そんな僕が好き

アディクションとかその他日常の事

怒るということ

2008-01-10 13:16:10 | アディクション
実はこの投稿は、別のところで公開済みのものなんですが、読み返したら結構いい感じにかけているので、ブログにものっけときます。

怒るという事

自分が殴られた・自分が酷い扱いを受けた等の、直接的な被害に対して怒りを感じるのは当然の事です。

しかし、自分に直接関係のない事に、人は怒りを憶えることがしばしばあります。
沢尻エリカさんや亀田一家のバッシングを見ていて、直接的な関係のない事に対する怒りはなぜ生じるのかを考えさせられてしまいました。

昔自分が若かった頃、「俺は機能不全家庭の犠牲者だ」と色んな人に話した事があります。その時の反応は大体次の3つに別れました。

「大変だったね、よくわかるよ」
「そうなんだ。私にはわからないけど大変だったんだね」
「何て情けないやつだ」

最初の反応をする人は自分の状態を認知しているお仲間、次の反応は健康な人、最後の反応は自分の状態を否認しているお仲間、という風に分類していました。
この分類を新たな知識で書き直すと、
最初の反応をする人は同じように甘えている人、次の反応は甘えが満たされている人、最後の反応は甘えたいのに甘えられない人という風に分類出来るでしょうか。

甘えたいのに甘えられないと次第に、スネて僻んで不貞腐れて自暴自棄になるという経過を辿ります。そうそう、甘えるというのにはマイナスイメージが付随する言葉ですのですが、ここではそれを取っ払って、出来れば甘えというものを中立的に捕らえて下さい。

まず、自分が機能不全家庭の犠牲者だと表明することはある種の甘えです。
「大変だったね、よくわかるよ」は、自分も同じように甘えているからこそ出てくる言葉です。
「そうなんだ。私にはわからないけど大変だったんだね」は、自分は同じようには甘えていないけど、他の方法で甘えが満たされているため僻みが生じていないので、相手の言葉を素直に受け止めている状態です。
「何て情けないやつだ」は、本当は自分も同じように甘えたいんだけど、甘えられないので、甘えているやつに僻みが生じている状態です。

普通の人で、沢尻エリカさんに直接被害を蒙る状況を考えると、例えば、ずっと彼女のファンだったのにこんな人だとは思わなかった、とか、公開される映画がとても楽しみだったのに泥を塗られた気持ちになったなどの人は辛うじて該当するのではないでしょうか。
そして亀田一家に直接被害を蒙る状況は、自分が大好きな神聖なボクシングが汚されたとか、亀田大毅のファンだったのにあんな酷い反則をするなんて、とかいう場合でしょうか。

おそらくバッシングしているほとんどの人は、上のような直接被害の状況にはないのでしょうし、私もそうです。沢尻さんには興味がないので特に何も感じないのですが、亀田一家には前から怒り心頭でした。それはやっぱり私の心の中に「あんなに酷い態度を取って、マスコミにちやほやされて、おまけに大金もらって成功しやがって」という亀田一家の甘えっぷりに対する嫉妬がベースになっているのを認めざるを得ませんでした。

無関係のものに対する巨大な怒りが生じた時は、注意が必要だと痛感しました。ただ、ヒール(悪役)の役割は、こういう僻みをガス抜きする事であるのかもしれません。

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子供が生まれましたが.....

2007-12-04 13:10:51 | アディクション
先日、無事に子供が生まれました。

俺に似ている......女の子なのに。

という平均以下の顔の造りの男親なら誰でも思うことはこっちにおいといて....

アディクションの世界にどっぷりと浸かっているものとしては、やっぱり世代間伝播が心配になるわけです。

通常言われる世代間伝播は親から子へという形が言われ、どのように伝播するかという考察はあまりされてきませんでした。

又吉氏のまぶい分析学によると、通常子は父の裏返しをやりがちなので、
祖父:アル症→表
父:酒嫌い→裏
子:アル症→表
子の子:酒嫌い→裏
というような1世代置きの伝播を基本形と考えます。

そういわれて、自分の周りをよく見回してみると、親がアル中で自分がアル中って人は少ないような気がします。アディクションにはまっている人の場合、親が超真面目っていう場合が多いような気がします。そしてそういう人は祖父の代に問題があった場合が多いように感じます。

