甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

達谷窟(たっこくのいわや)

2008-05-07 23:52:05 | 平泉散歩


 平泉駅から毛越寺に至る県道をそのまま厳美渓方面に5kmほど進むと、道路わきに「髢石(かつらいし)」、太田川の川岸に「姫待(ひめまち)の瀧」などといった表示が見られるようになります。山の中に入っていく気分ではありますが、辺りには田園風景が広がり、決して「深山幽谷」ではありません。
 やがて右手に唐突に表れるのが、↑の毘沙門堂。

 狛犬の顔を確かめるのが癖になりました。上は「真実の口」風。下は笑いを必死でこらえてる風。
 ところでここは西光(せいこう)寺という天台宗のお寺の中。毘沙門堂の中には25体の毘沙門天像が安置されています。
 神仏混淆って、むずかしいですね。拍手を打つべきかどうか、悩みどころです。

 さて、急な木造りの階段をあがり、薄暗い毘沙門堂にお参りします。

 約1200年前、悪路王などと呼ばれた蝦夷たちがここを拠点として人々を苦しめていたのを、801年、征夷大将軍・坂上田村麻呂に平定されました。毘沙門天のご加護、と感じた田村麻呂が毘沙門堂を建てたことが始まり、と言われています。

 毘沙門堂の床下。京都の清水寺を模して作られた、というのも納得です。

 毘沙門堂を左側から。岩穴にすっぽりはまるように作られています。

 毘沙門堂を正面から。堂の上の方、岩が崩れたようなあとがありませんか・・・?

 岩面大佛。北限の磨崖仏。これだけ見ると、ここは中国?といった感じ。大日如来とか阿弥陀如来とかいわれているそうです。

 明治の地震で肩から下が崩落してしまったそうです。今後これ以上崩落することがなければいいのですが・・・。実際摩滅は進んでいるようです。

 姫待不動堂。「姫待瀧」の傍らにあったものが移されたようです。
 「姫待瀧」とは、悪路王たちが都からさらってきたお姫様が逃げだそうとしたとき待ち伏せした滝なのだそうです。見せしめに姫の髪を切ってかけたのが「髢石」。都から連れてこられた姫の悲しみや如何。

 姫待不動尊。ものすごい形相ですが、とても心を惹かれました。桂材の一木彫、平安後期の作。火の神様、眼病の神様としても知られているそうです。納得。

 金堂。平成7年完成ですのでピカピカですが、後世に技を伝えるため昔ながらの工法で作られているそうです。本尊は薬師如来。

 蝦蟇が池。すごい名前です。実際、蛙の声はひっきりなしに聞こえていました。平安末期のかわらけが大量に発掘された場所でもあります。
 池の中の弁天堂には八肘の美しい弁天像が安置されていました。

 平泉では田んぼに水が入り、蛙たちが大喜びのGWでした。


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