新古今和歌集の部屋

方丈記 日野の方丈の庵跡の推定について その3

4 庵跡の推定
現在の方丈石の周辺では視界が全くなく、また谷間の場所にあるため、南方面の槇島がまったく前の山で見えず、あり得ない。
宅地開発前の昭和26年の地図から推察すると、御蔵山が前を遮蔽しているが、かろうじて木幡池や宇治川が見えそうである。

方丈石周辺の眺望

方丈石より少し下った場所の眺望

木幡地形図 1万分の1 昭和26年

 方丈記の記載事項から、
 ① 日野山の山裾にあること
 ② 庵から槇島が見えること
 ③ 近くに小川が流れていること
 ④ 集落があったと推定される法界寺から一定の距離があること
 ⑤ 流布本のみ「いほりの下にすこし地を占め、…即ちもろ/\の薬草をうゑたり」とあり、庵の下で薬草を植えるだけの平らな土地があること。
から、4個所に絞られている。

 候補地1は、今は水田と畑となっていて、ほたるの居そうな小川が流れていた。西側が開けているとすると、小山が邪魔して、六地蔵方面は全く見えない。眺望を除けば合致する。

 候補地2は、自動車学校の裏である。推定される外山の裾にあり、小川が流れていることから、自動車学校の辺りは水田であったと推察される。外山を今は住宅街となっている平尾山としてもその近隣であることから有力である。
 しかし、前の平尾台が邪魔してかなりの山の中腹に昇らないと宇治川は見えないと推察される。
  Googleアースによって眺望を見ると、標高120m附近から平尾台、御蔵山の間の谷間から六地蔵、木幡、檜島、向島が良く見える。過去にあった巨椋池も見えていたはずである。

 なお、現在は開発により家やビルがあり、800年前の姿とは異なっているが、石田付近を歌った、
 山城の岩田の小野のははそ原見つつや君が山路越ゆらむ(万葉集第九巻 新古今雜歌中 藤原宇合)
からは、水が流れていた場所は水田であったと推察されるが、それ以外は小楢、水楢の雑木林が広がっていたと推察され、丁度住宅と同じ高さくらいであるので、問題はない。

となる。

 候補地三として、醍醐外山街道町周辺を外山とした場合、小川(合場川)は流れていたが、眺望に欠点がある。京都府宇治郡名蹟志によると 琴弾山という山が附近にある。平家物語で平重衡と北の方大納言典侍が別れる際、琴を弾いたとあるが、平家物語にはそのような記述はなく、大納言典侍がひたすら泣き続けたとある。従って琴を弾いていたのは、大納言典侍ではなく、鴨長明が弾いていたのが、後に誤伝した可能性もある。
 京都府宇治郡名蹟志 琴弾山
  相場川背後の丘即ち之れなり、内室重衡に別るに臨み、琴を山下に弾きし別離を惜みし所として此稱あり。

 候補地四として、醍醐に端山という岡があり、現在はグランドとなっている。後醍醐の元徳二年(1330年)三月日吉社并叡山行幸記に記載されている山科の四宮からは良く見える。

 候補地五として、元平尾山、今の平尾台とすると給水施設がある場所からは、宇治川を見ることができる。給水施設より下は、木幡にある源通親の別荘跡、道元導師の出生した場所と伝えられる山があり、それが遮蔽して宇治川が見えない。


 しかし、住宅を造成しているために、前の地形がどうだったかは不明。小川が流れていた所などは全く分からない。
昭和26年の地図によると、平尾山には小川の流れるような地形はなく、その跡も見られない。

                 木幡地形図 1万分の1 昭和26年

 従って、自動車学校の裏を外山とし、その中腹を方丈の庵があった場所としたい。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「考察」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事