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アディクションとかその他日常の事

共依存について その4:正しい!?共依存

2007-04-24 13:45:30 | 共依存
今までのアディクション治療の考え方では「共依存は悪なので、依存症者と共依存症者(夫婦である場合が多い)は分断して個別に治療する」というのが常道です。

しかし又吉氏の理論を導入すると、共依存には正しい共依存と間違った共依存がある事がわかります。

この正しいと間違ったというのは何処が違うのでしょうか
それは一言で言うと「甘えさせる」と「甘やかす」の違いになります。

適切に基本的欲求に基づく甘えを満たす=甘えさせる・甘える
不適切に基本的欲求に基づく甘えを満たす=甘やかす・甘やかされる


適切というのは本来の段階の欲求に基く甘えを満たすことで、不適切というのは退行や越行で出ている部分の甘えを満たす事です。退行や越行、本来の段階の欲求に関してはアルコール依存症に関して書いた内容を読んでいただけるといいのですが、読んでない人のためにアル症のときに使った例で簡単に説明しますと.....

例えばお腹がすいている人が、食料が手に入らないので仕方なく水を飲んで空腹感を紛らわすという例を考えましょう。
ここでは「ご飯が食べたいという欲求=本来の欲求」であり、「本来の欲求の解消=ご飯を食べる」という事になります。しかし、食料が手に入らないために「水を飲んで空腹を紛らわす」という行動は、真の欲求(ご飯が食べたい)を他の方法で摩り替えて充足させる事になります。従っていくら水を飲んでも最終的には空腹はまぎれませんから、水を飲む行為は際限がなくなります。

つまり
ご飯を食べさせる=適切に甘えさせる
水を飲ませる=不適切に甘やかす
という事になります。

適切に甘えさせると、ある程度充足すると要求がなくなりますが、甘やかしの場合は際限なく行われます。自分の行為が「適切な甘えさせ」か「不適切な甘やかし」かを判断するには要求に際限がないかどうかで判断できるでしょう。

共依存について その1のコメントにあるように、アディクションに関わる医者(というか、はっきり言うと斉藤学先生)の発言にも「世話しろ」「世話するな」という2種類のメッセージがケースバイケースで含まれて居ますが、それは臨床経験の中で世話焼きにも2種類ある事を体得しているからなのでしょう。しかしその違いについて理論化は出来ていないようです。斎藤先生の話では、どちらかというと親子関係では「世話しろ」が出てくるようで、夫婦関係ではあまり出てこないような印象があります。

もともと夫が問題行動を起こしたら、妻がそれを助けようとするのは自然な行動であり、なんら非難される筋合いのものではありません。ただ、適切なやり方と不適切なやり方があり、多くの場合は不適切なやり方が行われてしまうようです(いや、もしかしたら適切なやり方で解決している人が多数なのかもしれませんが、自然にうまくいった例は表面には出てこないので何ともいえませんが)。

なぜ不適切な方法しか取れないかと言うと、問題行動をおこすような人は生育暦に問題(満たされていない甘えの欲求)があり、そういう人と結婚する人もまた生育暦に問題がある場合が大多数だからです。父がアル中で自分は絶対にアル中とは結婚するまいと心に誓った人の結婚相手がアル中になる、などという笑い話のような現実がこの世にはありふれています。アル中をギャンブル、女遊び、DVなどに置き換えるとさらに実例は増えるでしょう。

結局南極、甘えの欲求を満たすためには甘えを与える必要があるのですが、与える側の人の甘えの欲求が満たされていない状態ではそれが難しい上に、第一何が満たされていないのか、満たすためにはどうしたらいいのかがわからない限りうまく行きません。

さて、最後にゲストさんのコメントを抜粋してレスさせてもらいます。

>こんにちは。はじめましてかな?

もしかしたらどこかで会ってるかも(笑)。この世界狭いですから。

>無条件の愛情を求めている依存症者に対して、
>徹底的に愛情を注ぐことが必要と言われる人もいます。
>「徹底的な愛情=世話焼き」とはならないと思います。
>管理人さんのおっしゃる「世話焼きを止める」のがいいのでしょうか??

