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地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

泰緬鉄道の旅 (3) GE製のシブい罐

2014-04-25 00:00:00 | タイの鉄道


 トンブリー駅にて魅惑のスイッチャーによる入換が行われる一方、本務機としてクラの中から出て来たのがこちら、結構古典的な(?)デザインが魅力的なGE製の電気式DL・4001型です。この罐は一応、タイ国鉄の本線用機関車としては最古参の部類に入り、しかもシンプルな旧塗装で残る個体も少なくなく見かけることから、恐らく近い将来登場する中国製新型罐(たぶん北車大連か南車資陽製?)によって置き換えられる可能性が大だと思われますが、この日の牽引機である4005は新塗装となりピカピカであることから、このグループの中でも最後まで残るのでしょうか。そう考えますと、このハデな新塗装でも喜ぶべきなのでしょうか……。ともあれ、使用停止となった腕木式信号機との組み合わせも、将来的にはそこそこ貴重になると思われますので、とりあえず1枚!



 その後は無事に、前から2両目の日本製・半鋼製ボックスシート車の座席をゲットしまして、とにかく白人観光客と地元客で座席が埋まる光景に仰天しつつ、いよいよ7時50分に発車……と思いきや、7時30分発のランスアン行となるべき編成(ランスアン発の快速列車)が未だ到着せず、しかも直近の交換駅であるタリンチャン・ジャンクションからこちらに到着するのを優先させるため(逆にこちらが先発すれば、7時半発の列車は恐らく車内整備を経て9時半以降発となってしまうことでしょう)、結局8時15分頃まで待たされてようやく発車……(幸先悪ぃ~。鬱)。というわけで、ランスアン行に乗るはずであったタイ人客もことごとくナムトク行に乗せるかたちとなり、ナコーンパトムまではほぼ全席埋まりまくり。ナコーンパトムで大幅に乗降があったあとも、基本的にカンチャナブリーに着くまでは、タイ人・外国人がそれぞれ半々程度な車内が続きました。タリンチャンからナコーンパトムまでは、非常に立派な複線を滑るように走り快適ですが、ナコーンパトムから先の単線では例によって優等列車優先で待たされ、さらにノーンプラドック・ジャンクションから泰緬鉄道=ナムトク線に入りますと、線路状態が格段に悪くなりガタガタと揺れながらの走りとなりました。ミャンマー国鉄の幹線急行と比べればはるかにマシな乗り心地ですが……。
 そんな中、ノーンプラドックからは車内販売のオバチャンが数人乗り込んで来まして、笹の葉で包んだミニ弁当(タイ風タレの鳥めし)や魚肉つくねの類を売りに来ます。一応昼食用にパンを持参しておりましたが、試しに買ってみるとこれがなかなか美味い♪ 但し、10バーツで小腹を満たすという程度のものですので、車内販売で腹一杯になろうと思ったら何度でも呼び止める必要があるでしょう (笑)。
 こんな感じで何となく腹の中が潤ったあとは、ボックスシートの自分の席を完全に放棄しまして、荷物ごと最前部の車両(1949年・日本製のロングシート改造車)のデッキに移動し、罐が発するディーゼル発電機の轟音の中にほんのりと混ざる釣掛サウンドを楽しみつつ、デッキのドアを開け放って全身を田舎の風景の中にさらしたのでした。そして列車は、約40分遅れでカンチャナブリーに到着~! 罐は一旦切り離され、団体用の特別車を迎えに行ってしまいました。そして私は入換の一部始終を撮った後、引き続き1949年製ロングシート車のデッキを死守する体制に入ったのでした。その理由は……つづく (笑)。

