そんな僕が好き

アディクションとかその他日常の事

アディクションの治療とは

2007-05-30 13:37:50 | アディクション
さて、遅くなりましたがパコ日記の一債務者さんへのお答えのスケゾウ(旧一債務者)さんのコメントの質問「治療とは何であるか?」の答えです。

>「治療」とはつまり「過去の自分との和解」もしくは「過去の出来事の克服」だということですか?

うーん、これは答えが難しいですね。

まず「過去の自分との和解」ですが、これが自己肯定感を持つことであるのなら、これは治療の結果として生じます。ですが、「自己肯定感を持とう持とう」と思ってもうまくいきません(無意識領域の問題なので、意識では変更不可能)。あくまで治療をやっていくうちに気がつくと自然に身についているものです。

次に「過去の出来事の克服」というのは、過去の出来事が終わった事になるといういみなら、治療の結果これは起こりえます。終わった事になるというのは、過去のその出来事を思い出しても、それによって心の傷が疼くという事がなくなるということです。変な例ですが「1万円盗まれた」というときに、最初の頃はその事を思い出すと悔しさやら怒りやらがこみ上げてくるでしょう。しかし時が経つにつれて、「ああそういう事もあったね」位にしか思わなくなるでしょう。これが「終わった事になる」という事です。なお、これも無意識領域の問題なので「克服しよう克服しよう」と思っても出来ないのは自己肯定感と同じです。

結局どちらも治療の到達目的というより、治療の結果として得られるものでしょう。

>それと要するにどうなればいいのかというと逆に自分に対し常に「肯定的な思考」もしくは「自己否定的な考えの排除」が出来るようになれば問題無くなるのですか?

これも上の話と同じで「自己否定感」は問題の根源ではなく、根源から現れる症状です。風邪を引いて鼻水が出る事を例に挙げると、鼻水(自己否定感)が出ると言う症状は風邪の原因ではありませんよね(風邪のビールスに感染したのが原因)。ビールスを免疫がやっつければ、鼻水も出なくなります。

>「治療を続ける」という意味は定期的に「肯定的な思考」を取り戻すということですか?

これはNoでもあり部分的にYesでもあります。

本質的な治療は、未充足の甘えの欲求を充足させる事になります。その結果とし「過去の自分との和解」「過去の出来事の克服」が起こり肯定的な思考を取り戻すのでしょうが、それはあくまで結果であって目的ではありません。
本質的な治療の方法は、このブログのアル症の治療で書いている手法になります。ただ、これは母親もしくは妻の立場の人の協力が必要で、かつ、1/3の人にしか効果がありません。この方法は基本的には完治しますので、治療を継続する必要はありません。この方法論からすると、質問の答えはNoになります。

次に行い得るのは、変な言い方になりますが「甘やかしを適切に行う」方法の習得でしょう。実はこれはGAなどの12ステップグループで行われていることになります。この方法論から言うと、質問の答えは部分的にYesです。

そしてこの方法論は基本的には宗教が持っている構造と共通しています。ある意味AAやGAなどのグループは特定の依存症の対処に特化した宗教、あるいは宗教の方法論を特定の依存症に使えるように加工したものと言えるかもしれません。
AAやGAを宗教と言うと反発もあるでしょうか、宗教と似た構造を持っている、宗教ではないが信仰であるといわれれば、その通りとうなずくメンバーは多いでしょう。
この方法は甘やかしであるという特徴から「満足しないので継続した充足が必要」です。グループ療法が基本的に「一生通い続ける」必要があるのはこのあたりの事が原因だと思います。グループに通いサービスをすることで自己肯定感の継続的な充実がおこなれるというのがグループ療法の重要な柱の一つになっています。


最後に、聞かれてませんが現時点でスケゾウさんが「自分はギャンブル依存だ、何か対処法は」と考えられるのであれば取りうる道はいくつかご紹介して結びとします。

1:GAに行ってみる
とにかく行ってみることはマイナスにならないと思いますので、最低6回は行ってみることをお勧めします。なお、GAはオープン(依存症者本人以外でも出席可)があるはずですので、自分はギャンブル依存かどうかがわからない場合はオープンに出る事も可能です。GAは無料です。

