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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

店じまい

2025年04月15日 | ちょっと考えたこと
さてどうしたものかと考えていた。
このまま何もせずにフェードアウトするか、それとも、はっきりと宣することでケジメをつけるか。まったく書かなくなって約ふた月が経った近ごろ、どちらがよいのだろうと考えていた。
萌芽はあった。例えば今年1月22日、『勝負の相手』という稿をあらわしたぼくは、こんなふうに記している。

積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ。
積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ。

竹原ピストル『オールドルーキー』の一節です。
とはいえそれを思い浮かべるのは、今に始まったことではありません。
これまでも折に触れてはそうだったし、また、このブログをはじめとして様々な講話でも、主に仕事を遂行する上での心がまえとして紹介してもきた、ぼくにとってはお気に入り中のお気に入り、まちがいなくトップランクに位置する言葉です。

自分が積み上げてきたもので他人と勝負する。そこには勝ちもあれば負けもあるでしょう。しかし、積み上げてきたもので勝負しようという心の持ちようでいるかぎり、その勝ち負けの割合は負けの方が多くなるでしょうし、やがてはまったく勝てなくなってしまうにちがいありません。
だから変わりつづけなければならない。変わったもので勝負するということは、自分が積み上げてきたものとの勝負に他ならないのです。
もっと平易に言えば、過去の成果や成功体験の上に胡座をかいていては、未来の成功はないし成果もあがらない。だから変わりつづける必要がある。これがぼくの解釈でした。

では誰がその勝負の相手なのか。
これについては曖昧模糊なまま、深く考えたことはありませんでした。
なんとなれば、勝負の相手はひとりではないし、その場その時で変わるものです。であれば、誰かを特定する必要などありはしません。そこでは、いったい誰と勝負するのか、誰に勝てないのか、そこのところを突き詰めて考える必要はなかったのです。
当然のようにそう考えていたぼくの脳内に、突然その答えが舞い降りたのは今年のはじめでした。

そうか、勝負の相手は他ならぬ自分自身だったのだ。

「積み上げてきたもの」を過去の成果と捉えるのは、たぶんまちがいではないでしょう。しかし、「積み上げてきたものと勝負」するときそれは、「自分が積み上げてきたもの=自分」、すなわち「これまでの自分と今の自分の勝負」となるはずです。そして、その勝負に勝たなければ他の何者にも勝てはしない。そう捉え、自分自身への戒めと同時にエールとしなければならないのではないかと考えた。竹原ピストルが詩に乗せた想いはどうあれ、そう解釈することがこれからのぼくにとっての最適解のような気がしたからです。

では、具体的な行動としてあらわすにはどうすればよいのでしょうか。
真っ先に思いついたのは「捨てる」ことでした。
変わりつづけようとするのは正しい。しかし、それまでに積み上げてきたものを捨てなければ、本当の意味で「変わった」とは言えないのではないか。そう考えたのです。

では、何を捨てるのか。
そう考え始めたとき、いくつかの候補として浮かび上がってきたのは、ぼくが寄す処としてきた、あるいは骨格としてきたいくつかの事柄でした。
ですが、ここでは明かさないでおこうと思います。
そのような大胆なことが、はたして己にできるだろうかと思ったとき、身ぶるいをするような感覚に襲われたからです。有言をすることで自らの逃げ場をなくして実行せざるを得なくする、という手法を採用することが多いぼくですが、今回ばかりはさすがにビビってしまったからです。


冒頭の言葉と、このテキストを並べれば、捨てようとしたその「骨格」がこのブログだったことがわかるはずだ。考えてみれば、その時点でこうなることはわかりきっていたことではある。さらに言えば、昨夏、やめるか否かの逡巡を休止という形であらわしたとき、すでに行く末は決まっていたことでもある。にもかかわらず、すぐに決断することなく未練たらしく細々とつづけたのは、ぼくのぼくたる所以の優柔不断な性分ゆえだが、今さらそれを論い、自らを虐するのはよしにしよう。

とりあえずぼくはこの春、さてどうしたものかと考えていた。
このまま何もせずにフェードアウトするか、それとも、はっきりと宣することでケジメをつけるか。まったく書かなくなって約ふた月が経った近ごろ、どちらがよいのだろうと考えていた。
そんなところへもってきて、『土木のしごと~(有)礒部組現場情報』を更新しようと編集画面をあけたぼくの目に、こんな画面が飛びこんできた。






goo blog が2025年11月18日をもってサービスを終了するという告知だ。
ドンと背中を押されたような気がした。これ以上のキリはないのではないだろうか。そう思った。

