今までのアディクション治療の考え方では「共依存は悪なので、依存症者と共依存症者(夫婦である場合が多い)は分断して個別に治療する」というのが常道です。
しかし又吉氏の理論を導入すると、共依存には正しい共依存と間違った共依存がある事がわかります。
この正しいと間違ったというのは何処が違うのでしょうか
それは一言で言うと「甘えさせる」と「甘やかす」の違いになります。
適切に基本的欲求に基づく甘えを満たす=甘えさせる・甘える
不適切に基本的欲求に基づく甘えを満たす=甘やかす・甘やかされる
適切というのは本来の段階の欲求に基く甘えを満たすことで、不適切というのは退行や越行で出ている部分の甘えを満たす事です。退行や越行、本来の段階の欲求に関してはアルコール依存症に関して書いた内容を読んでいただけるといいのですが、読んでない人のためにアル症のときに使った例で簡単に説明しますと.....
例えばお腹がすいている人が、食料が手に入らないので仕方なく水を飲んで空腹感を紛らわすという例を考えましょう。
ここでは「ご飯が食べたいという欲求=本来の欲求」であり、「本来の欲求の解消=ご飯を食べる」という事になります。しかし、食料が手に入らないために「水を飲んで空腹を紛らわす」という行動は、真の欲求(ご飯が食べたい)を他の方法で摩り替えて充足させる事になります。従っていくら水を飲んでも最終的には空腹はまぎれませんから、水を飲む行為は際限がなくなります。
つまり
ご飯を食べさせる=適切に甘えさせる
水を飲ませる=不適切に甘やかす
という事になります。
適切に甘えさせると、ある程度充足すると要求がなくなりますが、甘やかしの場合は際限なく行われます。自分の行為が「適切な甘えさせ」か「不適切な甘やかし」かを判断するには要求に際限がないかどうかで判断できるでしょう。
共依存について その1のコメントにあるように、アディクションに関わる医者(というか、はっきり言うと斉藤学先生)の発言にも「世話しろ」「世話するな」という2種類のメッセージがケースバイケースで含まれて居ますが、それは臨床経験の中で世話焼きにも2種類ある事を体得しているからなのでしょう。しかしその違いについて理論化は出来ていないようです。斎藤先生の話では、どちらかというと親子関係では「世話しろ」が出てくるようで、夫婦関係ではあまり出てこないような印象があります。
もともと夫が問題行動を起こしたら、妻がそれを助けようとするのは自然な行動であり、なんら非難される筋合いのものではありません。ただ、適切なやり方と不適切なやり方があり、多くの場合は不適切なやり方が行われてしまうようです(いや、もしかしたら適切なやり方で解決している人が多数なのかもしれませんが、自然にうまくいった例は表面には出てこないので何ともいえませんが)。
なぜ不適切な方法しか取れないかと言うと、問題行動をおこすような人は生育暦に問題(満たされていない甘えの欲求)があり、そういう人と結婚する人もまた生育暦に問題がある場合が大多数だからです。父がアル中で自分は絶対にアル中とは結婚するまいと心に誓った人の結婚相手がアル中になる、などという笑い話のような現実がこの世にはありふれています。アル中をギャンブル、女遊び、DVなどに置き換えるとさらに実例は増えるでしょう。
結局南極、甘えの欲求を満たすためには甘えを与える必要があるのですが、与える側の人の甘えの欲求が満たされていない状態ではそれが難しい上に、第一何が満たされていないのか、満たすためにはどうしたらいいのかがわからない限りうまく行きません。
さて、最後にゲストさんのコメントを抜粋してレスさせてもらいます。
>こんにちは。はじめましてかな?
もしかしたらどこかで会ってるかも(笑)。この世界狭いですから。
>無条件の愛情を求めている依存症者に対して、
>徹底的に愛情を注ぐことが必要と言われる人もいます。
>「徹底的な愛情=世話焼き」とはならないと思います。
>管理人さんのおっしゃる「世話焼きを止める」のがいいのでしょうか??
これはもうおわかりですよね。「甘やかし」になるのなら、それは際限がないという事です。従って際限がなくても問題なければそれでもかまわないと思います。
>斉藤学氏が摂食障害の子供に対して、
>要求する金額を与えなさいと言ってたと思います。
>私はこれは「世話焼き」だと思っています。
>例えば、金額の上限を決めて、
>上限を超えた金額は渡さないとすると、
>これは「世話焼きを止める」ことではないかと思っています。
これはお金を与える事(あるいは上限を決めてお金を与える事)が「甘やかし」になっているかどうかで判断するべきでしょう。お金を与える事自体は「適切な甘えさせ」「甘やかし」のどちらにもなり得ますので、ケースバイケースですね。
>依存症の人の訴えに応えることが
>世話焼きになるのでしょうか??
>たとえ訴えがあっても、
>それに応えられる範囲を設ける
>のがいいのでしょうか???