2:医者に行く
ちゃんと依存症の事を理解している医者に行く事をお勧めします。これは継続して医者にかかるつもりも必要もない場合でも、いざと言うときの命綱を増やす意味で有効です。まともな医者探しはGAに行ってミーティング終了後に出席者に「一個人としての意見として」お勧めの医者を聞くのが実は手っ取り早かったりします。精神科ならば保険診療が可能です。

3:まぶい分析学の手法でやってみる
奥さんもしくは母親にやってもらえるのなら、又吉先生の方法(まぶい分析学)の方法をやってみる価値があるでしょう。相談は無料ですが、ネット講座は有料です。相談は本ブログのブックマークにあるまぶい分析掲示板から行えます。

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血筋正し(シジタダシ)と妊娠

2007-05-22 13:11:16 | 沖縄の祖先崇拝
前に沖縄に行ったときに見た事の話を書きました。
沖縄の祖先崇拝:御願(うがん)
沖縄の祖先崇拝:ユタ

実はそこでは触れてなかったのですが、もちろん私も沖縄でユタと呼ばれるある種のシャーマンに見てもらいました。私が勉強している又吉先生の理論は、このユタの研究から得られたものを多く取り入れています。

私を見てくれた人はかなりの高齢で、かつては実験的に米軍基地の米兵を見たことがあるそうで、その時の興味深いエピソードなども聞かせてもらいました(いずれ機会があったら書いて見たいと思います)。

ユタの先生ですが、ユタだから仮にU先生と呼びましょう。U先生に連絡をしてお宅に伺ったわけですが、見た目は普通の沖縄のおばあさんです。年齢はわからないのですが、戦時中の思い出話を聞く限りでは少なくとも70は超えているはずです。

私もユタの話はいろいろと聞いていたのですが、実際面と向かうと何を聞いていいのかわからなかったのですが、一緒に行っていた妻が「子供を授からないのですが、どうしてでしょう」という質問をしました。

質問を受けると、U先生は神様をお祭りする祭壇のようなところの前で線香を立てて拝む事数分、そこで出てきた判断が
「あなた(俺)の家には養子が入ってる。養子というのは接木だ。家系を調べて元の親木が誰であるかを知り、そこから種をもらってくる必要がある」との事でした。

具体的にやる事は家系を調べて誰が養子かを知り、養子元の家が判明したら、そこに感謝してお祈りのようなことをするという事です。

その他に「自分は自信がないのですが、どうしてですか?(俺)」という問いには「養子が入っているからで、親木がわかれば自然と自信も付く」との事。さらに妻の家系の問題も聞いてみた所妻の実家の困っている問題を尋ねた所、祖先の中に「泣いている女の人がいる」のが原因との事で、これも調べた所該当する人がいて、今その所在を探している最中だったりします(この件は複雑すぎてここでは書けません)。

話を元にもどします。養子がいるはずとの事なので、調べましたよ家系を。戸籍を取り寄せて曽祖父まで(曽祖父は幕末の生まれの人なので、戸籍ではここまでしかたどれません)。曽祖父が養子かどうかはわかりませんが、祖父は末っ子で4男ですから、よくある「跡継ぎのために養子に入った」という線はあり得ません(戸籍上も実子ですし)。だいたい祖父は分家で家を出てますので、ますます養子という線は低くなります。そして父が祖父の実子であるのは間違いありません。

まとめると、
曽祖父:養子かどうかは不明
祖父・父・私(笑):実子
という事になります。

そこで父と叔母に色々と話を聞く事にしました(主に叔母に聞いたんですけどね)。するとどうも二人が言う本家(祖父の実家)の跡継ぎの名前が戸籍と違うのです。

父よりも叔母のほうが年上で実家の事がわかっているようなので、根堀葉堀聞いたところ、祖父が生まれてすぐに祖父の母が亡くなり、祖父の姉が母代わりに育てたらしく、父と叔母が本家だと思っていたのは祖父の姉の家系の家だったのです(祖父の姉が同じ苗字の家に嫁にいったのが混乱の元だったよう)。
祖父も父も本家を間違って認識していた、つまり心理的には祖父は祖父の姉の家の養子だったわけです。

どうもユタの指摘した「養子が入っている」というのはこの事を指していたようです。

さて、これらの事が3月に判明したのですが、それ以後何ともいえないのですが私の内面に変化がありました。説明は出来ないのですが、変化があったのは間違いなく感じます。

まあ、いずれにせよ祖父のお墓・本家のお墓を参って、祖父の姉の血筋の家に行ってもう少し詳しい話を聞こうと思い、4月の冒頭に「5月に行こうかね」などと予定を組んでました。そして5月の中旬に行こうと決定した矢先に......

