愛犬ムクとコロ

ムクは、蒸かしたサツマイモが好物だった。
コロは、早朝散歩を楽しんでいた。
その早朝散歩で元気をもらってきた私。

渓谷「清津峡」(十日町)

2017年09月21日 | 新潟
 
 

 寺泊の帰り「清津峡」に寄ることにした。
 
 日本の三大峡谷は、

 ・「黒部峡谷」
 ・ 三重県の「大杉谷峡谷」

 それに、 
 ・「清津峡」です。

 「清津峡」は、新潟・十日町の
 上信越高原国立公園にあり、

 「清津川」を挟(はさ)んでの
 V字型峡谷は、
 国の名勝・天然記念物にも
 指定されている。

 ここは、
 昔、遠足で来たことを 思いだす。







 「清津峡」の峡谷を鑑賞するには、
 「清津峡渓谷(けいこく)トンネル」の
 中にある、4ヶ所の見晴所(みはらしじょ)
 から「岩礁の姿」や「景観」を見る
 ようになっています。














 岩肌が、
 「柱状(ちゅうじょう)節理(せつり)」に
 なっている景観や 屛風岩などが、
 雄大で素晴らしい!。
















 昔は、川沿いに遊歩道があって、
 雄大な景観が堪能できたが、
 今は、長いトンネルのため見える景観も
 少なくなって残念です。

 トンネルを作った理由が、
 昭和63年の事故、落石が頭にあたり
 男性 1名が亡くなるという事故。
 通行の安全保証ができなくなって
 立ち入りが禁止されたようだ。

 「清津峡渓谷トンネル」は、
 全長 約750mの歩道トンネルで、
 トンネルの入坑料金が
 大人 600円。
 中は涼しく、整備されていて
 ベビーカーや車椅子も利用でき、
 安全で歩きやすかった。

 「清津峡」の渓谷美や V字型景観を
 見ることが出来てハッピーです。


 この「清津峡」は、
 新潟県の「紅葉スポット」でもある。













H29年「米山」登山

2017年09月19日 | 登山

(赤い「米山大橋」と
「米山」さん が見えます。)







 9月16日、
 民謡「三階節」に 唄われている、
 「米山(よねやま)」に登ってきました。

 米山は、標高 993m、
 柏崎市の南西に位置する山です。

 米山の登山口は、
 五コースほど あって、
 今回は、
 「日本三百名山・山あるきガイド」に
 書いてあったコースを
 登ることにした。




 水野林道登山口の駐車場に車を止め、
 登山開始です。



 「三階節」を 口ずさみ ながらの
 山登り。

  「♪ 米山さんから 雲が出た~ 
   いーまぁ~に 夕立が 来るやら
  ピッカラ シャンカラ 
   ドンカラリンと 音がす~る ♪」

 前半は、ブナ林や階段が続き、
 森林浴を楽しみながらの
 山歩きはいい。












 ブナ林を抜けると下牧コースの
 合流地点があった。

 ここから山頂迄、約1㎞です。








(山頂に着きました。)

 山頂から見る景観で疲れも癒されます。













 山頂では、
 明治時代の測量に使われていた
 「原三角点」を見つけた。


(原三角点)



 「原三角点」は、
 明治初期に内務省の地理局が設置した
 標石の三角点で、
 今は使われていないが、
 「雲取山」、「白髪岩」と「米山」の
  3か所に しかなく 貴重な標石らしい。
 この「原三角点」の標石を探しに
 米山に登ってくる人もいるようだ。

 米山山頂には、
 「原三角点」のほか
 今、使われている標石の
 「一等三角点」もあり、
 この三角点は、
 全国に 972か所、
 米山には、その一つがある。


(一等三角点)



 興味があったら
 「一等三角点」をつかった
 三角測量の方法を調べてみると
 面白い かも ・・・。




(米山登山道に咲いていた花)
























H29年「佐渡ヶ島」

2017年09月05日 | 新潟



 


 今年の夏、
 寺泊から日帰りで佐渡ヶ島へ
 行って来ました。

 佐渡へは、5~6回ぐらい 
 行ってますが、
 今回は、久しぶりの佐渡行きです。

 いままでは、新潟港から
 カーフェリーで行っていたので
 寺泊港から佐渡・赤泊港へ
 「高速船あいびす」で
 行くのは初めてだった。




 「高速船あいびす」は、
 イス席の最大旅客定員:216名、
 最大速力: 25ノット(46.3㎞/h)、
 65分の船旅です。

 寺泊港発、9時20分、

 赤泊港に着くと、
 観光バスで、

 ①七浦海岸(昼食)

 ②尖閣湾

 ③佐渡金山

 を観光。
 寺泊港に帰ってきたのが、
 17時5分だった。


 (①七浦海岸(昼食))







 (②尖閣湾)

















 (③佐渡金山)


















 寺泊の港から
 佐渡ヶ島へ島流しになった
 流人(るにん)は、
 佐渡金山の労働のため
 送られた
 無宿人だけでなく、
 文化人もいた。


 「順徳上皇」

 「日蓮聖人」

 「藤原為兼(ためかね)」

 「日野資朝(すけとも)」等。
 
 
 「順徳上皇」は、
 1221年 承久の乱の罪で
 鎌倉幕府から佐渡へ配流された。


 「日蓮聖人」は、
 鎌倉幕府より1271年 佐渡流罪となり
 文永8年(1271年)10月22日に寺泊に着く、
 ところが、海が荒れたため、
 佐渡への舟が出ず、
 しばらく天候の回復を待つことになり、
 10月28日に佐渡の松ヶ崎に着いた。


 「藤原為兼(ためかね)」は、
 歌人でもあり新古今和歌集の撰者であった
 藤原定家の曾孫にあたり自身も歌人であり
 政治家でもあった藤原(京極)為兼は、
 皇位継承をめぐる争いに巻き込まれ
 永仁6年(1298年)45歳の時に幕府によって
 佐渡に配流された。 


 「日野資朝(すけとも)」は、
 鎌倉時代後期の公卿。
 後醍醐天皇に登用され、
 日野俊基らと討幕計画を進めたが
 発覚し、1324年
 佐渡へ流罪となった。
 その後、佐渡で処刑された。


 佐渡金山の労働のため送られた
 「無宿人」の仕事を調べてみると、

 佐渡金山の労働で一番過酷な重労働が、
 水替(みずかえ)人足(にんそく)だった。

 その労働は、鉱山に溜(た)まった排水を
 外部に排出する仕事(水替)に従事していた。

 この仕事には、大人数が必要だが、
 応募者数が得られず
 江戸の無宿人を送ることになった。

 水替は、3年以上は生存できないと
 いわれるほど酷使された。

  寺泊に残るデータでは、
 「江戸の無宿人が、1778年~1867年まで
  に通算 34回、
  延べ 543人が寺泊から佐渡へ送られた。」
  と書かれてあった。







 (佐渡・真野湾の海水浴場)