これはもうおわかりですよね。「甘やかし」になるのなら、それは際限がないという事です。従って際限がなくても問題なければそれでもかまわないと思います。

>斉藤学氏が摂食障害の子供に対して、
>要求する金額を与えなさいと言ってたと思います。
>私はこれは「世話焼き」だと思っています。
>例えば、金額の上限を決めて、
>上限を超えた金額は渡さないとすると、
>これは「世話焼きを止める」ことではないかと思っています。

これはお金を与える事(あるいは上限を決めてお金を与える事)が「甘やかし」になっているかどうかで判断するべきでしょう。お金を与える事自体は「適切な甘えさせ」「甘やかし」のどちらにもなり得ますので、ケースバイケースですね。

>依存症の人の訴えに応えることが
>世話焼きになるのでしょうか??
>たとえ訴えがあっても、
>それに応えられる範囲を設ける
>のがいいのでしょうか???

繰り返しになりますが、依存症の人の訴えに応える事自体は自然な事だと思います。要は「甘やかし」になっていないか、甘やかしの場合、その要求に際限なく応じ続ける事が出来るかどうかが判断材料になります。
ただ、夫婦だけという事であればこれでいいでしょうが、子供がいて、子供にはこういう思いをさせたくないとお考えであれば、やはり適切に甘えさせる方法を考えて欲しいと、アル中の家庭に育ったACという背景を持っている私個人は思います。何世代か続いてきた「親の因果が子に報い」が子や孫の代まで継続される事になるでしょうから。

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共依存について その3:他人は変えられないはずなのに変えられる!?

2007-04-19 11:49:34 | 共依存
アディクション業界一般で言われている事に「他者は変えられない、変えられるのは自分だけ」という言葉があります。実は自分を変えるのも極めて難しいのですが、他人を変えるのは不可能だと言われています。これは基本的には正しいので、共依存だろうが何だろうが、誰かのアディクションを指導により治すという事は最初から不可能なのです。

そのため普通は日本であれ海外であれ、共依存関係では依存症者のアディクションは進行し、非常に苦しい共依存関係は夫か妻かが肉体的又は精神的な限界に達するまで続きます(もちろん中にはもっと早い段階から問題を認知する人もいますが)。

ただ、ここで一つ疑問があります。アル症夫と共依存妻を例に挙げるのなら、一般的に共依存妻に対しては大雑把に言うと「旦那の世話を止めてアラノンに通いなさい」という教育が行われます。そして実際に妻がアラノンに通い始めて妻の生き方が変化すると、何故か夫がAAに通いだすという現象が普通に見られます。ここでは妻は自分自身のことしか変えていないわけですが、夫にも変化がおこります。これはどうしてでしょう。

この現象は次のような原理で起こっていると考えられます。
1:他者は変えられない
2:自分は変えられる
3:自己と心理的に一体化している他者は変えられる
という事です。

又吉氏の手法は上記の原理を利用して、アディクション本人の治療を行います。まだ完結してませんが、このブログのアル症の治療の原理もこの方法になります。ある意味では共依存状態を治療に利用しているわけです。

しかし普通は共依存状態をいくら続けても、問題の解決には至りません。どうして普通の共依存状態ではうまく行かず、又吉先生の方法論はうまくいくのか、次回はその違いについて書きたいと思います。

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共依存について その2:日本と西洋の共依存観

2007-04-18 14:41:49 | 共依存
さて、共依存の続きです。又吉氏の理論の紹介をしようと思ったのですが、思ったよりも書きたいことが多くてそこまで行きませんでした。

今回は日本と西洋の共依存観について書きます。

いきなり何ですが、その1で説明した西洋的な共依存の話を頭から取り払って考えてみて下さい。日本においては普通夫がアル中である場合、妻が酒を隠したり酒を捨てたり、金銭管理をして酒を買えないようにしたり、飲んだ後の後始末をする等々の世話は(程度問題はありますが)極めて当たり前の行為です。むしろ世話をしない方が変と考えられる可能性すらあります。

このあたりの事を欧米(特に米国)では「日本人は共依存のみじめな状態を良しとする理解不能な民族だ」などと評します。全く持って余計なお世話なのですが、西洋では「共依存は悪」で個の自立こそが最も大事だと主張するので、こういう主張も一般的なようです。この共依存に対する反感は嫉妬の産物と考えられます。つまり「俺は個の自立で歯を食いしばって頑張ってるのに、お前らは共依存して甘えやがって」という僻みが原因という事です。実はエディプスコンプレックスはこれと同種の嫉妬が原因です(だからあまりこのコンプレックスは日本人に適用が難しい)。

このように西洋では個の自立こそが最も大事なので、依存症者と共依存症者は切り離して対処することになります。アル症ならAAとアラノン、ギャンブルならGAとギャマノンとそれぞれ本人とパートナー個別に対応が行われます。