妻が妊娠しました


ええっと、正直驚いてます。タイミング的には「本家を間違えていた」事が判明してすぐの妊娠になります。似た様な事例の話を聞いてましたからもしかしたら起こるかもとは思ってましたが、妊娠が判明したときは唖然としてしまいました。

我が家ではこのような結果になったのですが、もしこの記事を読んでユタに見てもらおうとお考えの方は次のような注意が必要です。

1:ユタ半分、医者半分
昔から沖縄では「ユタ半分」と言われているそうです。これはユタの判断が万能ではないという戒めでしょう。特に医療関係(不妊も医療関係の問題です)は、必ずユタだけではなく、医者の診察も受けましょう。

2:ユタの選択
ユタにも能力差があるようです。沖縄の祖先崇拝:ユタでも書きましたが、ユタはもともと自他の境界が弱いという問題点を持っています(その問題点ゆえに他者の判断が出来るわけなのですが)。とくに未熟なユタの場合、ユタ自身の問題をクライアントに投影してしまう場合があります。その結果ユタの判断に従って拝みをやっていくと、ユタはどんどん元気になりクライアントはどんどんやつれていく、といった笑い話にもならない自体が生じる事があります。

3:判断の解釈
ユタの判断から導き出される解決策は、基本的には沖縄の祖先崇拝の儀礼に沿ったものになります。沖縄でその儀礼に自然と触れながら育った人ならまだしも、全くそういった事に無知である場合は、せっかくの判断が有効に活用できない可能性が大だと思われます。私も妻も又吉先生から祖先崇拝の方法論をある程度レクチャーされた上で、判断の意味を又吉先生と検討出来たという恵まれた環境にあったためユタの判断を活用できたわけです。特に今回私の家系の問題の方は比較的簡単であったのですが、妻の家系の問題は祖先崇拝の事を学んでいなかったら、おそらく何のことやらさっぱりわからないで終わった可能性が大です。

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先日メールで又吉先生と連絡を取る方法を聞かれたので、ここでも書いておきます。まぶい分析掲示板に書けばやり取り可能です。


パコ日記の一債務者さんへのお答え

2007-05-15 12:53:29 | アディクション
パコ日記の所の一債務者さんからの質問に答える記事です。パコ日記に投稿してもいいのですが、長文だしあそこもいつ無くなるかわからないので、こっちに書くことにしました。

で、一応このブログは携帯からも投稿できるはずなんですが、手持ちのウィルコムの携帯からは大丈夫でした。再度投稿にチャレンジしていただくか、メールいただければこっちでコメント欄に貼っておきますので、何かありましたらどうぞ>一債務者さん(メールアドレスは迷惑メール対策で半分ずつ書きますが、jiro_yu@ の後ろにmail.goo.ne.jpです)。

さて、一債務者さんの質問をまとめると、次のようなものになるかと思います。


質問1:依存は誰しも持ってて当たり前なものではないのか。

依存自体はは病気じゃありません(依存症は病気)。我々哺乳類は依存無しに生きていけませんから、全ての人は誰かにあるいは何かに依存して生きています。だから依存は誰でも「持ってて当たり前」です。
酒やギャンブルは感情の開放や高揚感を得るために使うわけで、馬券を買う人や酒を飲む人は、気持ちを変えるためにそういったものに依存していると言う事も出来ます。

問題なのは依存が不適切で要求レベルが際限なく上昇し、ついにはコントロールできなくなる場合です。このような状況を依存症と呼び、それはうつ病や総合失調症と同様な精神的な病気であるわけです。


質問2:依存に「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?

単なる依存に「罪悪感」がくっつくと依存症になる....ですが、これは一般的な理論ではなく、私が師事してる又吉正治氏の理論によります。アル症においてはかなり信憑性が高い理論だと感じています(とりあえず治療の実例もあるし)。また普通の専門家でも依存症に罪悪感が何らかの形で関わりがあるというのは認めるところではないかと思います。

依存に際限がなく、頻度や強度がだんだんと大きくなるものが依存症で、際限がないだけでは単なる依存(○○好き)で、罪悪感がくっつく事でインフレを起こして頻度や強度が次第に大きくなる(○○依存症)というのが、又吉理論から導き出される結論です。繰り返しますが、この理論は一般的でもないし広く認められているものでもありません。


質問3:単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?