泰緬鉄道の旅 (2) スイッチャーで客車入換

2014-04-16 00:00:00 | タイの鉄道


 トンブリー駅で客車を激写しながら、のんびりまったりとした中にも次第に客が増えて賑わいを見せるホームの情景を眺めておりますと、やがてタイ人客がそわそわし始め、私自身も「あれ……何かヤバくないか?」という懸念が生じて参りました。ラチャブリー発・7時10分着の2連DC通勤列車はフツーに到着し、サラヤへ向けて折り返したものの (サラヤは、バンコクの西の街外れにあたる小駅)、その後に来るべきランスアン行普通列車がいつまで経っても入線しないという……。要するにこの列車は、ランスアン発・トンブリー6:40着の快速列車の折り返しであるのですが、タイ国鉄名物・怒濤の遅延のため、そもそも到着していないということなのでありました (汗)。
 では、肝心のナムトク行は……? ネットであれこれ泰緬鉄道乗車記を検索したところ、割と長い編成でやって来るということではないか……。しかし、目の前にいるのは4連と2連でしかなく、両者を足しても長いとは言えない……。さりとて、朝のナムトク行編成は別の場所に留置され、トンブリー駅に回送されて来るという話も聞いたことがありません。



 では、真相は果たして如何に?!……その答えはすぐに明らかとなりました。何と、ロングシートの最古参級客車も含む4連こそ、トンブリー発ナムトク行の編成そのものだったのです! (滝汗) しかも、側線に留置されていた編成に本務機が連結され、客は線路の上を歩いて客車に乗り込むということではなく、まず北側の機関区からスイッチャーが駅東側に出て来て、編成のバンコク寄りに接近・連結ののち一旦全編成が東側引き上げ線に持って行かれ、そのうえで2番線に押し込むという、何とも魅力的な入換を始めたものですからビックリ仰天! 駅舎西側のトイレに近いあたりで、使用停止となった腕木信号機をスナップしながら佇んでいた私は「しまった!美味しすぎる入れ換えをあっちの方でやっている!」と泡を食って、数多の客をかき分けて猛ダッシュ……(^^;;)。辛うじて、編成を2番線に押し込むシーンを激写しまくったのでした (爆)。
 それにしてもこのスイッチャー、専用線用・産業用という雰囲気の面構えがなかなか良いですし、色褪せた塗装もグッド♪ 加えて後ろには旧客ということで……またいずれこの入換シーンはリベンジしなければいかんなぁ、と思っております。
 それはさておき、結局この4連がナムトク行で、うち1両は既述の通りロングシート。いっぽう手前の紫塗装の車両は、半室が乗務員控室、もう半室が僧侶専用席ということですので、一般客は乗れません……。というわけで結局、ほとんどの客は2両目と3両目のボックスシート車 (2両目は1950年代日本製の半鋼製車。3両目は日本10系客車タイバージョンのマッカサン工場ライセンス生産車) に集中し、乗車開始とともにてんやわんやの大騒ぎに! とくに、7時30分発のランスアン行がそもそもトンブリーに到着していないため、ナコーンパトムあたりまで行くと思われる (実際ほとんどその通り。もちろん中にはカンチャナブリーまでの客もいました) タイ人利用客もナムトク行に集中し、発車時点までにボックスシートのほとんどはタイ人と西洋人観光客(そしてチラホラと日本人観光客+鉄ヲタはこの日私一人)で埋まったのでした……(超滝汗)。
 誰だ!ナムトク行はトンブリー発車時点ではガラ空きの快適♪などと書いたのは……。これはひとえに、タイ国鉄が最近ナムトク行きを最初から最後まで長大編成で運転するのを止め、カンチャナブリーからタムクラセー桟道橋の間のみ乗りたい外国ツアー客のために、カンチャナブリーでボックスシート客車を5両増結し、「特別席」と称する座席指定車としているからであります……。まぁ確かに、カンチャナブリー駅やクウェーヤイ川鉄橋駅で大挙して待ち構えるツアー客の皆様が、全車自由席ゆえに右往左往するよりも、タイ国鉄が最初から300バーツという結構な御値段で指定席を売りつけ、外国人や旅行会社も安心して座席を確保する方が、両者にとって便益を最大化出来るというものでしょう。
 というわけで、トンブリーから100バーツ (カンチャナブリー以遠へ行く外国人限定の、泰緬鉄道保存協賛特別外国人運賃)を払って長時間乗車し、かつ進行方向左側のボックスシートを断固ゲットしたい方は、とにかくトンブリー駅に早めに着いて、席取り合戦に勝利するしかなさそうです。まぁ、ランスアン行がフツーに先発していれば、ナコーンパトムあたりまでのタイ人利用客はそちらに流れるでしょうから、ナムトク行は外国人個人客ばかりとなってもう少々車内に余裕があるのかも知れません。
 しかし……近年世界的にタイ観光が大いに脚光を浴びるのみならず(とくに、エキゾチックなオリエンタリズム的思慕を抱きながら、そこそこ便利・快適な旅をも楽しみたいという白人観光客に超人気!)、タイ人中間層の拡大によってバンコク市民も中距離観光を気軽に楽しむようになり、泰緬鉄道はとりわけスペシャルな車窓展望の路線としてタイの内外問わず人気を博する中では、トンブリー発の一般車とカンチャナブリー増結の特別車との分離という政策も空しく、阿鼻叫喚の世界が待ち構えていたのでした……(@o@)。バンコクでどれだけ政情不安があろうが、バリケードとデモ会場の外側では至って平常通りの賑わいがある中では、外国人の誰もが「まぁタイほどの国なら安心して訪問出来るだろう。マイペンラ~イ」とタカをくくり、実際に押しかけておりましたので、政情不安なら観光列車も空いているだろうという「期待」は一切無駄無駄! そして、もし政情不安がなければ、もっと怒濤のように外国人観光客がナムトク行目がけて押しかけるのではないかと……(超滝汗)。では、そんな中でどのように鉄ヲタ活動を貫徹すれば良いのか?! その個人的な答えは、待て次回!(誰も期待してねーか ^^;)。