まあ、統計とったわけでもないので、何ともいえませんけどね。


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批判はいいんですよ(パコ日記から来た方へ)

2007-10-31 16:01:02 | アディクション
このブログは、「はじめに」の項目を未来の日付にして常に先頭に来るようにしております。その関係でそこにはコメントもトラックバックもつけて欲しくないので、「つけないでね」とお願いしております。

で、そこに次のような一連のコメントが着きました。なお「投稿者:次郎」は自分です。

------------------------------
投稿者:購読者
2007-10-25 14:22:37
パチンコ依存症パコ日記からこちらへ移動して来ました。はっきり言います次郎さんって変わった方ですね。トモさんが更新辞めたのはあなたみたいな、外部からうるさい人が入り込むと更新するのも嫌になるのが当然です。あなたが色々な方が毎日読んでいたブログを壊した原因ですよ。誰が読んでもそう思うでしょう。
最後にもう一度言います、変わったお方ですね。

投稿者:わし
2007-10-25 19:58:47
え?
どういう意味?

投稿者:次郎
2007-10-27 14:06:35
あのさ購読者さん
>それと、この記事はタイトル代わりですので、コメントとトラックバックはお断りします。
って書いてあるのにコメントするんじゃねーよ、このタコ。

それとな、パコ日記は広く公開されているしコメント欄を開かれているブログなわけだ。それがどういう事っていうのを少しは考えたらどうだ、ボケ。外部から批判されたくなきゃ、非公開でチラシの裏に書いてりゃいいんだよ。公開されてコメント欄を開いている限りは、賛同批判ともに来るもんだし、書いてるもコメント欄でいくらでも感謝も反論も謝罪もできるだろ。それがネットの双方向性(笑)ってやつだろ。

それとな、

>トモさんが更新辞めたのはあなたみたいな、外部からうるさい人が入り込むと更新するのも嫌になるのが当然です。

なんてトモさんの心を勝手に妄想で代弁するのはトモさんに失礼だろう。

そして、俺の批判をしたいんだったら、俺の書いた事のどこに問題があるのかをきっちり指摘すればいいだけの話。うるさいだなんだと書いても全く意味不明。

最後に、会った事もない人を善玉と悪玉に分けて批判するのはとっても愉快だろうが、そういう白黒思考をやってしまう自分の内面の問題に向き合った上で、みそ汁で顔を洗って出直してこい。

それからここのコメント欄は10月末で消すから、トモさん関係で言いたいことがあればパコ日記関係の記事を探してそこにつけること。最新のコメントは右に表示されるから、見落とす事もないので心配は無用だ。
この記事に今度コメントしたら、お前の投稿を新記事に引用して、詳細な分析と批判をした上で、さらし者にするから十分注意するように。
(注:一部誤字とトモ・パコを間違えていたところを修正)

投稿者:次郎
2007-10-27 14:20:05
あー熱くなった(笑)。おかげで誤字や文章構成が変になっちゃった。おまけにパコさんとトモさんまで間違えてるし。(注:移動時に直しました)

私はワーカでもなんでもないけど、依存症に対応するワーカや医者の苦労の一端がしのばれるわ。この病気に対する無知はある意味破壊的ですらあるわな。
善意や親切が相手を苦しめつづけるっていう逆説がこの病気の危険な側面なんだよな。

一応購読者さんに言っとくけど、私はトモさんが悪人だとは全然思ってないんだよ。むしろいい人で、かつ、パコさんと同じ病気の犠牲者だと思ってる。だからこそ厳しい事も必要と思って書いたわけだ。
きっとあんたは「それは余計なお世話」と思うだろうけど、そう、余計なお世話なんですよ。それに嫉妬の感情もやっぱりある。だから総括して書くのを止めたわけ。

うーん、コメントを削除しようと思ったけど、やっぱり引用して新しい記事にしようかな?何かひさびさに書く意欲がわいてきそうな‥

投稿者:レス不要
2007-10-31 02:21:50
たまたまここに通りかかった通りすがりの者ですが

>コメントするんじゃねーよ、このタコ。それがどういう事っていうのを少しは考えたらどうだ、ボケ。
>自分の内面の問題に向き合った上で、みそ汁で顔を洗って出直してこい。