ここで面白いのは断酒会の事例です。断酒会はAAを手本にしてますが、日本的な独自のアレンジを行っています。その一つに断酒例会(ミーティング)は夫婦同伴で行われるというのがあります。同伴は必須ではありませんが、断酒会の初期の経験では夫婦同伴の方が断酒率が高かったのでこの手法が推奨されているようです。

この断酒会の事例は、西洋で忌み嫌われる共依存が、何らかの適切な方法で有用になりうるという事を示唆していると考えられます。

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共依存について その1:従来の共依存の解釈

2007-04-13 13:07:07 | 共依存
パコのパチンコ日記の件で、改めて共依存について考えさせられたので、従来の共依存の考え方に関してと、今私が勉強している又吉先生の共依存の考え方に対する考察を書いてみたいと思います。

共依存になる人は非常にいい人が多いです。困った人を黙ってみてられない慈悲とボランティア精神に富み、社会的にも人格者として高く評価されるでしょう。

一方共依存の人の依存対象である「アルコール・薬物・ギャンブル等々の依存症者本人」は、飲む打つ買うで経済や肉体を破綻させ、場合によっては周囲の人を巻き込み苦しめます。明らかにやってはいけないこと(飲酒・ギャンブル・薬物等々)を繰り返すため、学習能力や意思の力の弱い人と見られますし、飲むため・ギャンブルをするため・薬を買うためには嘘やお為ごかしや果ては犯罪まで手を染めることもあり、社会的には落伍者、ダメ人間、しょうもない人と評価されるでしょう。

そして、共依存の人が一般的な依存症者のケアをする姿はある意味「マザーテレサかナイチンゲールか」であり、その献身的な姿は感動的ですらあります。
「そんなに素晴らしい人を病気と呼ぶとは何事か!」と第三者は感じるでしょう。また共依存症者本人も「ひどい!こんなに一生懸命なのに、何ていう誤解なのだろう」と感じるのはある意味当然です。

ただ、アディクションの治療という観点からは、この「世話を焼く」という行為そのものが依存症者の依存を継続させる力となり、治療の大きな妨げになるという事が多くの例から明らかになっています。
しかも世話焼き自体はしばしば他者から評価・応援されるもので(他者からの評価こそが共依存症者が最も欲しいエネルギー源であり、これを得るために世話焼きをやってるといっても過言ではないです)、それが問題行動であるというのはなかなか理解されません。これはACが「良い子として頑張ってしまう」病気であるのと似ていて、周囲から問題行動として認知されないのでケアが遅れてしまうのと良く似た構造と言えるでしょう。

さて、ここまでは従来の心理学でのアディクション治療の考え方です。

今私が勉強している又吉先生の理論にはそもそも「共依存」という考え方が希薄で、むしろ一般には共依存と呼ばれる状態を利用して、夫、子供、親子の関係を改善していく手法です。
次回は又吉先生の手法に関して書きます。

なお、共依存について知りたい興味があるという人は、本なら「愛しすぎる女たち」あたりが入門書となりましょう(文庫版も出てるし、古本なら安い)。
ネットでは 共依存 あたりがわかりやすい説明じゃないかと思います(たまたまパチンコに関して記述してるので、パコ日記からおいでの方も参考になるかも)。

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パコのパチンコ日記の件の総括

2007-04-11 11:03:57 | 共依存
何日か前からすこし関わった、パコのパチンコ日記ですが、ようやくトモさんの私への返事として書かれたトラックバック元の記事を読みました。そこで感じたり考えたりしたことを書いて、出来れば今回の件の総括としてみたいと思います。トモさん向けというより、自分の気持ちの整理が主な目的で書くので、向こうにはコメントしておきませんが、記事としては公開してありますから縁があれば読まれるでしょう。円がなければ、これで終わりでしょう。

正直トモさんの私がどう考えたかという考察に関しては当たっている部分もあれば当たってない部分もあります。それほどまでに私の動機や行動原理を理解しようとして下さるのは嬉しいのですが、私の真意が何であるかというのは、言葉のキャッチボールを繰り返した上でお互いの言いたい事が40%位伝われば御の字、そんなもんではないでしょうか。ただこれは顔を付き合わせた人間同士の話で、ネットで伝わるものってもっと少ないでしょうし、人の自分に対する見方や評価をコントロールすることはできませんので、私はトモさんが思った通りの人間である考えて欲しいと思います。