泰緬鉄道の旅 (1) トンブリーに佇む古参客車

2014-04-05 00:00:00 | タイの鉄道


 泰緬鉄道、すなわち今日のタイ国鉄ナムトク線の定期旅客列車は、時刻表によると毎日3往復設定され、うち1往復は南本線のノーンプラドゥック・ジャンクションとナムトクの間の線内運転。2往復がバンコクからの直通運転となっていますが、日帰りで終点ナムトクまで往復しようとしますと、休日運転・クルンテープ発の観光快速列車に乗らないのであれば、川向こうのトンブリー(バンコク・ノーイ)7時52分発の一択となります。 
 そこで、席取りの都合なども考えれば、7時15~30分頃までにトンブリー駅に到着すれば良いことになりますが、個人的には空港鉄道の沿線・ラーチャプラロップ駅界隈に宿を確保しており、トンブリー駅までは結構遠距離。余りギリギリの時間でタクシーを飛ばそうとしても、朝7時前後には結構交通量も多いことから、渋滞にハマってどうしようもなくなる懸念があります(しかも、後で経験するのですが、バンコクのタクシーは渋滞を嫌うあまり、タクシー営業圏の外側に向かう客には「メーターが対応していない」「道を知らねぇ」とウソを並べて乗車拒否をすることがしばしばであるようです)。そこで、まだ交通量が辛うじて少ない朝5時半過ぎにタクシーを拾ってトンブリー駅まで向かおうと画策した次第。BTSスカイトレインが営業を始める午前6時にパヤータイから電車に乗り、サパーン・タークシン (タークシン橋) にて下車したのち、チャオプラヤー川の快速船に乗ってトンブリー駅最寄りのワンラーン桟橋 (最寄りとはいえ1km近く離れています)にて下船するという手もあり、これが最も優雅でおトクな移動ということになります。しかしまぁ、前日の晩にヤンゴンでの激闘を終えてバンコクに着いたばかりですので、それは面倒臭ぇ (笑)。また、トンブリー駅訪問自体が20年ぶりとなりますので、夜明け後なるべく早い時間に到着し、駅移転後の雰囲気を楽しみたいということもあります。



