パコ日記の所の一債務者さんからの質問に答える記事です。パコ日記に投稿してもいいのですが、長文だしあそこもいつ無くなるかわからないので、こっちに書くことにしました。
で、一応このブログは携帯からも投稿できるはずなんですが、手持ちのウィルコムの携帯からは大丈夫でした。再度投稿にチャレンジしていただくか、メールいただければこっちでコメント欄に貼っておきますので、何かありましたらどうぞ>一債務者さん(メールアドレスは迷惑メール対策で半分ずつ書きますが、jiro_yu@ の後ろにmail.goo.ne.jpです)。
さて、一債務者さんの質問をまとめると、次のようなものになるかと思います。
質問1:依存は誰しも持ってて当たり前なものではないのか。
依存自体はは病気じゃありません(依存症は病気)。我々哺乳類は依存無しに生きていけませんから、全ての人は誰かにあるいは何かに依存して生きています。だから依存は誰でも「持ってて当たり前」です。
酒やギャンブルは感情の開放や高揚感を得るために使うわけで、馬券を買う人や酒を飲む人は、気持ちを変えるためにそういったものに依存していると言う事も出来ます。
問題なのは依存が不適切で要求レベルが際限なく上昇し、ついにはコントロールできなくなる場合です。このような状況を依存症と呼び、それはうつ病や総合失調症と同様な精神的な病気であるわけです。
質問2:依存に「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?
単なる依存に「罪悪感」がくっつくと依存症になる....ですが、これは一般的な理論ではなく、私が師事してる又吉正治氏の理論によります。アル症においてはかなり信憑性が高い理論だと感じています(とりあえず治療の実例もあるし)。また普通の専門家でも依存症に罪悪感が何らかの形で関わりがあるというのは認めるところではないかと思います。
依存に際限がなく、頻度や強度がだんだんと大きくなるものが依存症で、際限がないだけでは単なる依存(○○好き)で、罪悪感がくっつく事でインフレを起こして頻度や強度が次第に大きくなる(○○依存症)というのが、又吉理論から導き出される結論です。繰り返しますが、この理論は一般的でもないし広く認められているものでもありません。
質問3:単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?
依存する対象はあまり関係ないと思います。基本的に人生に悪影響を及ぼすかどうかは、あくまで使い方の問題で、自分でコントロール可能かどうかが重要です(大抵はコントロールできないと人生に悪影響を及ぼします)。
質問4:「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。
これはHIDEさんには異論があるでしょうが、つきつめると私の考ではYesです。特にAAやGAのような12ステップアノニマスグループを使った方法では、そうなるでしょう。
そのあたりの考察を書いた記事がありますので、興味があったらお読み下さい。
AAにおける回復の考察
ただ、グループ等に依存する事は悪いことではないです。間違った依存(依存症)を適切な依存の方向に向ける事が回復(ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方)だと言えるのではないでしょうか。逆に言うと、グループのシステムに依存出来ない人は、このシステムでは回復できないという事も出来ます。
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以下はパコ日記からの一債務者さんの投稿の転載です(パコ日記は無くなるかもということなので、保存の意味をこめて転載してます。転載はダメというのであればご一報下さい転載の許可をいただきました。)
