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台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

393 人は、大舞台を乗り切ると、

2013-04-26 10:19:47 | 台湾
大学時代落語研究会に所属し、練習・練習・練習。一週間、6回ちょうどお昼の12時から一時までが練習時間。当時の演技部長が大体、その週のだれが、上がるか指図します。
例えば、私の出番が木曜日だとすると、前日までに、何を演じるか、何分ぐらいかを報告します。大体一日五・六人ぐらい。一年生だと、小噺だと、一年生と二年の誰と誰。
次の日は、と言うように月曜日に一週間の予定を発表。それに併せて、練習。
もちろん、うまい人とヘタは、いってこいほどの技量の差があります。そりゃ、もう持って生まれた演技力。うまい人の落語には、「ちから」が抜けている。けっして、大げさにせず、自然と笑いが起こる。ヘタは、妙に笑いを取ろうとするから、「ちから」が入っていて、・・・。墓穴を掘る。大体私は、後者。
 一番うまいのは、「標」。標と書いて、「しめぎ」と読みます。こいつは、うまい。プロになれるレベル。ただ、余り一生懸命は、やりたい思わないのだと思う。やれば、そこそこの落語家になっていたことだろう。私たちの部員数は、時代によって異なるが、大体、四十~五十人ぐらい。四年生になると、そんなに部活に出てこない。もちろん、出てきてももちろんOK。一年生は、募集して、大体十四人。そのうち何人かは、止めることもある。私の同級生も、こりゃ、俺に向いていないと辞めていきました。 辞めるのは一年生の内が一番。だいたい、そうなっているようです。一年耐えた奴は、雰囲気に慣れ、生活を楽しんでいるようです。先輩・後輩の区別は、とても厳しい。普段、先輩にためぐち何かしたら、もう、殴られます。基本的には、殴る様な人は、極く少数。私は、一度も殴ったことはありません。もちろん、その立場でやっいることが多い。これも一つの役割分担。
 一年に二回公演会。六月と十一月。演じては、十人ずつぐらい。六時開演。九時閉園。
3時間で十人。一人約10分~20分。三年生を後半にして、大体演技部長と部長が一年間の演じ手を決めていきます。私は。二年生の時、「孝行糖」という与太郎者をやりました。
そして、三年の秋に「火焔太鼓」。大体、みんな四つか五つぐらい自分の好きなネタを持って居る。その中から、周りとダブらないように、配慮して決めます。
 もう打ち上げは、大変。みんな演じ手に酒をつぎ・・・・。その日は、感動に次ぐ感動。
こう言うのは、やった人でないとわかりません。もう、そりゃいつも大変。一度は、救急車呼んだことがあります。栗村という日本放送でアナウンサーやっている奴。たしか、私の二年下でした。いろんな奴が、それぞれの個性をぶつけ、「落語」に息吹をふきこむ。
簡単なようで難しい。けど、面白かった・・・。若いからできたようなもの。発表会を終えると、もうその人の芸、といえるしろものではないが、人間的な幅が生まれます。本人にも、自信のようなものを感じながら、舞台に立てるようになる。いろいろ慰問や呼ばれての企画でやることがあっても、一度「大舞台」を経験すると、・・・こなせるようになる者だ。ただ、すべてのことには、上には、上。当たり前の話。
 落語に出会い、変わったことは、『ドモリ』が大学一年の夏で、ほとんどわからないレベルに・・・。卒業時期は、気づかれないレベルへ。もちろん、あわてて話そうとすると・・・、たまに戻りますが・・。後は、その個性的な生き方。実に個性的。大学八年生も居ましたから・・。福田は。六年生まで。一人一人の人間性がよくわかりました。まさに、
裸のつきあい。友達と呼べる親友がたくさん出来ました。ま、人間を見る上でこんなに面白い連中もありません。後日その個性については、触れます。ま、楽しければ、何でもし、怖い者しらずの所がありました。正に、青春。今も楽しいがあの頃は、格別。若さ。馬鹿さがあったから。
                           再見。