依存する対象はあまり関係ないと思います。基本的に人生に悪影響を及ぼすかどうかは、あくまで使い方の問題で、自分でコントロール可能かどうかが重要です(大抵はコントロールできないと人生に悪影響を及ぼします)。


質問4:「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。

これはHIDEさんには異論があるでしょうが、つきつめると私の考ではYesです。特にAAやGAのような12ステップアノニマスグループを使った方法では、そうなるでしょう。
そのあたりの考察を書いた記事がありますので、興味があったらお読み下さい。
AAにおける回復の考察

ただ、グループ等に依存する事は悪いことではないです。間違った依存(依存症)を適切な依存の方向に向ける事が回復(ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方)だと言えるのではないでしょうか。逆に言うと、グループのシステムに依存出来ない人は、このシステムでは回復できないという事も出来ます。

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以下はパコ日記からの一債務者さんの投稿の転載です(パコ日記は無くなるかもということなので、保存の意味をこめて転載してます。転載はダメというのであればご一報下さい転載の許可をいただきました。)
すいません。もぅコメントしませんとか言っておきながらコメントさせて下さい。(前回名前を入れ忘れてました)このブログはトモさんのブログなので気が引けるのですが、個人的にお尋ねしたい事がありまして。私はハッキリ申し上げて依存症という病気については無学で無知です。ですからこの場にはせっかくこんなにいろんな方がお見えになるのですから是非依存症でない方とも理解を深める意味でもお付き合い頂きたく思います。私実は携帯からしかアクセスする手段がありませんので(次郎さんのブログでコメント出来ませんでした)この場で素直に聞いてみたいと思います。次郎さんやHIDEさんの書き込みをみて、自分なりに考えてみました。何かしらの著書などを見てもみたいのですが、そこに今私の考えている疑問というか質問に対する明確な答えがあるか分かりませんので。何より本と会話は出来ませんし。私の場合は精神科医に診断を受けたワケではありませんので本当のところ依存症かどうかも分かりません。ですが現実に債務が膨んでもやめられず、むしろ逃げるようにパチンコに走った私は依存症だと思っています。それと私の父も多分アルコール依存症だと思っています。家族をどんなに泣かせてもやめられませんでしたから。そこで思ったのですが依存とゆうのは誰しも持ってて当たり前なものでは?と思いました。依存するということは心のより所ということだとしたら、それはある人は釣りだったり、ある人はゲームだったりするのでは?そこに「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?という事が一つと、あるGAメンバーさんがおっしゃっていた「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。あと匿名希望さんもやはりGAメンバーの方だったのですね。パコさんが近い将来どういう気持ちになるか…それが現実にならない事を本当に心底祈りたいです。無学で無知な私の相手は疲れてしまうかもしれませんがお付き合い頂ける幸いです。よろしくお願いします。長文失礼しました。
Posted by: 一債務者 | 2007年05月14日 05:21

依存症は病気である、それは風邪が病気なのと同じ意味で病気なのだ

2007-05-04 14:17:31 | アディクション
最近すっとばして書いてきましたが、書いて発表する事は結局人に認められたいという気持ちが原動力になってるわけなのですが、何かそういう評価もどうでもいいような感じになってきています。

どうも本当の私の興味はアディクションというより、沖縄の民俗的な事象の方にあるようで、このブログもアル中の所が完結したら沖縄民俗について書く方向性になるのかもしれません。

それはそれとして、今少し気になっている事があるのでそれについて書きます。



「依存症は病気である」と書いても、

え?、そんなの常識じゃん。いまさら何?