すいません。もぅコメントしませんとか言っておきながらコメントさせて下さい。(前回名前を入れ忘れてました)このブログはトモさんのブログなので気が引けるのですが、個人的にお尋ねしたい事がありまして。私はハッキリ申し上げて依存症という病気については無学で無知です。ですからこの場にはせっかくこんなにいろんな方がお見えになるのですから是非依存症でない方とも理解を深める意味でもお付き合い頂きたく思います。私実は携帯からしかアクセスする手段がありませんので(次郎さんのブログでコメント出来ませんでした)この場で素直に聞いてみたいと思います。次郎さんやHIDEさんの書き込みをみて、自分なりに考えてみました。何かしらの著書などを見てもみたいのですが、そこに今私の考えている疑問というか質問に対する明確な答えがあるか分かりませんので。何より本と会話は出来ませんし。私の場合は精神科医に診断を受けたワケではありませんので本当のところ依存症かどうかも分かりません。ですが現実に債務が膨んでもやめられず、むしろ逃げるようにパチンコに走った私は依存症だと思っています。それと私の父も多分アルコール依存症だと思っています。家族をどんなに泣かせてもやめられませんでしたから。そこで思ったのですが依存とゆうのは誰しも持ってて当たり前なものでは?と思いました。依存するということは心のより所ということだとしたら、それはある人は釣りだったり、ある人はゲームだったりするのでは?そこに「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?という事が一つと、あるGAメンバーさんがおっしゃっていた「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。あと匿名希望さんもやはりGAメンバーの方だったのですね。パコさんが近い将来どういう気持ちになるか…それが現実にならない事を本当に心底祈りたいです。無学で無知な私の相手は疲れてしまうかもしれませんがお付き合い頂ける幸いです。よろしくお願いします。長文失礼しました。
Posted by: 一債務者 | 2007年05月14日 05:21
で、一応このブログは携帯からも投稿できるはずなんですが、手持ちのウィルコムの携帯からは大丈夫でした。再度投稿にチャレンジしていただくか、メールいただければこっちでコメント欄に貼っておきますので、何かありましたらどうぞ>一債務者さん(メールアドレスは迷惑メール対策で半分ずつ書きますが、jiro_yu@ の後ろにmail.goo.ne.jpです)。
さて、一債務者さんの質問をまとめると、次のようなものになるかと思います。
質問1:依存は誰しも持ってて当たり前なものではないのか。
依存自体はは病気じゃありません(依存症は病気)。我々哺乳類は依存無しに生きていけませんから、全ての人は誰かにあるいは何かに依存して生きています。だから依存は誰でも「持ってて当たり前」です。
酒やギャンブルは感情の開放や高揚感を得るために使うわけで、馬券を買う人や酒を飲む人は、気持ちを変えるためにそういったものに依存していると言う事も出来ます。
問題なのは依存が不適切で要求レベルが際限なく上昇し、ついにはコントロールできなくなる場合です。このような状況を依存症と呼び、それはうつ病や総合失調症と同様な精神的な病気であるわけです。
質問2:依存に「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?
単なる依存に「罪悪感」がくっつくと依存症になる....ですが、これは一般的な理論ではなく、私が師事してる又吉正治氏の理論によります。アル症においてはかなり信憑性が高い理論だと感じています(とりあえず治療の実例もあるし)。また普通の専門家でも依存症に罪悪感が何らかの形で関わりがあるというのは認めるところではないかと思います。
依存に際限がなく、頻度や強度がだんだんと大きくなるものが依存症で、際限がないだけでは単なる依存(○○好き)で、罪悪感がくっつく事でインフレを起こして頻度や強度が次第に大きくなる(○○依存症)というのが、又吉理論から導き出される結論です。繰り返しますが、この理論は一般的でもないし広く認められているものでもありません。
質問3:単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?