 というわけで、ラーチャプラロップ駅前でとりあえずタクシーに向かって挙手したところ、熟練運転手氏が「もちろんメーターでトンブリー駅まで行ってやるよ!」と即承諾! これは実に有り難い……! 途中の官庁街では、例のバリケードに行く手を阻まれて迂回を余儀なくされるという一幕もありましたが(運転手氏は「チッ」と舌打ちしながら、私に向かって「しゃーねーなー!」というノリで苦笑い……。いくらタークシン派がキライなバンコク市民でも、さすがに反タークシン大規模街頭占拠の連続にはウンザリであることが垣間見えました)、実にビシバシ飛ばして6時15分頃にトンブリー駅に到着! 既に気の早い客が7時半以降発のランスアン行とナムトク行に乗るべく集まり、のんびりとしておりますが、席が完全に埋まることは到底あるまいと思い (ほとんどのタイ人客はランスアン行に乗るのだろうと推測)、とりあえず目の前にゴロゴロしている客車や貨車を撮りまくったのでした (笑)。
 中でも大いに注目せずにいられなかったのは、裾絞りが無く窓が細かいという点で、明らかに他の車両と比べても古い客車……! スハ32やスハ44のノーシルヘッダー版というべき側面と、戦後型オハ35と満鉄客車を掛け合わせたような妻面の組み合わせが最高に魅力的で、現在のタイ国鉄で依然として現役な1950年代日本製の窓が細かい非冷房2等車と比べても年代モノな雰囲気♪ (そこでウィキペディアでこれらの客車の来歴を調べますと、前にご紹介した紫色旧型特別客車と同じく、1949年・日本製ということが発覚! まぁ、この日はまだそのことが分かっていなかったのですが ^^;) このうち、4連の端に連結されていた車両はロングシート化され、まさにタイ版オハ41と言わんばかりの状態でしたが、駅東側に留置されていた車両は2・3等合造車。
 そこで、次のように思案したのでした。「ロングシート車を観光路線であるナムトク線に入れることはあるまい。いや待てよ、サボには小さくNam Tokと書いてある……。とはいえ、どうせこれらは4両に過ぎないので予備車または増結車に違いない。本務編成は別のところに留置されていて、そのうちやってくるのではないか。いっぽう合造車は南本線の快速に組み込むための予備車だろうか。というわけで、これらの車両は本日のお供ではないだろう。しかしいずれにしても、どう見てもタイの現役客車の中では最古参級と思われる超貴重!な車両と思われるので、とにかく激写だ!」……。
 とまぁこんな感じで、独断と偏見を脳内に充満させながらハッスルしてしまったわけですが (笑)、その後運命は大きく激動するのでした (何と大袈裟な。つづく)。

泰緬鉄道の旅 (序論) 鉄路は時空を超えて

2014-03-26 00:00:00 | タイの鉄道


 鉄道をめぐる日泰関係史に話が及んだところで、いよいよ今回のヤンゴン詣でついで・バンコク寄り道の本題である、泰緬鉄道=今日のナムトク線の話題に入りたいと思います。
 泰緬鉄道は、かつて日本軍が英国のアジア方面への補給線、とりわけ蒋介石への援助ルートを断つためにビルマ=ミャンマーの地政学的重要性を極めて重視し、さらに西の英印本体へ打って出るための足がかりとするため、人煙まれな泰緬国境に400km強のレールを敷設したものであり、その事績は、建設困難な長大路線を僅か1年数ヶ月で建設するために、連合軍捕虜や東南アジア各地の労務者を大量に動員して莫大な死者を出したことで夙に知られているところです。筆者も、確か1980年頃のRF誌に連載された泰緬鉄道に関する回顧録を見て、小学生ながらに「こんなスゴい鉄道があるのか……」と計り知れない衝撃を受け、単に眼を皿のようにして何度も熟読しただけでなく、暇つぶしに駅名を全部暗記したほどでした (今はすっかり忘れちまいましたが、何故かビルマ側の終点付近であるレポウ・ラバウ・ウエガレエ・新タンビザヤ・タンビザヤ [現地の発音はタンビュザヤ] だけは、音の繋がりが良いためか覚えているという……笑)。
 というわけで、文系人間のはしくれとしては、その後高校や大学でいろいろと世界史をかじるにつけ、余りにも歴史的に強烈な存在感を誇る泰緬鉄道を一目見てみたいものだという思いはあったのですが、大学に入って以来しばらく非鉄期に入ってしまったため、大学の旅行(先生が企画した参観ツアー)にバンコクで現地参加し、バスで最大のみどころ・クウェー・ヤイ川鉄橋を訪れて鉄橋を徒歩で渡っただけでとりあえず満足してしまったのでした (汗)。というわけで、現役の大型鉄道車両用木橋として世界的にも極めて貴重なタムクラセー(建設時はアルヒル)桟道橋、あるいは岩山をスッパリ掘り下げたチョンカイ切通などの名所は後回しに……。まぁ、タイのバンコクは東南アジアの要にして、そのうちまた訪れる機会も多々あるだろうから、その際に……と油断してしまったのがいけません。実際、その後数度の旅行は中国方面にハマってしまい、ここ数年東南アジアでの鉄活動に目ざめてからもインドネシアを最も優先してしまったため、バンコクを再訪したのは昨年のヤンゴン詣でのついで……(滝汗)。しかも昨年は「まずバンコクにほど近い場所を固めてから」というわけでメークロン線に力を注いだため、念願の泰緬鉄道初乗車は、あろうことか卒業旅行でクウェー川鉄橋を訪れてからちょうど20年の節目……ということになってしまったのでした (こう記せば記すほどヲッサン丸出し。爆)。
 しかしまぁ、DLが日本風の客車を牽引し、単線ではタブレット閉塞を行っているというタイ国鉄の基本的なスタイルは、20年経っても相変わらず。時空を超えて20年前、そして60数年前へとワープするというノリでも良いでしょう。



