今日は早番出勤なので06:20分起床。
まだ夜中のようであったが朝食。しばしベッドで休息して07:15分に車に乗り込む頃は明るくなっていた。
帰社は17:00過ぎにぴったり8時間労働して帰宅につくが 今日は天気が良かったので 17:00でもまだ夕焼けが見えた。
久々に同級生が経営している 割烹で フグのコースを食す。和歌山ではあまりフグ料理は食べれないが 最後の雑炊ではお腹が一杯でした。
今日は冬至なので ゆず湯に浸かり明日あさってと連休で今年最後のゆっくりした休日が過ごせたら・・・と願います。
30日にも休めれるけど やはり年末は気ばかりあせって 落ち着いて過ごせません。
明日は掃除がメインになるでしょうか?身体を動かしてカロリー消費に努めたいと思います。
UAEで開催されたFIFAクラブW杯2009 決勝戦は 今年も欧州VS南米のクラブで世界一の座を賭けて対戦。
今朝 07:00に起きて出社までに録画で観戦したが 南米王者 エスツディアンテスの堅守を耐えて 後半残り1分に同点に追いつき 延長戦で エース メッシの決勝点で2-1.で 欧州王者の バルセロナがクラブ世界一に輝いた。
リードしていた アルゼンチンのエスツディアンテス デ ラプラタは 世界一まであと数分というところで 果敢なくも夢は消えたが 円熟味を帯びた ベロン選手指揮下で 若い選手は持てる才能を 十分発揮できていたかに思えたが 後半の残り数分を守り抜くという経験値が エスツディアンテアスの若手には少し足り無かったのか?
それともバルサが1枚上手だったかは この試合を観た人のみがわかること。
1985年の ユベントスVSアルヘンチノス以来の名勝負に思えた。
エスツディアンテスは1点を取りその後は堅守を努めたが バルサのエース メッシ選手に殺し屋的 マンマークはつけなかった。
アルゼンチンの守備は その昔 ラシン、エスツディアンテスが優勝した インターコンチネンタル杯(旧トヨタ杯の前進)では激しいラフプレイの守備が見られたという逸話があるが 今年の エスツディアンテスは メッシに特別なマンマークもつけず その昔 アルヘンチノスが プラティニをゾーンで守ったことからも アルゼンチンのゾーンディフェンスの意地が見られたかな?
でももちろん ある時点では メッシ選手にマンマークで付いていてもスピードで外されるのは 当たり前であることは 監督 選手ともわかっていたこと。
決勝点は バルサの得点パターンの練習を見ているように思われた。
思い起こせば 1992年 日本の国立競技場で開催された TOYOTA CUPに欧州代表で 初来日した FCバルセロナは ブラジルのサンパウロFCに1-2で敗れ 世界一を逃した。
この年のTOYOTA杯は 国立競技場で観戦したサポーターは一種独特な雰囲気を味わった試合だったであろう。
1992年の決勝 当日11:00過ぎに友人と 地下鉄信濃町駅で待ち合わせたが 日本人と思われる顔立ちの人から聞こえてくる発する言葉が 全くわからない・・・
それは 日本在住の3世ブラジル人 サンパウロのサポーターの発するポルトガル語であった。
明らかにブラジル人 在日の日系サポーターと思われる席のど真中に座った私たちは ”これは サンパウロの応援でもしないと どういう目に合うか・・・”と覚悟した2時間でした。
案の定 試合開始早々 サンパウロの得点、 バルセロナの同点弾、”ライー” のサンパウロの決勝点と 優勝後のセレモニーの凄さは 過去大会のそれを凌ぐすさまじさだった。
周りの席に座っていたサンパウロのサポーターのほとんどが 競技場内に 飛び降りて凄いセレモニーになりました。
当時の 監督 ”ヨハン クライフ” の采配と オリンピック代表だった グラルディオラ選手 (今回の監督) ブルガリア代表のストイチコフの活躍には 興味深い試合だったが 世界一は逃した。
近年 試合方式も ”FIFAクラブW杯”となり 第二回大会で 欧州王者 バルサは ブラジル ポルトアレグレの名門インテルナシオナルに屈し 世界一裕福なクラブも 2大会連続苦杯を舐められた。
それから 3度目の正直を目指す軍団は 2009年12月19日 クラブ創立110年目に 今回 やっと クラブ世界一の称号を与えられた。
昔からの スペインなぞなぞ?
”レアルにあるのに バルサにないものは なーーに? ” とういうマドリーが カタルーニャを皮肉った この言葉は 今日から消えたであろう。
何はともあれ バルセロナ 世界一おめでとう。特に応援していたわけではないですが 今回 優勝すべきチームでした。
そのうち CLでミランとバルサの決勝が観たいです。