという理由で、【犯罪的責任】という聞いたことのない【罪】で【死刑判決】を受け、1948年11月12日に巣鴨プリズン(Sugamo Prison〈East Ikebukuro Central Park〉)で絞首刑にされた。
当時、戦争犯罪という法律は存在せず、唯一の国際法学者で裁判の判事に名を連ねていたパルは、そのことを指摘している。WW1で負けたドイツ皇帝の訴追が国際法では存在しないと引き渡しに応じなかったオランダの対応でも判る。因みに、国際法で【戦争犯罪】が成立したのは1998年で、第23条と第24条はとても重要な事が書かれているので知っておくべきだろう。(国際刑事裁判所に関するローマ規定


東京裁判の【判決】の根拠とされたのは、慈善団体と南京の行政官の一人と数人の個人による情報による埋葬記録だった。
死体がゾンビでない限り自ら動かないのは当然であり、城壁内部で一般人が数万人から20万人も集められ城壁外部へ移動する歴史記録は確認されない。又は大量の死体を城壁外部に運んだ記録も無い。城壁内部で大量の死体を焼却した記録も無い。

有名な侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の江東門は城壁外である。前述した城壁内部に居た欧米人は、そのような情報の記録は一切残していない。


開戦前には、城壁外の村々は中国軍によって焼き払われ、一般人は城壁内部へ避難を強制された。安全区に避難した一般人は、そこから外出する際は黄色の腕章を付けなければならず、特別な許可証を中国軍から発行してもらう必要があった。
そのことは、陥落3日後12月15日迄滞在したNYTの記者(F. Tillman Durdin)が記事にしている。


前述したデンマーク人が南京安全区にもたらした陳情書には次のように書かれている。竜潭から太平門、南京までのおよそ25キロの間にある全村落と約2000戸以上の家族、数千軒の家屋が焼かれた。東陽鎮から中山門、南京までのおよそ30キロの間にある全村落と一万戸以上の家族、一万軒以上の家屋が焼かれた。
彼らの陳情の内容では、日本軍によって焼却されたことになっているが、中国軍によって焼かれた状況を日本軍に責任転嫁させた情報工作(ニセ情報)だったと考えられる。
大量殺害の証拠である埋葬記録の内、城壁外部で大規模埋葬を行った団体が、崇善堂(Chongshantang)という慈善団体だった。
11万近い途方もない埋葬を僅か1ヶ月程度で行った。正確には日数は25日間だった。


しかし、この団体の行動記録は当時の日本軍や欧米人の記録には見ることは出来ない。東京裁判の証拠でも詳細はほとんど掲載されていない。
彼らは秘密裏に、日本軍に邪魔されることなく、埋葬を行った事になる。
この意味は、仮にそれらの死者が存在しても、少なくとも南京暴虐事件での期間に殺害されたかは不明であり、通常考えられるのは戦闘での死者だと言う事になる。
日本軍が関係した別の埋葬団体の記録からも、城壁内部は確かに埋葬記録はあるが、城壁を守る中国兵も日本軍から攻撃されて死んだ者が少なくないので、ほとんどが戦闘及び巻き添え、同志討ち(friendly fire)、怪我(上海及びその途中での戦闘で負傷した中国兵、日常での事故を含む)、病気、餓死、寿命(lifespan)だったと考えられる。
崇善堂の活動は、1984年に歴史家の阿羅健一氏(Kenichi Ara)が中国の歴史記録を発掘したことによって、当時活動していない団体だった又はとても微弱な活動だったことが判っている。(出典:「崇善堂」の埋葬記録 虚偽と証明 https://nanking-shinjitsu.com/2023/02/07/%e3%80%8c%e5%b4%87%e5%96%84%e5%a0%82%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%9f%8b%e8%91%ac%e8%a8%98%e9%8c%b2%e3%80%80%e8%99%9a%e5%81%bd%e3%81%a8%e8%a8%bc%e6%98%8e/
とても単純な話だが、これ等の情報を知らない人や状況を理解せずに南京事件に付いて述べる人が多いので注意を促す。



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