医学部に進む理由は「偏差値が高いから」…元東大教授・養老孟司がみた「日本型エリート」の本末転倒
4/21(金) 9:17配信 2023
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula
この数年、医学部の人気が高まっている。東京大学名誉教授の養老孟司さんは「偏差値が高いという理由で医学部を選ぶ学生が多いのだろう。それでは本末転倒だ」という。エコノミストの藻谷浩介さんとの対談を収録した『日本の進む道』(毎日新聞出版)から一部を紹介する――。
【写真】養老孟司さん(右)・藻谷浩介さん(左)
■いい教育とは教育しないこと
【藻谷】何だか論語の問答みたいになってきましたが、先生のお名前は孟子にちなんでいるわけですから、弟子になった気分でどんどん聞きます。先生は、いい教育とは何だと思われますか。
【養老】小学生くらいなら何もしないことですよ。有機農業の不耕起と同じようにやったほうがいい。高等教育についても「教育」しないことです。東大の伝統は結局は「自分でやれ」と言うことです。モチベーションのある人が自分でやる、それを周りが手助けする。それだけですよ。
学校は、基本的に子供に好きなことをさせる場にして、大人は見守るだけでいい。「この学年ではこれを覚えなさい」なんてナンセンスだと思います。
【藻谷】たしかに、皆で同時に同じことを習って同時に覚えると褒められ、どうせあとで完全に忘れてしまうのにそのときには責められない。これでは何一つ血肉として定着しませんよね。
私は、当時はお受験勉強が盛んではなかった田舎で育ったために、そのころは受験に出ることのなかった日本地理や英会話やディベートの類に好きに注力できた幸運な人間でして、それがその後にどれだけ役に立ったことかと思うのです。
しかし大学で受けた法学の教育は、まさに同時に覚えて一斉に忘れるの典型で、苦痛でしかありませんでした。教養課程はとても面白かったのですが、専門課程の卒業には1年余計にかかりました。
■偏差値の大学ランキングは意味がない
【藻谷】何でそんな大学のそんな学部に行ったのかと言えば、当時世に登場して間もなかったところの「偏差値」が高い学部であるがゆえに、通るというのであれば通っておけば、そういう数値を絶対視するような連中にも後々足元を見られずに済むだろう、という実に受動的な考えからでした。
その後ますます社会に深く浸透している、受験時の偏差値によるランキングはどう思われますか。 【
養老】全く意味がないですね。あれは、いまの大学システム
――同じ大学に入りたい人をどうやって選別するかという問題が生じてしまったために便宜的にやっているだけでしょう。だから僕は、現役の時に入学試験を通ったら卒業証書を出せと言っていました。そうすれば、本当に勉強したい学生だけがお金を払って残りの4年間学びますから。
【藻谷】卒業証書だけ欲しい人は入学したらすぐにもらう!
それでも勉強したい人だけが残って勉強しなさいと。最高の皮肉のようにも聞こえますが、圧倒的に偏差値の高い東大医学部でずっと教授をされていた上でのご実感であり、つまり真実をついている。
私も、偏差値が基準の大学名で人を判断することは、本当に一切しないで生きています。ですが世の大半の人は、教育の主目的を偏差値による能力のランクづけみたいに思っている。
【養老】そう、それが日本的な教育の在り方だと思います。
■東大医学部には医学に興味のない学生がいっぱいいた
【藻谷】日本のいろいろな地域の親、特にお母さんたちと話していて、いちばん認識が時代遅れだと感じているのは教育の話です。東大医学部で、偏差値だけは高い困った学生といっぱい向き合ってきた養老先生が、どういう認識でおられるかなんていうことに、彼らは興味はない。それこそ入学と同時に卒業証書を持って帰ってきたら、そんな親御さんたちは大喜びで、「東大に行ってよかった」なんて言うのでしょうね。
【養老】大学で新たに医学を学ぶモチベーションがなくても、偏差値が高かったからというだけで入学してくる学生はいっぱいいますから。
【藻谷】偏差値が高いだけで、大学で学ぶモチベーションがなければ、大学に来る意味はないはず。なのに日本の教育は、そういう生徒を「優秀」として選抜してしまう。自分がそうだったのを棚に上げて言いますが、これでは本末転倒ですね。
【養老】そうです。
【藻谷】入試の時点でモチベーションがなくて、あとから急に湧いてくる人もいますが、それが専門課程に進学する時点だとは全く限らない。
【養老】そういう人はその時に勉強を始めればいい。
【藻谷】そうですよね。僕は、子供をいい大学に行かせようと言っている親には「そうではなく、あなたが行けばいいのに」と言っています。いま、あなたがそういう気になったのならあなたが勉強すればいい。実際に、いわゆる「いい大学」にも、社会人入学のコースはいろいろありますから。
■「みんなで考える教育」に対する違和感
【藻谷】まあそうはいっても、子供に幼いころから受験をさせて、学歴エリートにしようとする親御さんは、エリートになるとよほどいいことがあると信じているのでしょう。いや、エリートになれないとよほど損すると信じているのかな。
そう言っている本人には、よほど損したという自覚があるのでしょうか。よく成功した芸能人が子供にお受験させるという話がありますが、年間数千人も卒業する東大生の中で、その芸能人ほど成功する人が何%いると思っているのでしょうか。
日本のどこかの「エリート校」でも行われているという「エリート教育」とは、いったい何なのでしょう。西洋でエリートと言えば「自分で考えて判断し、自分の責任で行動する人」だと思いますが、日本もそういう人を教育しようとしていると、言っている人もいますね。
【養老】それは嘘ですよ、全部違います。私はさきほどお話しした、髙橋秀実さんの『道徳教育』(ポプラ社)をみんなに薦めていますが、彼は、戦後の日本の教育――特に道徳教育は「みんなで考えましょう」というフレーズがよく出てくると書いています。
小さいときから「みんなで考えましょう」とやってきました。でも、どうやってみんなで考えるのでしょうか(笑)。僕は「考える」というのは一人でやることだと思っていますから、「みんなで考えましょう」には引っかかります。