絶賛して何度も何度も読み返している中沢新一先生の「カイエ ソバージュ」にも質問したい納得出来ない部分があります。性的エロスについてです。最終5巻で幸福論の流れで登場するのですが、流動的知性である対称性無意識が強烈に働いて 意識の抑圧から自由になった感覚の顕著な例として解り易く説明されています。でも、その性行為は毒を呑んでトランスする危険な儀式体験と同類に解析されている様に、現代の病ともとれるドラッグ問題と繋がってしまいます。同時に性の乱れ、エロスに対する感覚の変化は驚異的に欲望を拡大させています。これは明らかに「野蛮」に繋がり、2巻で学んだ「古来 日本では近所の山を神として ふもとの社で拝むだけで 決して山へ、力の源の中へ登ろうとはしなかった」そして「大陸から修剣者が来て、力を自分の物にしたい野蛮な欲で山に踏み込む」この構図が、そのままパワーのグローバリズムに膨れ上がっている原点だと睨んでいます。つまり「神聖な儀式の乱用」で性交渉ばっかりし過ぎなのです。対称性無意識の感覚では性交渉は「包み込みたい愛情と激しく破壊したい感情が同時に生まれます」危険で複雑な感覚は死ぬ気で挑まなければならない恐い儀式なのです。原始人に対する誤解で「原始の素晴しい感覚を取戻したい!と考える時、研ぎ澄まして行くと、欲のままに行動するのでは無く、あらゆる行為が大事に慎重になるのではないか?」と思うのです。だから中沢先生の 幸福論の感覚の解析だけでは誤解を招く不安で不満なのです。だって性交渉ばかりが増えて、本当の本当に深く愛し合う人の数は 逆に減るんじゃないか?と。欲望に正直な欧米感覚から見たら 日本古来の感覚はストイックで禁欲的に感じるだろうけど、浸食 汚染されつつある 大切な地球の劣勢遺伝子なのだ!と確信しています。白梅みたいに紅梅に勝てない運命なのか?と切なくなります。
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