依存する対象はあまり関係ないと思います。基本的に人生に悪影響を及ぼすかどうかは、あくまで使い方の問題で、自分でコントロール可能かどうかが重要です(大抵はコントロールできないと人生に悪影響を及ぼします)。
質問4:「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。
これはHIDEさんには異論があるでしょうが、つきつめると私の考ではYesです。特にAAやGAのような12ステップアノニマスグループを使った方法では、そうなるでしょう。
そのあたりの考察を書いた記事がありますので、興味があったらお読み下さい。
AAにおける回復の考察
ただ、グループ等に依存する事は悪いことではないです。間違った依存(依存症)を適切な依存の方向に向ける事が回復(ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方)だと言えるのではないでしょうか。逆に言うと、グループのシステムに依存出来ない人は、このシステムでは回復できないという事も出来ます。
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以下はパコ日記からの一債務者さんの投稿の転載です(パコ日記は無くなるかもということなので、保存の意味をこめて転載してます。
すいません。もぅコメントしませんとか言っておきながらコメントさせて下さい。(前回名前を入れ忘れてました)このブログはトモさんのブログなので気が引けるのですが、個人的にお尋ねしたい事がありまして。私はハッキリ申し上げて依存症という病気については無学で無知です。ですからこの場にはせっかくこんなにいろんな方がお見えになるのですから是非依存症でない方とも理解を深める意味でもお付き合い頂きたく思います。私実は携帯からしかアクセスする手段がありませんので(次郎さんのブログでコメント出来ませんでした)この場で素直に聞いてみたいと思います。次郎さんやHIDEさんの書き込みをみて、自分なりに考えてみました。何かしらの著書などを見てもみたいのですが、そこに今私の考えている疑問というか質問に対する明確な答えがあるか分かりませんので。何より本と会話は出来ませんし。私の場合は精神科医に診断を受けたワケではありませんので本当のところ依存症かどうかも分かりません。ですが現実に債務が膨んでもやめられず、むしろ逃げるようにパチンコに走った私は依存症だと思っています。それと私の父も多分アルコール依存症だと思っています。家族をどんなに泣かせてもやめられませんでしたから。そこで思ったのですが依存とゆうのは誰しも持ってて当たり前なものでは?と思いました。依存するということは心のより所ということだとしたら、それはある人は釣りだったり、ある人はゲームだったりするのでは?そこに「罪悪感」がくっついたらそれはもう依存症になってしまうのか?単に人生に悪影響を及ぼすものに依存するとそれを依存症と呼ぶのか?という事が一つと、あるGAメンバーさんがおっしゃっていた「ギャンブルが出来る環境でもしなくてもすむ生き方」とはつまり、「依存先を変える」と同義なのか?という事です。あと匿名希望さんもやはりGAメンバーの方だったのですね。パコさんが近い将来どういう気持ちになるか…それが現実にならない事を本当に心底祈りたいです。無学で無知な私の相手は疲れてしまうかもしれませんがお付き合い頂ける幸いです。よろしくお願いします。長文失礼しました。
Posted by: 一債務者 | 2007年05月14日 05:21
今の私には十二分に理解できる内容でした。
ありがとうございます。ロックさんから教えて頂いた著書は私の町の本屋にはありませんでした。(取り寄せます)
そこでコメントにAC(アダルト・チルドレン)という言葉が出てきていたので興味があり、手持ちのお金で斎藤学先生の著書を読みした。
内容に驚き、戸惑いました。考えれば私は十分にその要素がありますから。とすればそこでまた疑問が生まれます。質問ばかりで申し訳ないんですが「酒」や「ギャンブル」に溺れる人間には機能不全な家族で生まれ育った背景が「必ず」あるというか逆を言えばそれが「必須」なのでしょうか?そのような環境で育ってない方はまず「依存症」にはならないのでしょうか?
あとこれが今一番悩んでしまう問題で「依存症者」もしくは「共依存症者」が周りにいたとしたら、その人への「アプローチ」の仕方です。
私の場合はブログという形でしたが。
誰だって極端ですが
「あなた病気だ」
と言われても
「何言ってんだこいつ」と思うに決まってますよね。次郎さんのお考えで構いませんから最善だと思われる治療へ導きやすい接し方を聞かせて下さい。
いろいろ質問ばかりしてしまいましたが今の私はなんか以前のような「ギャンブルやめなきゃ」
というより「依存症について知りたい」欲求の方が強いのかもしれません。「病気」と「原因」について考え始めてから1ヶ月経ちましたがその間パチンコは1度もしていません。ですがやりたい気持ちはまだユラユラ揺れていますからやはり「病気」なのか。
しかしトモさんに出会ったのはやはり間違いではありませんでした。
今の私の考えでもトモさんは「共依存」だと思っています。私の母と似ている事に気付き、だから魅かれたのか。「共依存者」として生きた方がいいのか「トモさん」として生きた方がいいのか。少なくともパコさんにとってそれは「個」の自立と自覚の妨げになっている事実がただただ悲しいのです。
質問はまだまだわいて出て来ていますが(笑)
今回はこれで失礼したいと思います。
(一債務者改めスケゾウ)
注:携帯からだとコメントに書き込みが出来ないとの事で、頂いたメールを次郎がコメント欄にアップしました。
質問はどんどんしていただいて結構ですよ。こちらも答える事で思考の整理になりますから。
>酒」や「ギャンブル」に溺れる人間には機能不全な家族で生まれ育った背景が「必ず」あるというか逆を言えばそれが「必須」なのでしょうか?