392 ブログ、今日は、卒業公演を見ていました。

2013-04-26 00:32:04 | 台湾
 治郎張、卒業公演。どこのですか。私は、今、「南強工商」高校の近所に住んでいます。
その生徒がくれました。初めて、新北市板橋区荘敬路62号に行きました。わかりやすい公演でした。
タイトルは「一路上有您」と言う劇を見てきました。約2時間みました。どうだった。そりゃ、面白かったです。
自分も大学時代中央大学で、「落語研究会」に入っていました。もちろん、卒業公演ありました。
私の芸名「三流亭C朝」と言う芸名で・・・。何を演じましたか、「火焔太鼓」という落語。大体,25分話しました。私は、少しだけ,延びました。どうしてですか、
 だって、最後の落ちに中々行かないから、・・・。なんかおなじことずっーと繰り返し、繰り返しやっていたようです。
 おれだって、焦りました。だって、終わるはずものが中々終わりません。たから、三分延びました。
 お茶の水の日仏会館と言うところでやりました。五百人ぐらいは入れる施設。今は、大学が、八王子だから・・・、 
 後輩達がどこで卒業公演しているか知りません。
 終わった後が大変。だって、「スズラン通りのお店で酒を飲みます。三合までは、覚えています。その先は、・・・」
 今までで、いちばんお酒飲みました。
   朝になって、池袋の西口か東口で酔いつぶれていました。もちろん、学生服は、ゲロだから。すいません汚い話で。
 まー私の青春時代を思い出しました。当時、21か22歳。若かった、あの頃・・・。
 落語やると、度胸就きます。だって、当時は、学生ですから。失敗しても、命まで取られません。
 落研の連中、みんなこんなもの。一人残し、「世話ねぇ、じろうの一人や二人いなくなっても、」
「大丈夫。あいつは。生命力強いから・・・」そういっているのは、部長の福田あつしでしょ。こいつは、佐賀県生まれ、唐津。
いろんな奴がしました。大学時代は、落研の連中と、年中一緒。とくに、福田。標。本多。石井。小野沢。柳井。白藤。松沢。
こんな良い連中といつも、酒飲んだり、麻雀したり・・・・・・。当時は、面白いことなら、何でもしました。
一度なんか、北の丸公園で「パトカー」に追いかけられました。逃げたから、良いモンだけど・・・・。
北の丸公園は、とても良い遊び場。だって、夜になるとアベックが来て、いろんなことをしています。
それを見ていたら、パトカーが・・・。当たり前。そういうのを「のぞき」といいます。
知らなかったのですか、知って居ました。わかって居たから,逃げたんでしょ。
                           
それで、治郎張捕まったことは、ない。落語は、受けましたか。生涯で一番受けました。だって、会場には、五百人いる。
俺の落語を聞いて、笑ってくれました。そり以来、人前に立つことは、そんなに怖くなくなりました。
それが、教師としての自信に繋がり・・・。
現在は、台湾に生活しています。もうすぐ日本に帰ります。
ばいばい。
                                            再見。