>この記事に今度コメントしたら、お前の投稿を新記事に引用して、詳細な分析と批判をした上で、さらし者にするから十分注意するように。
(注:このフレーズが三回重複していたのを省略するとともに、引用部分がわかるように引用符を追加)


自覚が無いかもしれないから
大きなお世話でしょうが言っておきますが
このような罵倒コメントは著しく幼稚な人物と思われてしまうからやめておいた方がいいですよ
特に最後の晒し者うんぬんのコメントは・・・・・

ここでコメントするのは禁止のようなので
別の所に書こうかとも思いましたが
罵倒書き込みがここの記事にある上に
10月末で消すそうなので一応ここにコメントさせて
頂きました

レス不要です
IPアドレスを見たら分かると思いますが
上の購読者氏とは別人なので誤解なきように

投稿者:次郎
2007-10-31 11:28:16
>大きなお世話でしょうが言っておきますが

いやいや、ちゃんとした意見や批判は歓迎ですよ。

>このような罵倒コメントは著しく幼稚な人物と思われてしまうからやめておいた方がいいですよ

嫌味なしで言うね。ご忠告ありがとうございます。言ってる事の意味はよくわかるよ。

昔ある人に「罵倒じゃないと伝わらない場合があるでしょ」と言われた事があって、その時は頭で理解はしたけど腑に落ちなかったんだよ。でも今は腑に落ちる。だって俺がそう感じて、やっぱり罵倒するべきと思ったから。その人は「アホにはアホと言うべき」とも言ってたけど、全く同感ですよ。

で、俺が著しく幼稚かどうかっていう判断は見ている人の勝手だと思うし、自分が書きたいことを書いて公開している以上、どう判断されるかは自分の手の届かない所にあるしね。

コメントは10月末で消すつもりだったけど、気が変わったのでこのまま残すか全コメントを引用した記事を作るかする予定です。

>IPアドレスを見たら分かると思いますが
>上の購読者氏とは別人なので誤解なきように

そんなのIP見るまでもなくわかりますよ(笑)。

------------------------------
以上までがコメント欄を移動してきた内容です(注記にあるように一部手をいれました)。

きっとパコ日記からこちらに来る方が時々おられるかと思いますし、私に対して批判的な意見の方もおられるでしょう。批判はいいんです、批判は。

ただ、購読者氏のような単なるうっぷんを書き連ねるような、批判になってないものを書かれても迷惑なだけなので、それはご遠慮下さい。批判未満のものの場合は、今回のように罵倒で返す事もありますので、予めご了承下さい。こっちももう少し心の余裕があるときは丁寧に返す事もありますが、きっとここ数ヶ月は余裕がないので無理だと思います。

もし、購読者氏のコメントがまともな批判に見えるようなら、コメントはご遠慮下さい。お互いに時間の無駄でしかありませんので。

別にコメントの敷居をあげるつもりはないのですが(バカっぽいお笑いのコメントでも大歓迎)、せめて批判をする時は批判の根拠等は持った上で、言葉のキャッチボールをする意思をもって、罵倒位でめげたりせず逆にギャグで返して一本とってやろう位の気概でお願いしたいなぁと思う次第です。

ただ、実際にこのコメントの条件を自分が他者のブログ等で守っているかと言われると、甚だ心もとないというのは、ナイショです。

こう書いてくると、どうも自分の心の沸点がストレスで低くなっているため、色々な許容範囲が狭くなっているのが今回のコメントを書いた原因なんだという気がしてきました。私のモットーは「皆で幸せになろう」ですから、その意味では購読者氏には気の毒な事をしたような気がします。
なので一言「購読者さん、きつい事を言ったけど、どうぞこれに懲りずにまたコメントしてね。でも許容範囲が狭くなっているので、嫌味っぽいのは勘弁な!」。

アディクションの治療とは

2007-05-30 13:37:50 | アディクション
さて、遅くなりましたがパコ日記の一債務者さんへのお答えのスケゾウ(旧一債務者)さんのコメントの質問「治療とは何であるか?」の答えです。

>「治療」とはつまり「過去の自分との和解」もしくは「過去の出来事の克服」だということですか?