と言われるような気がするのですが、最近この事は一般的にはあまり理解されていないのではないかと心配になっています。

前述のパコのパチンコ日記でのブログ主本人とのやりとり(あるいは周辺の人の書き込み)の中でも、ギャンブル依存を病気と認識した上で書いている人がほとんどいないのを感じました。

このブログをお読みの方には「依存症は病気」というのは常識であるかとは思いますが、念のため説明してみたいと思います。

例えばアルコールを例に出すと、病気という意味は本人の意思が弱いから飲んでしまうのではなく、インフルエンザにかかれば熱が出るように、アルコール依存症にかかると酒を渇望し飲むとコントロールが効かなくなる、そういう意味での病気です。

最近鬱病に関しては「頑張れ」と励ましたり「そんなの気をしっかりもてば大丈夫だよ」というアドバイスが如何に無意味で危険な事かは認識されてきたようです。
それと全く同じ意味で、アディクションの患者に対して「意志の力が弱いからだ」とか「病気に甘えるな」などと対処する事がどれほど的外れで意味がなく、状況を悪化させる一方であるかがもう少し認知されると、各種依存症の患者が治療につながりやすくなるのではないでしょうか。

又吉氏の理論では「罪悪感」こそが「○○をこよなく愛する人」と「○○依存症者」の分岐点になります。又吉氏の理論を外しても一般的にアディクションの世界では「病気である」という教育により「自分をダメ人間として責める」事を止める事が回復への大きな一歩です。

病気であるにも関わらず「意志が弱い」「自己管理ができない」「誰かのせいにして甘えてる」極めつけは「病気のせいにして責任逃れしている」等々の的外れな誹謗中傷は結局病人(依存症者)の罪悪感や自責感を増大させ、病気を悪化させているわけです。これはあたかも風邪を引いて熱を出している人に「体が熱いのなら冷やせばいいだろう」と水風呂に入れるようなものです。

頼むからあんなに苦しんでいる依存症者にさらに苦しみを負わせないでくれ


という思いが、こういう状況を見るにつけ私の心に去来します。

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本当にグループ療法だけでいいの?

2007-05-01 11:41:22 | アディクション
前の記事でトラックバックいただきました、本当にグループ療法だけでいいの?でありますが、長くなりそうなのでこちらで私の考えを書かせていただきます。

アディクション治療に関してですが、米国のAAの現状として以下のような情報があります。
飲みながら死ぬ人が約70%
AAで断酒した人が12%
そのほかの治療方法で断酒した人が18%
大雑把な数字ですが、どうも治療成績はこの程度のようです。

米国のAAは日本とは比較にならないほど盛んで、AAの存在自体が社会から敬意をもたれて受け容れられているわけですが、その本場でも上記のような治療成績です。

日本ではどうかと言いますと、赤城高原ホスピタルの資料で、確かアル症の入院患者の10年生存率は50%程度だったと記憶していますし、酒でなく薬の回復率ですとダルクの資料では、治療に繋がった人で、薬を止められたのは20%程度であったと記憶してます。この結果から見ると、日本の治療成績もせいぜい米国のAAと大差ないという結果のように感じられます。

私はアディクションの治療率の低さは当然の帰結だと思います。なぜなら、
1:原因が不明
2:完治しない(酒ならコントロールして飲めるようにならない)
3:断酒して回復するメカニズムも不明
だからです(なお、上記の想定は10年位前のもので、もしかしたら最近では満足の行く説明がされているかもしれません。もし上記それをご存知の方がいらっしゃいましたら御教授いただければ幸いです)。

このような状況においては「使えそう・使ってみて少しでも効果があったものは全て使う」のが当然でしょう。今のところ12%の効果をもつ療法である「12ステップアノニマスグループ」及びそれに類似したグループ療法は十分に使う意義があると思います。

ちなみにアディクションの原因がどうしてわからないかについては、私は次のように考えています。アディクションの原因には「甘え」の心理があり、西洋では「甘え」の概念自体すらない(土居先生の「甘えの構造」に詳しい)ために、アディクションを理論的に説明する事が出来ないと。

まあ、上の説明は又吉先生の理論から導き出される結果なのですが、おそらくこの理論は広まらないでしょう。私は広まって欲しいと考えてブログをこつこつと書いていますが、まずは自分の事に適用し私の子孫がアディクションで苦しまない所まで行けば、自分に100点あげようかと思ってます。

しかし、ぜんぜん回答になってないなぁ(笑)。モノローグみたい。今読み返すと共依存の記事も焦点が定まっていなくて漫然としてますねぇ。

一度HIDEさんとは会ってお話してみたいなと感じてます。私は東京在住ですから、会えない距離ではないですしね。今私は運命の自然な流れとでも言うべきものにうまく乗ってる感じがするので、HIDEさんと会う運命にあるのであれば、きっと祖先の導きによって出会う事でしょう。

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