ということで、その翌日である今日、自らの手で引導を渡すこととした。
本日2025年4月15日をもって、『答えは現場にあり!技術屋日記』は終結し、これ以降、更新されることはない。
のみならず、今秋、わが家の畑の柚子の実が黄色く熟れるころには、これまで17年間にわたって書き連ねてきたすべてのテキストがインターネットという世界から消える。
拙稿を読んでくれたみなさん、とりわけ、一部の熱心な愛読者さんたちには感謝しかない。
「読んでいるよ」と表明してくれる人たちの存在が励みだった。ここ数年は、ほとんどそれによってのみ支えられていたといっても大げさではない。

ありがとうございました。
さようなら。



その怒り、いったん棚あげしてみない?

2025年02月14日 | ちょっと考えたこと
その怒り、
いったん棚上げしてみたら?

というキャプションを、顔を真赤にして怒るかつての自分の写真につけて、ケータイの待ち受け画面にしたのは、昨年の10月初旬のことでした。
企図したのはアンガーマネジメントです。
いくら「キレてないよ」と抗弁しても、誰がどこからどう見ても「キレてる」としか思えないスキンヘッドのおっさんが、口角泡を飛ばす勢いで眼前の誰かに何かを言っている。それが自分自身だということで羞恥心を呼び起こし、さらにそこへ「棚上げしてみたら?」という揶揄的な提案が重なって、「怒っている」という現実に歯止めをかけようとした。しかもそのフォントは「KFひま字」というふざけた、いやのんびりとしたフォントときているのですから、これはもう効果抜群だろうと、われながら自信満々の企画でした。

「怒る」という感情を抱くのは致し方がない。少なくともぼくの場合は、それを捨て去ることが不可能です。
問題は、その「怒り」に執着する心です。それによって自分で自分をエキサイトさせ、さらなる「怒り」へとエスカレートさせるのは、「怒り」という感情に取り憑かれてしまった自分自身に他ならない。ならばそこへ至らぬような手立てを考えればよいではないか。
その企ては予想どおり、いや想像以上の効果がありました。
もちろん、そうそうすべてが上手くいくはずもありません。激してしまえば、そのようなものは役に立たず、何度見返しても、燃え盛った炎を止めることができない場合もありますが、少なくない割合で「怒りの自家中毒」を抑止することができています。
それを思えば、わたくし史上、近来まれに見る大発明だと言えるでしょう。

つい数日前のことです。その傑作を捨てることにしたのは。
代わってそのポジションについたのは、生後2ヶ月の赤子でした。
その目に映るものをまだ何だとも認識しない眼(まなこ)は、当然意思的でも意識的でもなく、それゆえに初心(うぶ)であり無垢です。
しかも他人ではありません。身内です。孫です。
そのぼやーっとした顔がぼくを見つめて(実際に見つめてはいないのですが)こう言うのです。

その怒り
いったん棚あげしてみない?

少しですが文章を変えています。語尾を「みたら?」から「みない?」に。つまり、「みたら(どう)?」から「みない(ですか)?」にです。フォントも代えました。よりやわらかみを出すためにチョイスしたのは「うずらフォント」です。

以前のそれは、例えていえばイソップ寓話『北風と太陽』における「北風」です。強い刺激を与えた先に成果を得ようとします。今怒っているぼく自身が、かつての怒っているぼく自身を鏡に写った今の己の姿とし、「で、これが恥ずかしくないのかオマエは?」という問いを、自分に向かって投げかけることで、「怒り」という感情をそれ以上昂らせないようにします。その形態は対決です。

今度のそれは「太陽」です。あたたかい光で包みこみ、力業を用いずに穏やかに目的を達成しようとしています。「棚あげしてみない?」と問いかけるのは幼子です。まごうことなき人間ではありますが、人というには相応しくないほど無垢なその眼に見つめられることで、なんだかよくわからないけれど崇高なものに包容されているような気にさせられます。そうこうしているうちに、燃え盛ろうとする「怒り」の炎は、どこかへ消えてなくなるか、または、ちいさなそれに変わるかします。前者を対決とするならば、こちらは対話でしょうか。