共依存症云々の話ですが、「GA依存」という言葉にカチンと来なかったら、ああいう書き方はしないでもっと思いやりのある書き方をしていたでしょう。思いやりのある書き方をした場合どう書いたかというと..............実は何も書かなかったのではないかと思います。
トモさんのブログは、たぶん1年位前から月に数度程度見ていたわけで、早い段階から「トモ・パコの関係性はちょっと変じゃないか?」と思ってました。そしてこの関係性の問題を表現する言葉としては「共依存」あたりだろうなと考えていました。しかし、そう思っていても「真実だとしても指摘しても何の意味も無いし、むしろ余計なお世話でしかないし、大概相手の邪魔にしかならない」というのが冷静な時の自分の基本姿勢ですのできっと一生書くことはなかったかと思います。

トモさんが最初持っていたように思える「次郎は私を共依存と断じてニヤニヤ眺めている」というような見方は既に(あるいは最初から)されていないと思いますが、「共依存じゃないか」と書きながら私が感じていたのは実は無力感と虚無感です。きっといろいろと書き連ねた事の原動力は、この閉塞感を何とかしたいという気持ちから来ているのではないかと今は考えています。

従来の精神医療があまりはかばかしくないのはともかく、最も期待していた自助グループも、どうも実質的には全体の2割程度にしか効果がないようです。さらにグループで回復するメカニズムの理論的な説明(仮説ですけど)が出来るようになるにつれて、効果の限定性と不完全性を強く感じます。果たしてグループでの実質2割の回復と言うのは、さらなる長期(10-20年)で見た場合本当に継続可能なのかという強い疑念を拭い去れません(もちろんグループで長期にわたり止め続けている人はいますよ)。

現在私が勉強し実践している(実は実践は私の妻がやるんですけど)又吉先生の方法は極めて本質的で効果が高いと私は思っている(と同時に体感している)のですが、その方法にしてもやはり実践できる人と出来ない人がいます。

回復する人としない人の違い、それは回復する人が善良でまじめで頑張り屋さんで、回復しない人が悪人で不真面目で怠惰な人であるというのであれば何と世の中は単純でありましょう。しかし実際にはそんな事は無く、全員苦痛にあえいでいる弱い人の子です。最近はまるで運命予定説のように、最初から回復する人としない人が決まっていて、回復する人は最初からチャンスに恵まれそれを掴めるような心の成り立ちで、回復しない人は最初からチャンスも少なくその少ないチャンスすら拒絶するような心の成り立ちであるのかもしれない、つまり最初から回復するしないが決まっているのかもしれないと感じたりします。

それとこれはトモさんとコメントくれた方へのメッセージなんですが、自分の各種アディクション(共依存も含む)に関して「これは風邪やインフルエンザや水虫や胃潰瘍と全く同じ意味での病気である」と基本的に考えています。だれかが鼻水をすすっているのを見て、「あんた、風邪ひいているよ」と指摘しても、例えそれが見当違いの指摘でも誰も非難したり酷いと言ったりしないはずです。
「あなたはインフルエンザでしょう」
「あなたは共依存症でしょう」
「あなたは鬱病でしょう」
「あなたは胃潰瘍でしょう」
私の中では上記の四つは全く同じ価値判断で処理されます。第一心の病も体の病も医師免許を持つ人が診ますよね。外科と内科と精神科は科が違うだけでみんな全く同一の資格(医師免許)を持つ人が診断にあたりますから。
アディクションは病気なんであって、甘えてるわけでも本人の意思が弱いわけでも性格が捻じ曲がっているわけでもありません。自分の意思の力では本当にどうにもならないからこそ「治療が必要な病気」なのですから。
ただ、一般の人には心の病に対する誤解と偏見がありますから、それを考えて書き方を考慮する必要はあったと思います。

最後になりますが、トモさんが共依存であろうとなかろうとギャマノンへの出席はきっと実りのあるものになると思います。参加資格は「ギャンブル依存症者の家族・友人」ですから、トモさんには参加資格があるでしょう。何らかのチャンスがあったら出席してみることをお勧めします。

しかしギャマノンってすごい響きですね。初めて聞いたとき(確かギャマノンが開かれ始めた頃じゃないでしょうか)「怪獣かよ!」と感じたのを思い出しました(実は怪獣の名前ってガ行で始まってンで終わるのが多い)。その時隣に居たOAのメンバーが「存在してないけど理論的にはOAの家族グループはオアノンになる」と言ってましたっけ。その時そこにいた人のなかで、一体何人が生き残っているやら........