繰り返しになりますが、依存症の人の訴えに応える事自体は自然な事だと思います。要は「甘やかし」になっていないか、甘やかしの場合、その要求に際限なく応じ続ける事が出来るかどうかが判断材料になります。
ただ、夫婦だけという事であればこれでいいでしょうが、子供がいて、子供にはこういう思いをさせたくないとお考えであれば、やはり適切に甘えさせる方法を考えて欲しいと、アル中の家庭に育ったACという背景を持っている私個人は思います。何世代か続いてきた「親の因果が子に報い」が子や孫の代まで継続される事になるでしょうから。
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しかし又吉氏の理論を導入すると、共依存には正しい共依存と間違った共依存がある事がわかります。
この正しいと間違ったというのは何処が違うのでしょうか
それは一言で言うと「甘えさせる」と「甘やかす」の違いになります。
適切に基本的欲求に基づく甘えを満たす=甘えさせる・甘える
不適切に基本的欲求に基づく甘えを満たす=甘やかす・甘やかされる
適切というのは本来の段階の欲求に基く甘えを満たすことで、不適切というのは退行や越行で出ている部分の甘えを満たす事です。退行や越行、本来の段階の欲求に関してはアルコール依存症に関して書いた内容を読んでいただけるといいのですが、読んでない人のためにアル症のときに使った例で簡単に説明しますと.....
例えばお腹がすいている人が、食料が手に入らないので仕方なく水を飲んで空腹感を紛らわすという例を考えましょう。
ここでは「ご飯が食べたいという欲求=本来の欲求」であり、「本来の欲求の解消=ご飯を食べる」という事になります。しかし、食料が手に入らないために「水を飲んで空腹を紛らわす」という行動は、真の欲求(ご飯が食べたい)を他の方法で摩り替えて充足させる事になります。従っていくら水を飲んでも最終的には空腹はまぎれませんから、水を飲む行為は際限がなくなります。
つまり
ご飯を食べさせる=適切に甘えさせる
水を飲ませる=不適切に甘やかす
という事になります。
適切に甘えさせると、ある程度充足すると要求がなくなりますが、甘やかしの場合は際限なく行われます。自分の行為が「適切な甘えさせ」か「不適切な甘やかし」かを判断するには要求に際限がないかどうかで判断できるでしょう。
共依存について その1のコメントにあるように、アディクションに関わる医者(というか、はっきり言うと斉藤学先生)の発言にも「世話しろ」「世話するな」という2種類のメッセージがケースバイケースで含まれて居ますが、それは臨床経験の中で世話焼きにも2種類ある事を体得しているからなのでしょう。しかしその違いについて理論化は出来ていないようです。斎藤先生の話では、どちらかというと親子関係では「世話しろ」が出てくるようで、夫婦関係ではあまり出てこないような印象があります。
もともと夫が問題行動を起こしたら、妻がそれを助けようとするのは自然な行動であり、なんら非難される筋合いのものではありません。ただ、適切なやり方と不適切なやり方があり、多くの場合は不適切なやり方が行われてしまうようです(いや、もしかしたら適切なやり方で解決している人が多数なのかもしれませんが、自然にうまくいった例は表面には出てこないので何ともいえませんが)。
なぜ不適切な方法しか取れないかと言うと、問題行動をおこすような人は生育暦に問題(満たされていない甘えの欲求)があり、そういう人と結婚する人もまた生育暦に問題がある場合が大多数だからです。父がアル中で自分は絶対にアル中とは結婚するまいと心に誓った人の結婚相手がアル中になる、などという笑い話のような現実がこの世にはありふれています。アル中をギャンブル、女遊び、DVなどに置き換えるとさらに実例は増えるでしょう。
結局南極、甘えの欲求を満たすためには甘えを与える必要があるのですが、与える側の人の甘えの欲求が満たされていない状態ではそれが難しい上に、第一何が満たされていないのか、満たすためにはどうしたらいいのかがわからない限りうまく行きません。
さて、最後にゲストさんのコメントを抜粋してレスさせてもらいます。
>こんにちは。はじめましてかな?
もしかしたらどこかで会ってるかも(笑)。この世界狭いですから。
>無条件の愛情を求めている依存症者に対して、
>徹底的に愛情を注ぐことが必要と言われる人もいます。
>「徹底的な愛情=世話焼き」とはならないと思います。
>管理人さんのおっしゃる「世話焼きを止める」のがいいのでしょうか??
これはもうおわかりですよね。「甘やかし」になるのなら、それは際限がないという事です。従って際限がなくても問題なければそれでもかまわないと思います。
>斉藤学氏が摂食障害の子供に対して、
>要求する金額を与えなさいと言ってたと思います。
>私はこれは「世話焼き」だと思っています。
>例えば、金額の上限を決めて、
>上限を超えた金額は渡さないとすると、
>これは「世話焼きを止める」ことではないかと思っています。
これはお金を与える事(あるいは上限を決めてお金を与える事)が「甘やかし」になっているかどうかで判断するべきでしょう。お金を与える事自体は「適切な甘えさせ」「甘やかし」のどちらにもなり得ますので、ケースバイケースですね。
>依存症の人の訴えに応えることが
>世話焼きになるのでしょうか??
>たとえ訴えがあっても、
>それに応えられる範囲を設ける
>のがいいのでしょうか???
繰り返しになりますが、依存症の人の訴えに応える事自体は自然な事だと思います。要は「甘やかし」になっていないか、甘やかしの場合、その要求に際限なく応じ続ける事が出来るかどうかが判断材料になります。
ただ、夫婦だけという事であればこれでいいでしょうが、子供がいて、子供にはこういう思いをさせたくないとお考えであれば、やはり適切に甘えさせる方法を考えて欲しいと、アル中の家庭に育ったACという背景を持っている私個人は思います。何世代か続いてきた「親の因果が子に報い」が子や孫の代まで継続される事になるでしょうから。
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