そんな僕が好き

アディクションとかその他日常の事

依存症は病気である、それは風邪が病気なのと同じ意味で病気なのだ

2007-05-04 14:17:31 | アディクション
最近すっとばして書いてきましたが、書いて発表する事は結局人に認められたいという気持ちが原動力になってるわけなのですが、何かそういう評価もどうでもいいような感じになってきています。

どうも本当の私の興味はアディクションというより、沖縄の民俗的な事象の方にあるようで、このブログもアル中の所が完結したら沖縄民俗について書く方向性になるのかもしれません。

それはそれとして、今少し気になっている事があるのでそれについて書きます。



「依存症は病気である」と書いても、

え?、そんなの常識じゃん。いまさら何?

と言われるような気がするのですが、最近この事は一般的にはあまり理解されていないのではないかと心配になっています。

前述のパコのパチンコ日記でのブログ主本人とのやりとり(あるいは周辺の人の書き込み)の中でも、ギャンブル依存を病気と認識した上で書いている人がほとんどいないのを感じました。

このブログをお読みの方には「依存症は病気」というのは常識であるかとは思いますが、念のため説明してみたいと思います。

例えばアルコールを例に出すと、病気という意味は本人の意思が弱いから飲んでしまうのではなく、インフルエンザにかかれば熱が出るように、アルコール依存症にかかると酒を渇望し飲むとコントロールが効かなくなる、そういう意味での病気です。

最近鬱病に関しては「頑張れ」と励ましたり「そんなの気をしっかりもてば大丈夫だよ」というアドバイスが如何に無意味で危険な事かは認識されてきたようです。
それと全く同じ意味で、アディクションの患者に対して「意志の力が弱いからだ」とか「病気に甘えるな」などと対処する事がどれほど的外れで意味がなく、状況を悪化させる一方であるかがもう少し認知されると、各種依存症の患者が治療につながりやすくなるのではないでしょうか。

又吉氏の理論では「罪悪感」こそが「○○をこよなく愛する人」と「○○依存症者」の分岐点になります。又吉氏の理論を外しても一般的にアディクションの世界では「病気である」という教育により「自分をダメ人間として責める」事を止める事が回復への大きな一歩です。

病気であるにも関わらず「意志が弱い」「自己管理ができない」「誰かのせいにして甘えてる」極めつけは「病気のせいにして責任逃れしている」等々の的外れな誹謗中傷は結局病人(依存症者)の罪悪感や自責感を増大させ、病気を悪化させているわけです。これはあたかも風邪を引いて熱を出している人に「体が熱いのなら冷やせばいいだろう」と水風呂に入れるようなものです。

頼むからあんなに苦しんでいる依存症者にさらに苦しみを負わせないでくれ


という思いが、こういう状況を見るにつけ私の心に去来します。

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