甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

毛越寺

2008-05-06 18:08:50 | 平泉散歩

 春の藤原祭りが行なわれる中、混雑を覚悟で平泉に行ってきました。とはいえ、最も人出の多そうな「義経東下り」のある3日を避けて。

 7月にはいよいよ世界遺産登録か?!と、メディアを中心に盛り上がっている岩手ではありますが、実は意外と平泉についてよく知らない人も多いのです。(私もその一人。)もし本当に世界遺産になるのなら、その前に「地元」岩手県民として平泉に行っておかなくては、と思ったのでした。

 毛越寺は平泉駅から700mほど。
 寺伝によると・・・嘉祥3(850)年、慈覚大師が霧のために進めなくなっていた時、ふと地面に点々と白鹿の毛が落ちているのを見つけ、その毛をたどったところ白鹿がうずくまっていた。白鹿は姿を消し、代わりに白髪の老人が現れてこの地に寺を建てよ、と告げた。大師はこれを薬師如来の化身と感じ、嘉祥寺を建立した。・・・ということで、これが毛越寺の起こりとされています。その後藤原氏によって再興されます。

 毛越寺にはかつて、金堂円隆寺、嘉祥寺、講堂、常行堂、経楼、南大門などがたちならび、その前庭に大泉が池を中心とする浄土庭園が広がっていました。それらの伽藍は13~4世紀に焼失してしまいました。現在当時の面影をしのばせるものは大泉が池。↑の復元図の左側の大きな池です。(右側は「観自在王院」)
 大泉が池には「中島」があり、南大門と金堂との間に橋が架けられていたようです。


 現在の毛越寺本坊。本尊薬師如来。
 右側に「南大門」跡があり、大泉が池に続きます。かつてはこの南大門が毛越寺の、そして平泉の南の玄関口だったそうで、両側に仁王像を安置した二階惣門だったようですが、現在は礎石12個を残すのみ。


 大泉が池。大きくてとても一枚に収め切れません。これは南大門を背に、右側。中島が見えています。

 そして左側。かつてはこの対岸に大伽藍が並んでいたのです。

 鐘楼跡。金堂を中心として、左右に経楼と鐘楼が配置されていました。
 鴨が泳ぐ池にはかつて「竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)」の船を浮かべて管弦の楽を奏したとのこと。現在でもそれらしい船が浮かんではいます。

 池の北側に「遣り水」があります。渓流と大河を模して作られた流れで、「曲水(ごくすい)の宴」が行なわれる場所でもあります。鳥の形の小さな舟に杯を乗せて上流から流し、歌を詠むという風雅な遊びです。実際にはとても狭い場所です。

 常行堂。本尊宝冠の阿弥陀如来。奥殿に秘仏摩多羅神。正月20日に法楽「延年」の舞が奉納されます。

 常行堂の中。御幣ともちがう、切絵のようなものが気になります。名前は忘れてしまいましたが、決まった様式をもつもので、すべてお坊さん方によって作られるのだそうです。


 本坊前で鹿(しし)踊りの奉納。


 一つ前の写真と同じ場所が翌日にはこうなっていました。 「延年」の舞の披露です。


 二人の童子が登場する「唐拍子」という舞。毛越寺十八坊の師弟は6歳になると舞を習い始めるそうです。床を打つ音、お坊さん方のお経(声明?)に合わせて子ども達が舞います。


 平泉は「奥の細道」の旅で芭蕉が訪れたことでも知られています。これは芭蕉真筆を用いた句碑(左)と、その損傷が激しいことから新たに(とは言え1806年に)建てられた句碑。
   
      夏草や 兵どもが 夢の跡


 そしてこれはその英訳。訳したのはなんと新渡戸稲造です。

     The summer grass
     'Tis all that's left
     Of ancient warriors' dream

 平泉は桜が終わってすでにツツジが満開。藤の花もちらほら見えていました。
 毛越寺はあやめが有名です。



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