 いっぽう、泰緬鉄道に着目したくなる今ひとつの理由は、果たしてこの鉄道がタイとミャンマー両国の関係にとって如何なる意味を持ちうるのかということ。今日でこそ、この両国はASEANの重要な構成国として大きな存在感を持つだけでなく平和的に協調しているように見えます。クルンテープ駅の頭端部にもたまたま、ASEAN友好を象徴するディスプレイが特設されており、ミャンマー国旗を振る人形が愛嬌を振りまいています (1枚目の画像)。しかし、長い歴史を繙けば、実は両国は犬猿の仲である時期の方が長いという……。かつてタイ=シャムの大地に燦爛と栄えた仏都スコータイ&アユッタヤーは、いずれもビルマからの大軍によって滅茶苦茶に破壊されてしまったという因縁があります (もっとも、タイは殊勝なことに、そのような遺跡も恒久平和を願う象徴としており、何処かのウ○○ラのように恨みの炎に油を注ぐようなことはしません)。そう、18~19世紀頃までは圧倒的にビルマの諸王朝の方が強かったのです。しかし運命はいたづらなりけり。ビルマ史上最強を誇ったはずのコンバウン朝は、近代化と独立に失敗して英印の一部分とされてしまった一方 (1937からビルマ統治法の施行によりインドから切り離され英領ビルマに)、今日も続くシャム=タイのラタナコーシン朝は稀に見る名君が続き、英仏両国のあいだで何とか独立を保ち、早くから近代化に着手……。恐らくタイの人々は、今日のミャンマーと自国を比較して内心溜飲を下げ、ミャンマーの人々はヤンゴンやマンダレーとバンコクを比較してプライドがかき乱されているのではないでしょうか (客観的にみて、バンコクはバリバリの国際的大都会ですが、それと比べればヤンゴンはひなびた地方の都会という雰囲気です)。
 というわけで、そんなミャンマーは挽回を図るためにもC国一辺倒を止め、上からの民主化・自由化を推進し、欧米日と関係を大いに改善しているところですが、やはりミャンマー経済として致命的なのは、周辺国との往来に必要なインフラがまだまだ脆弱なことでしょうか。数カ所あるタイとの主要な国境に至る道路も、山また山のクネクネ道のようですし、何と言ってもミャンマー政府と少数民族との和平が十分には達成されておらず、ゲリラ活動の危険もあります。そこで最近突破口として浮上したのが、戦後線路が取り払われて久しい泰緬鉄道のサイヨーク・ノイ(定期列車の終点ナムトクの少々先)~タンビュザヤ間の再建設! これがもし完成し、線路設備的にもそれなりに悪くないものであれば、現在建設・再建中といわれるベトナム・ホーチミン市~プノンペン~タイ・アランヤプラテートの鉄道と合わせて、大陸部東南アジアを縦貫する鉄道として大きな効用を発揮しうるでしょう。
 しかし問題は……タイからみて西のインド洋への出口を考えるとき、泰緬鉄道を全線復活させるよりも、カンチャナブリーから西に向かってすぐに突き当たる山脈=国境を越えたところにあるダウェーに至る鉄道を新設するか、あるいはそもそも道路を拡充する方が早く、物流需要にも見合うのではないかということ。日本各企業も、ミャンマーにおけるインド洋への出口・投資拠点として、バンコクから至近なダウェーの方が有望ではないかとみているようですし。というわけで、泰緬鉄道はそれほど線形面で不利なのか?下手をするとまた計画変更で復活しない可能性もあるのではないか?という気もしますし、逆に正式に全線復活して物流の動脈として活用されるとしても由緒あるデンジャラス区間(とくにタムクラセー桟道橋)は旧線として放置される運命にあるかも知れません。
 というわけで、まさに今こそ泰緬鉄道に触れ、様々な意味においてその来し方行く末を占ってみる好機!と判断しまして、早朝から夜に至るまでひたすら鈍行列車に揺られながら一往復の初乗車を果たした次第です。
 ただ、とにかく思うに……年間でも最もクソ暑い暑季にこんなことをするべきではなかった! (^^;) 朝からフィーバーしていたら、午後は余りの暑さで車内にてグッタリしてしまいました……。「タイであれば売ってるだろ」と思った神の水・ポカリスエットが、少なくとも私が入ったセブンイレブンでは売っていなかったし……(前回のミャンマー訪問ではポカリ欠如に苦しみ、今回はヤンゴン滞在日分の粉を持参して効果的な電解質補給に成功したのですが、タイでの活動分を持参しなかったため、大いに難儀&反省)。
 ちなみに、クルンテープ駅の頭端部には、ミャンマー人形と並んでインドネシア人形も置いてありましたが (2枚目)、タイとミャンマーが鉄路で再びつながる可能性はあるとしても、インドネシア国鉄とマレー半島&海底トンネルでつながる可能性はないでしょうなぁ……(軌間違うし)。他にラオス人形もありましたが、カンボジア人形が置いていないのは、国境線上のプレアビヘア寺院をめぐる問題をはじめ、タイの対カンボジア感情の悪さの結果なのでしょうか?
 とまぁこんな感じで、単なる鉄ヲタな関心にとどまらない乱筆をゴニョゴニョ記して大変恐縮ですが、まずは泰緬鉄道初乗車に関連して脳内に渦巻いた雑念の備忘録ということで……。クルンテープ駅からの泰緬鉄道直通列車は週末早朝のDC観光列車しかありませんので、次回はチャオプラヤー川の向こうにある毎日運転鈍行列車の始発駅・トンブリー(バンコク・ノーイ)駅の様子です。