391 ブログ391 もったいない。

2013-04-25 17:39:41 | 台湾
この言葉は、世界的に有名な日本語です。
私は、今日本語教師になろうとしているから、言っているのではありません。
今、日本に、「ひきこもり・ニート」がたくさんいます。
その人達に、いいたい。あなたが方は、自分の値打ちに気づいていません。
「風の日も、雨の日も、○●ゆく季節の中で今日の別れ」
これは、埼玉県秩父の先生が作った卒業式の歌です。もしかしたら、聴いたことがありますか、もうこの歌が生まれて、十五・六年~二十年は、経つと思うのです。
あなたの年令は、おいくつですか、31・2歳。人生は、人世、仁政、人性、靱性。一杯他の字を書けますが、今、生きていますか。いきている。本当に。
それで、何故引きこもっていますか。
いろいろありましたか。勤めてから、・・・・。そりゃ仕事は、休めません。同僚も休まずに着ています。同僚から、「意地悪を言われ・・・。」そうではありません。上司から「リストラ」されました。けど、気にしない方が良いです。だって、その会社の都合で、
「リストラ」しただけ。あなたが一番、首にしやすかった。だって、あなたは、独身、お父さん・お母さんと一緒に生活していたから・・・。
こいつを首にしても生活に困らないと思い、上司は、・・・、だけ。
 あなたの能力が低いとか、あなたが必要無いと言うことではありません。
あなたは、いろんなことが出来ます。あなた、性体験ありますか、。ない。
いいですか、人生には、楽しいことがたくさんあります。
 私の知って居る人で、学校の先生していた、「あなたと同じ症状かわかりませんが、
その先生は、直りました、
なせか、彼女お母さんになりました。今、歩生君と華那ちゃん の母親になりました。」
名前等は、いえませんが、下の名前「真弓」といいます。
私と最初に接したのは、美里町の新職員同士で出会うところ。美里町役場で会いました。
この人少し、変だと思いました。だって、「人の顔を見ずにいました。」
そして、彼女が顔を上げたのは、私が同じ、学校に勤めると聞いてから・・・。私と逢った時は、二二歳です。私は、何もしません。彼女の持って居る本来の力を・・・。
自分で取り戻しただけ。
 現在彼女は、今、二七・八歳。元気に先生しています。もちろん、○●学校に。学校名は、秘密。ミミ。
 だから、大丈夫。病む時もあります。けど、君だって、お父さんにも、お母さんにも成れます。
 成った方が、責任を持ちます。親の気持ちがよくわかります。
結婚しろなんて行っていません。結婚には、相手もあるし、働かない人は、結婚一般に出来ません。もちろん、あなたの親が・・・金持ち・資産家・大金持ち。
または、あなたの貯金が三億円位ありますか。または、外国債をたくさん持って居る。株券をたくさん持って居る・・・。生活出来るだけの、お金を・・・。
そういう人は、働かなくても、大丈夫です。
一般には、そんなにオカネ持ちたくさんいません。だから・・・。ま、ゆっくり考え、病気を治してから・・・。けど、あなたは。本当に病気ですか。私には、自信を・・・・。
に見えます。誤解ですか。
「病は、気からと言う言葉」もあります。
「もったいない。」
再見。

ブログ390 教師の仕事は、・・・。

2013-04-25 03:02:50 | 台湾
人と出会い、教わることの多かった私。いろんな人から、いろんなことを教わりました。
三十七年間。教師をして良かったと思います。先生方・生徒・保護者その他いろんなことにお世話になりました。決して、もう人生が終わったわけではありません。後のこりの人生は、社会の人へお礼のつもりで・・・。一つ一つ積み上げ生きていきます。
 与野東中では、教師としての「いろは」を長島先生・龍ちゃん・サブさん、水谷さん・
田中さん・児玉さん・鳥羽さん・島田さん・町田さん・佐藤ようさん・黒沢さん・黒木さん・小島先生・山本さん・・。きりがありません。 先生方、生徒もたくさんいます。
とにかく失敗ばかりの私を優しく・時に厳しき・時にふざけ。時に・・・。いろんな思いであります。わたしにとって、この十二年間は、宝物でした。今でも、与野東中にいたことを誇りに思っています。
 次に勤めたのは、上里中。先日、「ブログ」に悪口を書いたように感じるかもしれません。こんなことは、ありません。初めて、シンナー小僧とも、低学力ではいけない・生徒には、学力を付けなくては・・・。学校を休む生徒とどう接したらよいかをお教えてくれたのもこの学校です。親が居ない、親が居るけど、育てられない生徒と接したのもこの学校です。ありがとう、元気に・・・。
3番目は、つい最近、書いたばかりの、本庄西中。この学校は、真面目と不真面目がごちゃごちゃいる。悪戯好き。どちらかというと、下町の様な感じの学校でした。楽しかったです。ここに5年間。
 次は、上里北中。この学校は、与野東中のようなもの。生徒も親も「品」がある。
ツッパリもかわいい。みんな気の良い生徒達。先生かたも、個性的でした。これも、書いたばかりだから。個々で初めて、障害児教育をすることが出来ました。最後の3年間、ゆうきありがとう。七年間でした。とても毎日幸せでした。
最後は、地元にも取りした。美里中学校。四年間。
この学校でも、障害児教育、PTAの仕事をやらせていただきました。校長さんには、年中叱られていました。上里北中と同じ校長なのに・・・。
ま、その話は、置いておいて。
 やはり地元は、大変気が抜けない。だって、いずれ、住民として、つきあわねばならないから。結構、気を遣って頑張りました。
 なんども、言うが私は、年中感動すると、泣いていました。演技でなく、どこの学校でも・・・。恥ずかしいとか、計算して・・・、全然ありません。自然に涙が出て・・・。
つくづく、教師という仕事は、「やりがい」「いきがい」の多い仕事。
生徒の未来を託される、大切な仕事。ありがとう。
卒業生の皆さん。私は、台湾で皆さんの活躍を応援しています。また、旅行の際は、一応ご連絡ください。仕事のない限り、お相手します。
 良い仕事で、良い生徒に、良い先生方に、良い保護者に、出会えて。
ありがとう。謝・謝・。