あー長い!その上散漫、もともと俺は散漫だからそれで良し、以上。

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パチンコ依存症 パコの日記

2007-04-04 15:51:42 | 共依存
パチンコ依存症の人を支えている人が書いているブログにコメントを何件かつけたのですが、これ以上他人のブログのコメント欄で書き連ねるのも気が引けますし、書かれるほうも話を終わらせたいようですので、トラックバックで色々と書いてみます(と思ったけど、トラックバック機能が相手先にないので、リンクをコメントに貼ってきました)。

まずはコメントしたブログの以下の書き込みには答えておきたいと思います。
元ブログは パチンコ依存症 パコ日記 出口(3)

>「実際のトモさんとパコさんには当てはまらないかもしれない」とお書きになっており、また実際当てはまっていようがいまいがどうでもいいとお思いのようですから、私もこれ以上いたずらに言葉を費やすのはやめておきましょう。

1:実際のトモさんとパコさんに当てはまるかどうか
実はコメントでは遠慮していたのですが(あれで遠慮かよ!と言われそうですが)、基本的にパコさんはもちろん、トモさんはさらに重篤な病気であるようにしか読めませんでした。もちろん違う可能性もありますが、焚き火を見て「あれは炎じゃなく、薪の上で赤い布がひらひらしている可能性を否定できない」程度のもんです。アディクションの専門家100人に読ませたら100人が「双方病気だな」と判断するでしょう。


2:当てはまっていようといまいとどうでもいいか
これはどうでもいいかというより、「当てはまってるけど、現状では誰が何を言ってもどうしようもない」と無力感を感じてるという事です。つまり「どうでもいい、じゃなく、どうにもならないよなぁ」です。「熱があって鼻水を出している人に"風邪だ"と言ってもそれを認めないうえに、どんどん熱が上がってふらるら状態になるのがはたからみえていても結局何も出来ない」といったイメージでしょうか。

きっとトモさんに「トモさんこそが重篤な病気」と言っても通じないのは明らかで、百万言を費やしてもそれを理解させることは出来ないでしょう。「だめんずウォーカー」の作者へのインタビュー記事の中に「あれを読んで"自分もだめんずかもしれない"と思う男はまともな男で、本物のだめんずは"ぎゃはははは、こんなやついねーよ"と笑う」という作者の体験談が思い出されます。人と言うものはただでさえ自分自身の行動の客観的な判断が難しいのですが、アディクションという病気はそれを促進するようです。アディクションの世界では自分自身の行動の問題点の認識を拒否する現象を「否認」と呼びます。

無駄とわかっていながら書いたのはどうして?と言われると、まあ「自助の事をよくわかっていないのに"GA依存"とかわかったようなこと書くな!」とカチンと来て脊髄反射的に書いたというのが真相です。この手の事に関する私の許容度が最近低下しているのが原因でしょう。


3:有効なアドバイスはないか?
「ありません!」では話にならないので、実行されるかどうかはともかくとして、
・「愛しすぎる女たち」を読む
・ギャマノンに出席する
・アディクションに強いカウンセリング施設に行って見る
あたりでしょうか。しかし「相手が現在受け容れられない提案は間違った提案である」という事を自助では言うのですが、その観点からすると上の提案も間違った提案なのかもしれません。


コメントに対する返答は以上。以下は考察というか随筆。

ギャンブル男とそれを助ける女という一般的な共依存の事例では、女性の方が問題の解決が難しいと感じます。なぜなら男はパチンコ依存で生活がままならなくなるという、誰が見てもはっきりとした症状を呈しているので助けの手が届く可能性はありますが、女性の方は「しっかりとした人助けまでするよい人」と評価されまさか問題を抱えているとは判断されないでしょう。

また、トモさんパコさんは恋人なのかどうか実はわからないのですが、恋人だとしたらまあ普通の共依存と言えますが、もし違っているのならよりトモさんの問題は深刻であるように思えます。

短い間のコメントのやりとりでありましたが、おかげで男女の心の違い、西洋と日本人の心の違い、ボランティアとアディクション、自助グループとボランティア等々、共依存に関係するいろんな事を考えるきっかけになりました。このへんもおいおいブログで少しづつ書くことにしたいのですが、「その前にアル症の件を書き上げろよ」という先祖の声が聞こえてきたりします(笑)。

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