うーん、これは答えが難しいですね。

まず「過去の自分との和解」ですが、これが自己肯定感を持つことであるのなら、これは治療の結果として生じます。ですが、「自己肯定感を持とう持とう」と思ってもうまくいきません(無意識領域の問題なので、意識では変更不可能)。あくまで治療をやっていくうちに気がつくと自然に身についているものです。

次に「過去の出来事の克服」というのは、過去の出来事が終わった事になるといういみなら、治療の結果これは起こりえます。終わった事になるというのは、過去のその出来事を思い出しても、それによって心の傷が疼くという事がなくなるということです。変な例ですが「1万円盗まれた」というときに、最初の頃はその事を思い出すと悔しさやら怒りやらがこみ上げてくるでしょう。しかし時が経つにつれて、「ああそういう事もあったね」位にしか思わなくなるでしょう。これが「終わった事になる」という事です。なお、これも無意識領域の問題なので「克服しよう克服しよう」と思っても出来ないのは自己肯定感と同じです。

結局どちらも治療の到達目的というより、治療の結果として得られるものでしょう。

>それと要するにどうなればいいのかというと逆に自分に対し常に「肯定的な思考」もしくは「自己否定的な考えの排除」が出来るようになれば問題無くなるのですか?

これも上の話と同じで「自己否定感」は問題の根源ではなく、根源から現れる症状です。風邪を引いて鼻水が出る事を例に挙げると、鼻水(自己否定感)が出ると言う症状は風邪の原因ではありませんよね(風邪のビールスに感染したのが原因)。ビールスを免疫がやっつければ、鼻水も出なくなります。

>「治療を続ける」という意味は定期的に「肯定的な思考」を取り戻すということですか?

これはNoでもあり部分的にYesでもあります。

本質的な治療は、未充足の甘えの欲求を充足させる事になります。その結果とし「過去の自分との和解」「過去の出来事の克服」が起こり肯定的な思考を取り戻すのでしょうが、それはあくまで結果であって目的ではありません。
本質的な治療の方法は、このブログのアル症の治療で書いている手法になります。ただ、これは母親もしくは妻の立場の人の協力が必要で、かつ、1/3の人にしか効果がありません。この方法は基本的には完治しますので、治療を継続する必要はありません。この方法論からすると、質問の答えはNoになります。

次に行い得るのは、変な言い方になりますが「甘やかしを適切に行う」方法の習得でしょう。実はこれはGAなどの12ステップグループで行われていることになります。この方法論から言うと、質問の答えは部分的にYesです。

そしてこの方法論は基本的には宗教が持っている構造と共通しています。ある意味AAやGAなどのグループは特定の依存症の対処に特化した宗教、あるいは宗教の方法論を特定の依存症に使えるように加工したものと言えるかもしれません。
AAやGAを宗教と言うと反発もあるでしょうか、宗教と似た構造を持っている、宗教ではないが信仰であるといわれれば、その通りとうなずくメンバーは多いでしょう。
この方法は甘やかしであるという特徴から「満足しないので継続した充足が必要」です。グループ療法が基本的に「一生通い続ける」必要があるのはこのあたりの事が原因だと思います。グループに通いサービスをすることで自己肯定感の継続的な充実がおこなれるというのがグループ療法の重要な柱の一つになっています。


最後に、聞かれてませんが現時点でスケゾウさんが「自分はギャンブル依存だ、何か対処法は」と考えられるのであれば取りうる道はいくつかご紹介して結びとします。

1:GAに行ってみる
とにかく行ってみることはマイナスにならないと思いますので、最低6回は行ってみることをお勧めします。なお、GAはオープン(依存症者本人以外でも出席可)があるはずですので、自分はギャンブル依存かどうかがわからない場合はオープンに出る事も可能です。GAは無料です。

2:医者に行く
ちゃんと依存症の事を理解している医者に行く事をお勧めします。これは継続して医者にかかるつもりも必要もない場合でも、いざと言うときの命綱を増やす意味で有効です。まともな医者探しはGAに行ってミーティング終了後に出席者に「一個人としての意見として」お勧めの医者を聞くのが実は手っ取り早かったりします。精神科ならば保険診療が可能です。