389 ブログ 同窓会・クラス会が一度もない学校。

2013-04-25 01:24:17 | 台湾
私は、昭和63年に与野東中から上里中へ移動した。9年間この学校で勤務しました。
この間多くの卒業生を出したが、成人式後に最初に卒業させた生徒が開いた会が最後で、一度も、クラス会、同窓会がない。前にほかの先生にきいたが、みんな同様ないとのこと。
どうしてだろうと考える。不思議です。どこの学校でも、一度や二度は、あるのに・・・。
もう一つの上里北中では、すでに何回か開かれているのに、本庄西、美里中。最初の与野東も。
 簡単に言うと、教師と生徒のつながり薄かったのかもしれない。だって、卒業後、クラス会・同窓会やるのは、ものすごい時間・労力がかかる。わたしも、かつての高校の同窓会幹事をした経験からすると、卒業生300名ぐらい。それに先生方、まず、現住所さえわからないのに。名簿作りが大変。まして、今個人情報保護ということで、学校は、絶対に教えてくれない。やっていくうちにわかることだが、一つがわかると、それに関係する人間がまた、三人四人と少しずつパズルを解くようにわかる。6割から7割の名簿が完成すればたいしたもの。わたしの幹事をしたのは、平成15年位と思う。
だから、私は、上里中の生徒を覚えていないかというと、そんなこともない。かなりの生徒を覚えている。けど、全く・・・。何人か、年賀状ぐらいは、行き来しているが
けど、何も連絡の無いのも寂しいもの。 他の学校では、五年・十年に一度ぐらいは、開かれているのに・・。
 上里という地域性・・・。そんなこともない。もう一つの学校は、適当にやっている。
 いろいろあるのだと思う。リーダーがいない、やりかたがわからない、面倒が多く、得る者がない、お金・時間・労力が掛かる。自分の生活で一杯失敗なのかもしれない。
今、例えば平成四年度卒業生は、年齢、36歳・7歳ぐらいか、子育てに忙しい時代かもしれない。人間忙しいと、いろいろなめんどくさいことは、後回し。きっと、これからもないかもしれない。
それと、こっちは招待ばれる立場。お前達同窓会やれとけしかけるわけにはいかない。
一人一人の思いが、なかなかかみ合わない。それと、やはりリーダーがいないのだと思う。
たしかに、そこそこ良い生徒だったが、人を引っ張る強烈な生徒は、余りいなかったように思う。こういう企画・実行には、リーダーは、欠かせない。適任者が居ないと、成立しない。
 ま、みんな元気に生活していれば良しとする。いろんな学校・いろんな地域特性があるから、特別ンでもないか・・・。
当時、結構若かったから、この学校を乗り越えられたが、経験が浅いと、この学校は、務まらない。そういう意味では、「教師の道場」。
世の中の縮図。社会の問題を一番子供が映し出す。それを肌で感じることが出来る学校でした。生活指導しても・しても際限なく続く・・・。けど、それによって、教師としてのフットワーク、足腰等を鍛えるのは、とても良い学校。
埼玉県には、400以上の中学がありますが・・・。教師生活がどんなにやりがいがあるかを一番感じさせてくれる学校でした。
再見。