台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

プログ16  母親の贈り物。 

2012-09-19 18:44:50 | 台湾
私の母は、1924年生まれだと記憶しています。もちろん現在生きていません。私の心の中で充分活きています。
 私は、幸せな男です。6人兄弟の末っ子で、最後にお袋の乳房を1番多く吸っていました。母親が40代ぐらいの時、私に大きい乳房を見せて、『これは、治郎がいつまでもおっぱいを吸っていたから、ばい菌が入り、傷が化膿したんだ。』確かにお袋の乳房の処に傷ができていました。
 末っ子というのは、母親の愛情を1番強く受けました。(これは、我が家のみ。)母親は、高等小学校まで、教育を受けたようです。女学校も行きたかったそうですが・・・。杉戸町の田舎の娘の長女。5・6人の妹弟がいたようです。堀切のおばちゃんだけが近所に住んでいたので、しっかり覚えています。
 とにかく、彼女は、私に充分な愛情だけは、たくさんくれました。おしゃべりで・口八丁・手八丁の根っからの商人という感じです。我が家が生活できたのも、彼女が当時『闇米』という商いをしていたからです。とにかく、いつも元気に働いて、人に親切・少し
お節介気味でしたが・・。姉御肌のとても・とても善人でした。
 たくさん想い出ありますが、現在では、信じられない想い出を二つ話したいと想います。
一つ目は、名前は、『次郎』。本当!!。  
私の名前は、15歳まで『次郎』でした。私は、15歳の時、初めて自分の名前が「治郎」だと知りました。それは、高校へ入るため、戸籍抄本というものを高校へ送るため、自分の戸籍を見て、難じゃこゃ????。こんなことってある。
ま、何かの手違い?。
だって、小学校・中学校の通知表ずっーと『次郎』だったよ。えー。俺も、何で
4男の俺が「次」なんだろう。けど・・・。不思議というより、親は、余り通信簿
など、見ていなかった。見るゆとりが・・。ま、これは、自分にとって、晴天の霹靂。
ま、俺が納得すれば・・・。
二つ目は、お袋は、親父の前に結婚していた。その子が2人の姉と兄貴。畑違いの兄弟。
その他の4人は、現在の父親の子であった。ここまでは、許せるが、次に、親父と
母親は、一度離婚をして、もう一度同じ人と結婚していた。俺は、幼すぎてその間
の事情は、姉と兄に聞いた。落語みたいな話信じられる?

私は、お袋からたくさんの愛情①「情」を頂きました。貧乏でも、愛情だけは、
金持ちに負けないものを持っていました。私が「泣き虫」なのは、お袋の影響
だと思います。②働くことの大切さ③お金は、稼ぐもの。貰うものではない。
④モラル(人の物を盗むな・倫理。)
私が母親から、一度だけ殴られたことがあります。それは、小学校四年で兄貴と
一緒に上野の「赤札堂」というデパートに行ったとき私が魔が差して、鉛筆二本
万引きしました。、捕まったとき、お袋にこっぴどく殴られました。私は、泣いている
お袋をまともに見られませんでした。泣きながら「お前を泥棒にするために、
育てているじゃないんだ。・・・。鉛筆が欲しければいつでも買ってあげる・・・。
そういいながら、したたか私を殴りました。わたしは、「ごめんなさい。ごめんなさい。」
何度も謝りました。
 人間って、不思議です。50年も前のことをホントに覚えている。
まるで『映画』のシーンでも、見ているような想いです。もちろん、
これを書きながら涙しています。その後、私は人の物には、手を出して・・・?
再見。