3:まぶい分析学の手法でやってみる
奥さんもしくは母親にやってもらえるのなら、又吉先生の方法(まぶい分析学)の方法をやってみる価値があるでしょう。相談は無料ですが、ネット講座は有料です。相談は本ブログのブックマークにあるまぶい分析掲示板から行えます。

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パコ日記の一債務者さんへのお答え

2007-05-15 12:53:29 | アディクション
パコ日記の所の一債務者さんからの質問に答える記事です。パコ日記に投稿してもいいのですが、長文だしあそこもいつ無くなるかわからないので、こっちに書くことにしました。

で、一応このブログは携帯からも投稿できるはずなんですが、手持ちのウィルコムの携帯からは大丈夫でした。再度投稿にチャレンジしていただくか、メールいただければこっちでコメント欄に貼っておきますので、何かありましたらどうぞ>一債務者さん(メールアドレスは迷惑メール対策で半分ずつ書きますが、jiro_yu@ の後ろにmail.goo.ne.jpです)。

さて、一債務者さんの質問をまとめると、次のようなものになるかと思います。


質問1:依存は誰しも持ってて当たり前なものではないのか。

依存自体はは病気じゃありません(依存症は病気)。我々哺乳類は依存無しに生きていけませんから、全ての人は誰かにあるいは何かに依存して生きています。だから依存は誰でも「持ってて当たり前」です。
酒やギャンブルは感情の開放や高揚感を得るために使うわけで、馬券を買う人や酒を飲む人は、気持ちを変えるためにそういったものに依存していると言う事も出来ます。

問題なのは依存が不適切で要求レベルが際限なく上昇し、ついにはコントロールできなくなる場合です。このような状況を依存症と呼び、それはうつ病や総合失調症と同様な精神的な病気であるわけです。


質問2:依存に「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?

単なる依存に「罪悪感」がくっつくと依存症になる....ですが、これは一般的な理論ではなく、私が師事してる又吉正治氏の理論によります。アル症においてはかなり信憑性が高い理論だと感じています(とりあえず治療の実例もあるし)。また普通の専門家でも依存症に罪悪感が何らかの形で関わりがあるというのは認めるところではないかと思います。

依存に際限がなく、頻度や強度がだんだんと大きくなるものが依存症で、際限がないだけでは単なる依存(○○好き)で、罪悪感がくっつく事でインフレを起こして頻度や強度が次第に大きくなる(○○依存症)というのが、又吉理論から導き出される結論です。繰り返しますが、この理論は一般的でもないし広く認められているものでもありません。


質問3:単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?

依存する対象はあまり関係ないと思います。基本的に人生に悪影響を及ぼすかどうかは、あくまで使い方の問題で、自分でコントロール可能かどうかが重要です(大抵はコントロールできないと人生に悪影響を及ぼします)。


質問4:「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。

これはHIDEさんには異論があるでしょうが、つきつめると私の考ではYesです。特にAAやGAのような12ステップアノニマスグループを使った方法では、そうなるでしょう。
そのあたりの考察を書いた記事がありますので、興味があったらお読み下さい。
AAにおける回復の考察

ただ、グループ等に依存する事は悪いことではないです。間違った依存(依存症)を適切な依存の方向に向ける事が回復(ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方)だと言えるのではないでしょうか。逆に言うと、グループのシステムに依存出来ない人は、このシステムでは回復できないという事も出来ます。

