北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

■01B 須坂市福島町 大幟(その3) 幟の枠(支柱)

2016年08月03日 | 01 山崎儀作

今回は、幟の竿を固定する支柱(枠)を紹介します。幟竿は36mありますので、支柱もそれなりに大きさが必要です。一見シンプルに見える構造ですが隠れた宮大工の技があります。材料のケヤキは硬い木材ですので加工が大変であったと思います。彫物については次回紹介します。

 

まず、幟製作の棟梁 小布施町飯田地区出身の本間新作です。天保3年(1832)に小布施飯田の宮大工 本間勝弥の長男として出生。父の本間勝弥は、新作の生まれた同年(天保3年)に地元の飯田郷元神社拝殿を初代亀原和太四郎(高山村)とともに棟梁を勤めて造営している。本間新作は、福島の幟を作った3年後の明治16年に隠居し、家督を長女の夫 本間要一に譲っている。明治37年(1904 )に死去。絵伝の新作の後方の人物は義理の息子の要一でしょうか。

 

改めて幟全景。2本で南と北になります。ご覧のように幟は一方向から見ると旗の字の面が逆になります。幟は本来神社の入口に2本建てられ、参拝に行くときに片方の幟が正面(字面)を向き、参拝が終わって帰るときにもう片方の幟の字面が見られるようになっております。おそらく元々は神様を迎えて祭事の後に送る時に神様のために見てもらうために建てたものでしょう。

 

幟の枠を設置した状態です。4本の柱(主柱、前柱、側柱2)で構成されています。主柱は幅50㎝、全長が393㎝で地中部が82㎝あります。前柱は全長218㎝で地中部85㎝。側柱は全長304㎝で地中部は65㎝です。全てけやき材です。

 

幟竿を固定するとこんな状態になります。両脇の木鼻は飾りですが、主柱の彫物は、竿を固定する役目もあります。

 

主柱を地中に埋めて固定している場面。本来は幟は別の場所に建てられており、石工によりしっかりした礎石で固定できるようになっていたと思います。今回は畑地でしたので重機で1m近く掘って埋めてさらに固定する作業を必要としました。

 

枠の模式図(正面から)。主柱と側柱です。横に渡した木と主、側柱の接合部(継手)が複雑な構造になっています。

 

横木の側柱に接合する部分の継手。

 

側柱の横木が入る部分(継手)。ケヤキを正確に加工することは大変な労力であったと思いますし、本間新作棟梁はじめ大工の方々を尊敬します。

 

側面からの模式図。主柱と前柱。その間には 上部に竿受け部、下方に2本の支える部材が接合しております。

 

竿を受ける部分です。上面の四角の穴に竿がはまります。両脇は円になっております。昔は人力で幟を建立しましたので、まずこの竿受け部を横に回転させ竿をはめてから、回転させて竿をたてる構造になっていました。

 

主柱の一部で、竿受け部の円のところがはまるところです。これは電動工具がない時代の作業です。

 

主柱と竿を固定した状態です。2本のカンザシを使用しています。

 

下部のカンザシです。頭部には鶴、亀の彫物装飾(山嵜儀作)があります。

 

 

上部のカンザシです。後方から刺します。

 

上部のカンザシが主柱、竿を貫通し、前部で受ける部分です。ホゾがあるのがわかります。写真の後方には素戔嗚尊の彫物があります。

須坂の大幟は、地元の方の熱意の元、揮毫をした高井鴻山、本間新作棟梁、そして彫工である山嵜儀作、2代武田常蔵の結晶です。 次回は彫物を紹介します。

 


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