1937年 南京事件に於けるティルマン・ダーディン(Frank Tillman Durdin)が目撃したとする記事の部分

2017年03月16日 14時33分51秒 | 1937年 南京攻略...

【ダーディンが目撃したとする記事の部分】 


  • 湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。少年たちは年齢10から12歳、軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。南京東方の村落はどこも無人の巷と化していた。住民は守備隊に代わられ、公路上には難民があふれている。(1937年12月7日 特電)
  • この特派員はその日早く一緒に戦った数名と日本の非常線を抜けて丘を下った偶発的運命で生き残った者とこのユニークな戦争のエピソード最終段階を目撃した。(1937年12月9日 特電)
  • 本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、事前に避難しなかった住民は、その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。(1937年12月8日 特電)
  • 広間と中庭が連なる迷宮「朝天宮」は、ほぼ十年にわたって兵工廠または軍の集結中枢の役を果たしてきており、最近は周囲の近代的兵舎とともに重要な駐屯軍の中枢、武器庫になっていた。寺院のある丘は市内でも最も人口稠密な地区の中心にあたるが、その一般住民の多くはまた安全区に避難していない。太平路が商業中心である。南京の住民は金曜日に比べて緊張も解けパニック状態もなくなっている。日本軍の城内進入撃退によって、中国軍が攻撃軍に十分持ちこたえているということを立証したからだ。現在の気持ちは一種の諦めであって、何千という人々がまだ安全区に避難しているが、彼等の恐怖心を表わさず、いかなる戦禍をも耐え忍ぶ用意があるかに見える。下関門(悒江門)は朝方再び明けられ、一日中、自由通行が許された。門は夕方早くにはまた閉じられた。(1937年12月12日 特電)
  • 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の二、三時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。(1937年12月18日 特電)
  • 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら治療を求めていた。(1937年12月18日 特電)
  • アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。興奮した大使館の使用人からこの侵入の知らせをうけて、バラマウント・ニュースのカメラマンと記者は、大使の台所にいた日本兵五人の前に立ちはだかり、退去を要求した。五人はむっつりしながらおとなしく出ていった。彼らの略奪品は懐中電灯一本だけであった。(1937年12月18日 特電)
  • 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。(1937年12月18日 特電)
  • 頑強な連隊がいくつか、月曜日(13日)になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者は脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。(1937年12月18日 特電)

 

ゆう氏戦争犯罪ドットコムにあったダーディンの記事を調べたところ。
ダーディンが、目撃したというのは、記事中9箇所ぐらいのようです。
ダーディンは割りと正直で自分が見たことはわざわざ記者と入れて居ることが多いので分かり易い記事でした。
ただし、8日、9日は湯山へ前線取材に言って居るので記名が無くともダーディン目撃と考えられる。(城門は6日からほぼ全て閉鎖され、下関や一部の門で少しの隙間が空けられて一般市民はほぼ出入りは出来なかったと考えられる。しかし、この情報が正しければ12日の下関の挹江門のみ出入りが自由と言う事となる。)
★朱文字は、ダーディンの主観や脚色と思われる。


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