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以下はパコ日記からの一債務者さんの投稿の転載です(パコ日記は無くなるかもということなので、保存の意味をこめて転載してます。転載はダメというのであればご一報下さい転載の許可をいただきました。)
すいません。もぅコメントしませんとか言っておきながらコメントさせて下さい。(前回名前を入れ忘れてました)このブログはトモさんのブログなので気が引けるのですが、個人的にお尋ねしたい事がありまして。私はハッキリ申し上げて依存症という病気については無学で無知です。ですからこの場にはせっかくこんなにいろんな方がお見えになるのですから是非依存症でない方とも理解を深める意味でもお付き合い頂きたく思います。私実は携帯からしかアクセスする手段がありませんので(次郎さんのブログでコメント出来ませんでした)この場で素直に聞いてみたいと思います。次郎さんやHIDEさんの書き込みをみて、自分なりに考えてみました。何かしらの著書などを見てもみたいのですが、そこに今私の考えている疑問というか質問に対する明確な答えがあるか分かりませんので。何より本と会話は出来ませんし。私の場合は精神科医に診断を受けたワケではありませんので本当のところ依存症かどうかも分かりません。ですが現実に債務が膨んでもやめられず、むしろ逃げるようにパチンコに走った私は依存症だと思っています。それと私の父も多分アルコール依存症だと思っています。家族をどんなに泣かせてもやめられませんでしたから。そこで思ったのですが依存とゆうのは誰しも持ってて当たり前なものでは?と思いました。依存するということは心のより所ということだとしたら、それはある人は釣りだったり、ある人はゲームだったりするのでは?そこに「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?という事が一つと、あるGAメンバーさんがおっしゃっていた「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。あと匿名希望さんもやはりGAメンバーの方だったのですね。パコさんが近い将来どういう気持ちになるか…それが現実にならない事を本当に心底祈りたいです。無学で無知な私の相手は疲れてしまうかもしれませんがお付き合い頂ける幸いです。よろしくお願いします。長文失礼しました。
Posted by: 一債務者 | 2007年05月14日 05:21

依存症は病気である、それは風邪が病気なのと同じ意味で病気なのだ

2007-05-04 14:17:31 | アディクション
最近すっとばして書いてきましたが、書いて発表する事は結局人に認められたいという気持ちが原動力になってるわけなのですが、何かそういう評価もどうでもいいような感じになってきています。

どうも本当の私の興味はアディクションというより、沖縄の民俗的な事象の方にあるようで、このブログもアル中の所が完結したら沖縄民俗について書く方向性になるのかもしれません。

それはそれとして、今少し気になっている事があるのでそれについて書きます。



「依存症は病気である」と書いても、

え?、そんなの常識じゃん。いまさら何?

と言われるような気がするのですが、最近この事は一般的にはあまり理解されていないのではないかと心配になっています。

前述のパコのパチンコ日記でのブログ主本人とのやりとり(あるいは周辺の人の書き込み)の中でも、ギャンブル依存を病気と認識した上で書いている人がほとんどいないのを感じました。

このブログをお読みの方には「依存症は病気」というのは常識であるかとは思いますが、念のため説明してみたいと思います。

例えばアルコールを例に出すと、病気という意味は本人の意思が弱いから飲んでしまうのではなく、インフルエンザにかかれば熱が出るように、アルコール依存症にかかると酒を渇望し飲むとコントロールが効かなくなる、そういう意味での病気です。

最近鬱病に関しては「頑張れ」と励ましたり「そんなの気をしっかりもてば大丈夫だよ」というアドバイスが如何に無意味で危険な事かは認識されてきたようです。
それと全く同じ意味で、アディクションの患者に対して「意志の力が弱いからだ」とか「病気に甘えるな」などと対処する事がどれほど的外れで意味がなく、状況を悪化させる一方であるかがもう少し認知されると、各種依存症の患者が治療につながりやすくなるのではないでしょうか。

又吉氏の理論では「罪悪感」こそが「○○をこよなく愛する人」と「○○依存症者」の分岐点になります。又吉氏の理論を外しても一般的にアディクションの世界では「病気である」という教育により「自分をダメ人間として責める」事を止める事が回復への大きな一歩です。

病気であるにも関わらず「意志が弱い」「自己管理ができない」「誰かのせいにして甘えてる」極めつけは「病気のせいにして責任逃れしている」等々の的外れな誹謗中傷は結局病人(依存症者)の罪悪感や自責感を増大させ、病気を悪化させているわけです。これはあたかも風邪を引いて熱を出している人に「体が熱いのなら冷やせばいいだろう」と水風呂に入れるようなものです。

頼むからあんなに苦しんでいる依存症者にさらに苦しみを負わせないでくれ


という思いが、こういう状況を見るにつけ私の心に去来します。

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本当にグループ療法だけでいいの?