暴論と言われそうですが、私は「必ずある」と考えています。なお、私の機能不全家庭の定義は「生育過程で著しい基本的欲求に基づく甘えの未充足が生じる家庭」で、普通の定義よりも明確ではないかと考えます。
>そのような環境で育ってない方はまず「依存症」にはならないのでしょうか?
なる可能性はありますが、はるかになり難いと思います。
>とこれが今一番悩んでしまう問題で「依存症者」もしくは「共依存症者」が周りにいたとしたら、その人への「アプローチ」の仕方です。
アプローチは本当に難しいです。この病気の特徴として「病気であるのを認めない」というのがありますから。私も昔はもっと熱意があったのですが今では「いざというときに助けを求める場所」を紹介するだけで、後は各人の運命に任せるというのが基本姿勢になってます。
パコ日記ではその基本姿勢を逸脱しましたけど(笑)。
>しかしトモさんに出会ったのはやはり間違いではありませんでした。
私もそれは間違いではないと思います。私にとっても実りがありましたし。
>少なくともパコさんにとってそれは「個」の自立と自覚の妨げになっている事実がただただ悲しいのです。
そうですねぇ。トモさんが悪人だったら単純なんですが、どう考えてもいい人なので悲しみや無力感がつのるんですよね。で、パコさんの状態は悪化し続けると・・・・
日記があそこで終わる時点でそれは「間違った情報」にしかならない理由が…。私も否認組だったので反省です。
次郎さんのお考えでは「依存症者」つまり皆「AC」なんですね。
私も知れば知るほどそうだと思います。
次郎さんがおっしゃっていた「双方病気だな」の意味がよくよく理解できるようになりました。
私には「双方被害者」に聞こえてしまいます。
そこで今度は治療に関しての質問にお付き合いして頂きたいと思います。「治療」とはつまり「過去の自分との和解」もしくは「過去の出来事の克服」だということですか?それと要するにどうなればいいのかというと逆に自分に対し常に「肯定的な思考」もしくは「自己否定的な考えの排除」が出来るようになれば問題無くなるのですか?
「治療を続ける」という意味は定期的に「肯定的な思考」を取り戻すということですか?
これは個人別に多種多様な原因があると思うので大体というか広い意味で構いませんのでよろしくお願いします。
それとこの内容に触れたら今現在治療に携っている方、もしくは患者に悪影響が及ぶ可能性があると次郎さんが判断される場合、無理にお答え頂かなくとも構いません
注:頂いたメールを次郎がコメント欄にアップしました。
少なくともアディクションの狂った考えからは
修正される可能性が高いですから。
後は時間をかけて、自分の生活や人生を見ていけばいいことです。
正直言ってわたしもGAに依存していますよ。
今の私にはGAが無くなると、正しい生活の基盤が
なくなってしまいますから。
だから、GAを存続するためには、無償の行為も
GAメンバーは進んでするのだと思います。
自分のためにです。
殆どの人がそうだと思いますが、ギャンブルのことを頭で考え続けたことによりギャンブル依存症になったわけではありません。
ギャンブルをする という行動(行為)を取り続けたことによって 「病気」と呼ばれる状態となったわけです。
「回復は足から。」 GAでよく言われる言葉ですが、その通りだと思っています。
例えば、山の地図をいくら丁寧に隅々まで眺めても
決して実際に登った人と同じ理解は出来ません。
山の空気、匂い、等 実際に登らなければ決してわかりません。
私はGAミーティング参加 という行動を続けることにより色々なことを気付いていくようになりました。
「GA参加」 は私の人生を新しいものにしてくれました。スケゾウさんにも平安の日々が訪れますように。
勝手な書き込みどうかお許し下さい。
これからも色々な情報 楽しみにしております。