ごじゃっぺ日記(旧、看悶日記)

京都生まれのにわか茨城県民による雑多な日記です。内容に一貫性はありませんが、どうかひとつ長~い目で見てください。

「大八回り」は我田引鉄の結果か?

2013-04-21 04:51:18 | JR完全乗車への道
塩嶺トンネルは約6㎞

岡谷駅の標高も、塩嶺トンネルを抜けた塩尻側にあるみどり湖駅の標高も約760m。
約6㎞の塩嶺トンネルをほぼ水平に掘ることで、岡谷~塩尻間を16㎞も短縮できたのですね。
さて中央本線が大八回りで完成したのが明治39年。中央構造線上という大断層が位置するこの地点に、約6㎞もの長大トンネルを掘る技術があったかと考えると、いささか疑問が残ります。
…とここまでが、大八回りが伊藤大八による「我田引鉄」の結果ではないという論拠として一般に言われている根拠。

さて、どうしても当時の技術で塩嶺トンネルを掘ると仮定してみよう。
岡谷駅の東隣、下諏訪駅(標高約765m)から湖畔を回り込むように水平にひかれている中央本線を、少し山側に線路をもってきて、岡谷市役所北側(標高785m)付近に岡谷駅を設置します。
このルートだと市役所西側の標高800m地点で山にぶつかります。蒸気機関車の性能を考えると下諏訪~岡谷間の距離からこれ以上標高を稼ぐのは困難。ここを塩嶺トンネル東側坑口するのが妥当でしょう。
現在の国道20号線は更に北側の標高830m地点の岡谷インター近くで山にぶつかりますが、これでは下諏訪から33‰の連続勾配、所謂1/30の急こう配となり現実的ではない。

さて、塩嶺トンネルの西側坑口はどこにしようか妄想します。
長野自動車道の塩嶺トンネルの西側坑口は標高900m付近。もう少し西側に坑口を持って来れば、
標高880m地点に坑口を持ってきて、想定されるトンネル長さは約4㎞少々となります。中央本線笹子トンネルの実績等から妥当なところでしょう。この坑口付近が、岡谷~塩尻間の最高地点です。
汽車は岡谷を出て間もなく塩嶺トンネルに入りますが、実に20‰(1/50)の連続上り勾配です。
逆に塩嶺トンネルを出ると、塩尻駅(標高710m)まで一気に下ります。直線距離で約7㎞。S字に迂回し勾配を緩和しても、20~25‰の連続勾配は避けられません。
もうお気づきでしょうが、塩嶺トンネルはどう頑張っても連続方勾配は避けられないし、塩嶺トンネルを抜けた先も塩尻まで連続勾配となり、これでは距離を短縮できても輸送上ののボトルネックになってしまう。

輸送能力を検証しましょう。
妄想の塩嶺トンネルは単線トンネルなので、このトンネルを挟む約6㎞弱が1閉塞となります。
20‰の連続勾配の長大トンネル。当時の蒸気機関車でトンネルを抜けるのには10~12分程度はかるでしょう。
これでは機関士はもちろん乗客もたまったものではない。

トンネルを登る塩尻方面行きは1閉塞を15分で通過。トンネルを下る岡谷行は約8分で通過と仮定。
当然、1閉塞には1列車しか入れないので、
 ・列車行き違いのネットダイヤで、25分間隔が限界。
   ⇒即ち1時間当たり片方向で2列車しか走らすことができない。
 ・同方向に2列車続行運転するとしても、塩尻方面に向けては17分間隔が必要。
これでは、わざわざ距離を短縮しても特に速度があまりにも低下し、輸送力が逆に低下してしまいます。

逆に辰野経由(大八回り)の最高地点は善知鳥峠付近で標高850m程度。
長大トンネルも少ないため速度が低下する峠付近には信号所を設け、閉塞区間を短縮化して輸送能力を高めています。
明治時代の中央本線建設当時は技術面や建設コストの点から、迂回してでも長大トンネルの開削を避けていたのが一般的だったし、時間短縮より輸送力の確保が優先されていたであろうから、伊藤大八が口をはさむまでもなく塩嶺トンネル建設は実現しなかったのではないでしょうか?

長大トンネルは単線だと、それだけで1閉塞区間が伸びてしまうので輸送能力を低下させてしまいます。技術面で複線トンネルが一般化して初めて、輸送能力の向上につながることを忘れてはいけません。
そしてなにより伊那谷への鉄道建設は私鉄の伊那電気軌道により実現するのですが、伊那地方への鉄道を官設鉄道と接続させるためにはどちらにしても伊那谷の入り口である辰野と岡谷または塩尻の間に鉄道を建設する必要があったことも重要です。

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