タイ国鉄の旧型客車改造サロンカー

2014-03-25 00:00:00 | タイの鉄道


 タイ国鉄の総本山・クルンテープ駅にて、紫色の特別客車がゴロゴロしている光景に、午後2時台の狂気のような暑さも何処へやら、EOS 5D MⅡと24mmからの標準ズームの組み合わせでとにかく手当たり次第に撮りまくったのですが (狭い場所で画角を稼げるという点で、フルサイズセンサーで良かった♪)、その中には日本の12・14・24系を改造した車両だけでなく、かつて日本から新車として輸出されたタイ国鉄客車を改造した特別客車もありました。その代表格が、この展望車サロンカー・A.R.S. 1です! 裾が絞られた半鋼製車体の基本的なプロポーションはそのままに、優雅な展望デッキ・展望窓がしつらえられ、カタツムリのようなライトが屋根に載っているという風貌は、一目見ただけで強烈な印象と魅力を感じます。思うに、オハネ14を改造したA.R.S 221と比べ、展望デッキ回りの全体的な出来の良さ・優雅さという点では、こちらの方が上なような気がするのは私だけでしょうか。車両規格は全線に入線可能と思われますので、この客車こそ日常的に泰緬鉄道=ナムトク線の観光列車として活用して欲しいなぁ~、と。