2007-05-01 11:41:22 | アディクション
前の記事でトラックバックいただきました、本当にグループ療法だけでいいの?でありますが、長くなりそうなのでこちらで私の考えを書かせていただきます。

アディクション治療に関してですが、米国のAAの現状として以下のような情報があります。
飲みながら死ぬ人が約70%
AAで断酒した人が12%
そのほかの治療方法で断酒した人が18%
大雑把な数字ですが、どうも治療成績はこの程度のようです。

米国のAAは日本とは比較にならないほど盛んで、AAの存在自体が社会から敬意をもたれて受け容れられているわけですが、その本場でも上記のような治療成績です。

日本ではどうかと言いますと、赤城高原ホスピタルの資料で、確かアル症の入院患者の10年生存率は50%程度だったと記憶していますし、酒でなく薬の回復率ですとダルクの資料では、治療に繋がった人で、薬を止められたのは20%程度であったと記憶してます。この結果から見ると、日本の治療成績もせいぜい米国のAAと大差ないという結果のように感じられます。

私はアディクションの治療率の低さは当然の帰結だと思います。なぜなら、
1:原因が不明
2:完治しない(酒ならコントロールして飲めるようにならない)
3:断酒して回復するメカニズムも不明
だからです(なお、上記の想定は10年位前のもので、もしかしたら最近では満足の行く説明がされているかもしれません。もし上記それをご存知の方がいらっしゃいましたら御教授いただければ幸いです)。

このような状況においては「使えそう・使ってみて少しでも効果があったものは全て使う」のが当然でしょう。今のところ12%の効果をもつ療法である「12ステップアノニマスグループ」及びそれに類似したグループ療法は十分に使う意義があると思います。

ちなみにアディクションの原因がどうしてわからないかについては、私は次のように考えています。アディクションの原因には「甘え」の心理があり、西洋では「甘え」の概念自体すらない(土居先生の「甘えの構造」に詳しい)ために、アディクションを理論的に説明する事が出来ないと。

まあ、上の説明は又吉先生の理論から導き出される結果なのですが、おそらくこの理論は広まらないでしょう。私は広まって欲しいと考えてブログをこつこつと書いていますが、まずは自分の事に適用し私の子孫がアディクションで苦しまない所まで行けば、自分に100点あげようかと思ってます。

しかし、ぜんぜん回答になってないなぁ(笑)。モノローグみたい。今読み返すと共依存の記事も焦点が定まっていなくて漫然としてますねぇ。

一度HIDEさんとは会ってお話してみたいなと感じてます。私は東京在住ですから、会えない距離ではないですしね。今私は運命の自然な流れとでも言うべきものにうまく乗ってる感じがするので、HIDEさんと会う運命にあるのであれば、きっと祖先の導きによって出会う事でしょう。

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世界はあるがままで素晴らしい

2007-04-11 11:28:02 | アディクション
パコのパチンコ日記の総括をアップした直後に

受け入れることが答えだった

というページを見ました。

結局わたしが現実を受け容れられていないようです。

リンク先を読んでインドの修行者の話を思い出しました。

弟子「先生、先生は世界のあらゆるものを良いものとして受け容れなさいとおっしゃいました」
師匠「その通り、世界は全て良いものである」
弟子「でも先生、世の中には不正や汚職や裏切りや醜いものや...悪に満ち溢れています。それでも受け容れろと」
師匠「そう、全て良いものとして受け容れなさい。なぜならあなたもその悪の一部なのだから」

アディクションの問題に関しては、たぶん私は運よく変化できた集団に属するのでしょうが、他の事象では私はダメな変わらない人間かもしれません。だとしたら自分のために全てを良き事としてあるがままに受け容れる必要があるのでしょう。

全て受け容れるのにはもう少し時が必要でしょう。きっと一生の時間が。

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アディクションの原因(又は壮大な言い訳)

2007-04-10 12:58:42 | アディクション
アディクションの原因は何でしょうか?
アル症の原因に関しては前にも書いたのですが、「基本的欲求に基づく甘えの未充足からくる飲酒へのしがみつき=普通に飲めてる健康的な大酒飲み状態」に「罪悪感」がくっついたための悪循環の結果なのですが、今回はちょっとだけ別の角度からみていみたいと思います。

