新古今和歌集の部屋

方丈記 養和の飢饉「ケイシヌレバ」の考察 はじめに、各異本の表現と各説

鴨長明方丈記之抄 (たちなをるべきかと思ふに、あまさへゑやみ打そひて、まさる様に跡かたなし世の人みな飢死ければ、日をへつゝ、きはまり行さま少水の魚のたとへに叶へり)

 

1 はじめに
 鴨長明が著した方丈記は、平安末期の四大災害一変事の詳細を記録したものとして有名である。その中の養和の飢饉(一一八一~二年)については、春夏が旱で、秋は大風洪水が起こり、五穀が悉く実らないで、京都に食べ物が入らない事態となり、そして次の年は疫病が流行り、京中に死体があふれ、仁和寺の隆暁が四五月京都の東半分の死者数を数えたら、四万二千三百余りもあり、河原その他の辺地は際限も無いとしている程の大飢饉であった。
 養和の飢饉の内、「アクルトシハ、タチナオルベキカトヲモフホドニ、アマリサヘエキレイ(疫癘)ウチソヒテ、マサゞニアトカタナシ。世人ミナ『ケイシヌレバ』日ヲヘツゝキハマリユクサマ、少水ノ魚ノタトヘニカナヘリ。」(大福光寺本)とあり、この『ケイシヌレバ』の意味については、様々の説がある。しかし各説とも決定打に欠けると先人達は述べている。
 そこで、この『ケイシヌレバ』について、様々な角度からその意味を考察する。

大福光寺本

 

2 各異本の表現と各説
 方丈記には様々な異本があり①、最も有名なのは、大福光寺本で、親快と思われる者の証拠により長らく長明の自筆であるとされてきたが、欠落部分や長明であれば間違えるはずのない歌枕の地名の誤記などから、これも書写されたものと考えられる。
 その他、古本系統に分類された、加賀前田家に伝わる前田本、名古屋図書館蔵の名古屋本(鈴木旧蔵本)、吉沢義則蔵の保?本、土肥慶蔵旧蔵の幽斎本、天理大学図書館蔵の氏孝本(九条侯爵旧蔵本)などがある。
 また、流布本系統として、嵯峨本、陽明文庫の近衛本、戸川浜男氏旧蔵の兼良本、古活写本、正保整版本などがある。
 更に、四大災害一変事を掲載しない略本方丈記もある。
 各異本の『ケイシヌレバ』の部分は、簗瀬一雄の方丈記全注釈によると②
(1)大福光寺本 世人ミナケイシヌレハ
(2)前田本 人ミナ下意し死にけれハ
(3)保冣本 世の人みなやみ死にけれは
(4)氏孝本、名古屋本 世の人みなやみ死ぬれは
(5)兼良本・近衛本、嵯峨本 世の人みなうへしにけれハ
(6)簗瀬本 世の人ミな飢死(やミ イ)にけれは
(一〇九頁)と、「けいし」としているのは、大福光寺本と前田本のみとなっている。その他の本は、「病み」か「飢へ」と考えてもよい。
 しかし、その前の疫癘から、飢え死にする様子というより、病気の症状を現していると考えるべきかも知れない。
 これを各者の考えた説は、佐竹昭広は新体系③の中で「門を閉じ、中に引き籠もってしまったので疫病流行の際、留守と称して疫病神から逃れようとする習俗があった。扃(ケイ)トサシ(色葉字類抄)。なお、この語、難解をもって知られ、未だ結着を見ない。」(一一頁)とし、三木紀人は集成④の中で「未詳。『飢(けい)し』、『係(関係)し』、『飢死』など諸説があるが、決め手がない。仮に「飢」としておく。」(二二頁)と、神田秀夫博士は全集⑤の中では、佐竹説を支持し、「難語で筆者にも解釈妙案もない」(二二頁)と保留し、西尾実は体系⑥の中で、「『飢(け)』が長音化してサ変動詞となったものか」(三〇頁)、安良岡康作は講談社学術文庫⑦で、「※病垂に圭。」(大漢和辭典文字番号【二二一六一】〈げい〉。以下「圭」と表記。)とし、川瀬一馬は新注国文学叢書「方丈記」⑦で「或はケ飢の仮名表記で、イはその音が延びたものかもしれないが、他にさういふ用例も見えず、未詳といふほかはない」(一五二頁)としている。簗瀬一雄②は、「このケイに傾・頃、または稽をあてて考えてみた。傾・頃はかたむく意であるから、ここにてれば、困り切ってしまったので意味になるし、稽には、とどこおる意があるので、万事窮してしまったでの意味になるであろう。後に「きはまりゆくさま」がでるので、前者の方がよいかも知れない。」(一一三頁)と「傾」としている。
 まとめると、「扃」、「飢」、「係」、「圭」、「傾」として、「下意」について考察する者はない。それぞれの論をみると、「扃」か「圭」が素直な論と思える。

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