 さらにウロウロしておりますと、オハネ25と連結されていたのがこちら……如何にも日本のオロ41 (35系客車グループの一員にして、昭和23年製造の小窓二等車)の妻面を満鉄がかった切妻にしたという雰囲気のヴィンテージ級客車! しかも妻面には、富士山のレリーフが実に見事な1949年・日車製の銘板が残っています!
 そこで、1949年という戦後の混乱がまだ残っていた時期にタイに輸出された客車の縁起をいろいろ検索してみたところ、戦前戦後にまたがる日本・タイ・米国の複雑な絡み合いが背後にあることが分かります。
 周知の通り、第二次大戦中の日本は所謂大東亜共栄圏構想の実現のために戦線を大々的に拡大し、とくに英仏蘭の植民地に打撃を与えたわけですが、その補給線としてタイからマレー半島に至る鉄道を活用し、ならびにタイ産の米を大量に利用するため、当時同盟を結んでいた(とゆーか結ばせた)タイ国鉄に多大な負担を追わせていたようです(勿論日本はC56や軽貨車などを持ち込むわけですが、多数の軍用列車を運転しなければならなかった当時は焼け石に水)。そしていつしかタイ国鉄も連合軍の爆撃に晒され、日本が降伏する頃には鉄道網がズタズタになったのみならず、米の輸送と輸出も出来なくなり、タイ経済には大打撃……。
 そこで、連合軍に対しては対日協力の負い目があるタイとしては、戦後の国際社会復帰のためにタイ産の米を安く買い叩かれる運命に甘んじることになったわけですが、穀倉地帯からバンコクに米を運ぶ肝心の鉄道インフラがどうしようもないということで、米国の援助を受けて鉄道の再建に着手。その際に、余りにも不足していた鉄道車両の調達先として白羽の矢が立ったのが日本! 日本は敗戦したものの、戦後すぐに車両の新造を再開したように、鉄道技術ならびに製品生産力は戦前からの連続性を保っていたわけですが、敗戦直後からの超インフレの抑制のために緊縮を旨とする経済政策「ドッジ・ライン」が設定されて以来一時的に経済が冷え込み、需要の急減(日本鉄道省の一時的な車両発注徹底抑制)に悩んだ鉄道車両業界では車両輸出に着目、GHQとしてもそれを後押して日本の鉄道車両工業を復興させるに越したことはないと判断したとのこと。こうして、米国の仲介で日本に安く車両を製造させて、タイ米と引き替えにタイに供与するという政策が1948年末~49年初頭頃に固まった結果、日本の主要メーカーにおいてタイ向けSL・PC・FCが大量に製造され、約200両の客車が1949年以後一気に納車されたようです。
 この1949年製の客車は、まさにそんな戦後日泰関係史のはじめの一歩として存在しており、しかもこのロットが堅牢な傑作としてタイ国鉄に受け容れられたからこそ、その後1950~70年代において日本客車の血筋に属する客車(日本製+1960年代後半から日本ライセンスによるマッカサン工場製)がタイ国鉄において大量に導入されることになったわけで、いやはや、本当に貴重な歴史の生き証人だと思います。そして、このような縁起が分かれば、1949年製のこの客車が何故1948年製のオロ41に近似したデザインなのか、良く理解出来ようというものでしょう。しかし……何故こんな古い客車が、14・24系客車や展望客車A.R.S. 1と同じように紫の濃淡をまとっているのか、理由は全く分かりません (汗)。王室専用車であれば、恐らく日本の御料車やE655-1と同じように屋根の下で厳重に保管されるでしょうし。

【参考】川崎重工車両カンパニー公式HP・カンパニー情報・沿革ページ1949年。柿崎一郎「タイの鉄道と米輸送1941~1957年」『東南アジア研究』京大東南アジア研、2004年 (ネットでPDFを閲覧可)。「日本の戦後直後の鉄道車両輸出」『ゴンブロ! (ゴンの徒然日記)』。