人の心は「意識領域+無意識領域」で出来ているという説が一般的です。無意識領域の定義は正直手に余るのですが、ここでは「自己の行動を意識する事無く、自動的に行う領域」とでも定義しましょうか(正直あんまりいい定義じゃないけど)。この定義からすると、例えば歩くことや走る事も無意識で行っていますし、究極的には心臓の鼓動から呼吸の仕方までが無意識領域で行われていると言えます。究極的にはともかくここでは後天的な学習によって得られた行動パターンが無意識化された領域だけに絞って話をします。

例えば箸の使い方は先天的なものではなく後天的な学習で得られますが、普段は箸の使い方なんて意識しません。私はちょっとだけ箸の使い方が変なので、一度直そうと思ったのですがすっかり染み付いた使い方(無意識化された使い方)をついには改定できませんでした。逆にキーボードは最初は一本指入力だったのですが、ブラインドタッチを練習した結果ほとんど無意識で入力できるようになりました。こんな風に後天的に学んだことを無意識化(自動化)する事で、便利に生活する事ができるわけです。

人間の脳の働きとしては、パターン化したことを無意識化し、いちいち意識に昇らせないでも出来るようにするもののようです。しかもこれは肉体の機械的な動作コントロールだけでなく、判断や思考パターン等々、精神的な働きに関しても同じ事が言えるようです。例えばAさんが写っている写真を見て「あ、Aさんだ」と判断するときには「目と鼻の位置関係とか唇の厚さ、輪郭の形等々」を総合的判断しているのですが、これは意識ではなくほとんど無意識で瞬間的な判断として行われます。逆に「どうしてこの写真をAさんだと思う?」と聞かれても、意外と明確な説明が出来なかったりします。

アディクションはこの無意識領域にある何かが原因となって発生しています。有体に言えば「生育暦」上で、ある種の欠損(基本的欲求に基づく甘えの未充足)が生じたのが原因で、その欠損を正しく埋める事が出来ず代替物としてお酒や食べ物やギャンブルや人間関係や薬物を使わざるを得なくなるのが原因だと考えられるのですが、それはおいといて話を進めます。

問題点を修正するためには、原因となる事象が無意識領域内の何であるかを知る必要があります。しかし残念なことにアディクションの場合本人はまず自分の病識がありません(認知不協和によってもたらされる一般的な現象)。次に病識があってもやはり原因は自分ではわかりません。そのため、例えば酒に問題があると思って「明日から飲まないようにする」とか「節酒に心がける」とか「ビールがいけないから、チューハイにしよう」とか色々と方策を考えるのですがうまく行きません。
これは例えるならば、腕の腫れの原因が骨折であるにも関わらず「ばい菌が入って腫れたんだから、抗生物質を注射しよう」といった、的外れな対応になっているため、骨折の有効な治療が出来ていないためです。

結局は問題の原因が何であるかを知り、それに有効な方法を取らない限りどうにもならないわけです(原因はわからなくても、有効な方法を取れば効果はあります)。そして原因に関しては自分でもわかりませんが、他人にもやはりわかりません。そのため症状から普通に推測できる対処法のアドバイスはほとんど意味を成しません。アル症の人に「酒の買い置きを止めなさい、私がチェックして全部捨てるから」とか「食事代以外にお金を持たせない」とか「一日にビール1本までにしなさい」とかの忠告や強制をしても、食事を抜いてワンカップを買うとか、家の中に信じられないほど巧妙にお酒の隠し場所を作ったりとか、味醂や料理酒、果てはヘアトニックを飲んだりとか、酒がないと暴れてみたりとか、一時的にはうまくいっても、結局は破綻が待っているわけです。

さて、なんでこういう事を長々と書いたかと言うと、全く別のクローズドな場所で以下のような我が師匠の文章(いや、別に私に向けて書いたわけではないのですが)を読んでの言い訳でありました(笑)。いやー、われながら長くて回りくどい言い訳だこと!

直したいところを、いくら意識でどうこうしても、かえってひどくなるだけで、解決などはいたしません。心理学を学ぶと、相手が見えたような気になり、かなり尊大になり、相手に注意を与えて行くことが行われたりします。これはナンセンスです。

あー、師匠、全く赤面の至りであります。あと少しでその道を邁進してしまうところでした。是非今度はそういうナンセンスなことをしないで済むような心理状態に至る方法を聞かせてください。

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