「怒り」への執着は、自らの正しさに固執する心でもあります。それが強くなればなるほど「怒り」は激しく大きなものとなります。それを断ち切るために強い刺激を用いるのは、たしかに有効な手段にはちがいないのですが、そうなると、「怒り」と「刺激」の強度の勝負としかなりません。強い「怒り」には、それよりさらに強い「刺激」でなければ太刀打ちできないのですから、終いには、殺るか殺られるか、そこまで行かないと決着をみることができません。

アプローチを変えてみる。
これが対他者ならば、ふつうに思いつくことなのでしょうが、こと自分となるとそう易易とは事が運びません。ついつい正攻法で正面からぶち当たってしまうがゆえに、敵対する自分とそれを崩そうとする自分の双方を傷つけてしまいます。己を御するのは、それほどに困難なものなのです。
だからアプローチを変える。
壁を穿ち叩き壊すのではなく、すっぽりと包みこんでしまうのです。


数日が経ちました。
多くの方のご推察どおり、そこまで思考を巡らせて実行したのではありません。単なる思いつきを後付で言語化し理論を付与して、自らを納得させているにすぎません。
結果はどうなのか。
残念ながらというべきか、幸いにというべきか。未だこの身には、それを必要とする「怒り」が訪れてはおらず、検証する機会そのものがないのが現実です(ひょっとしたら未然に防いでいる可能性もあります、いやホント、そうかもしれない)。
しかし確信があります。これはわたくし史上まれに見る大発明だと。
とはいえぼくの怒りんぼが、それで鎮火してしまうようなやわなものではないことは、当の本人こそが十分承知をしております。
ですから、でき得れば、これが効果を発揮できないような事象に巡り合ったそのときに、水戸黄門の印籠よろしく、ぼくの眼前にその待ち受け画面を差し出す方がいてくだされば、それに越したことはないとお願いを申し上げて、本日の稿を締めくくることといたします。


受動と能動

2025年02月13日 | ちょっと考えたこと
このひと(あのひと)と巡り会ったことが、その後の仕事や人生において重要な意味をもった。誰しもに、そう思えることがあるのではないだろうか。そして多くのひとは、だからその出会いが自分にとっての必然だったと捉える。
しかしそれは、数多ある他の巡り合いを記憶の彼方に置き去り、その邂逅を残しておくという選択をしたということでもある。
いつの場合でも出会いは偶然でしかない。その偶然を必然たらしめたのは、それぞれの選択ゆえである。

選択はいつの場合でも、究極的には能動だ。もちろん、そうせざるを得なかったという場合はある。苦渋の選択というやつだ。そして、悲しいことに心身をコントロールされてしまい、何がなんだかわからぬうちに選んでしまうということもあるだろう。しかし、最終局面における判断は自らがする。その一点において選択は能動だ。

その一方で、人間はまちがいなく受動的な生き物だ。すべてが受動から始まる。自らの意思でそうしたことも、その元をたどっていけば、必ずどこかの誰かが起こした何かに行き当たるはずだ。これを言ってしまえば身も蓋もないかもしれないが、自分の意思でこの世に生まれ落ちた人間など、古今東西を見渡しても誰一人としていない。まずスタートは受け身。受動を起点とし、何かを感じ何かが動く。

事ほど左様に、人はすべてが受動的だ。
けれど、受動の先には必ず能動がある。
とはいえ、ぼくが意識をして主体的であろうとしてきたのは、そう考えてきたからではない。むしろ逆である。受動からの脱却を企図したがゆえに能動たらんとした。そうすれば受け身から脱することができると信じていた。まちがいない。

しかし、ぼくは今、すべてが受動であることに気づいた。
いやたぶん、ずっと前から漠然とわかっていたはずだ。ぼく起点のものは何もない。今さら気づいたことではない。しかしそれは、ぼくという個人の特性だと思っていた。だから主体的に能動であろうと努めてきた。それに悩み、脱け出そうともがいた。
とはいえ人は受動だ。それは誰も変えることができない設定だ。能動たらんとするのはけっこうなことだが、だからといって受動的であることから脱却することはできない。
それらを踏まえてなお、ぼくは能動的でありたい。それがリ・アクションにすぎなくても、自ら進んでアクションするという態度は捨てたくない。換言すればそれは、言われるがままに受け入れるか否かだ。
受動を起点として何かを感じ何かが動く。そしてその先のすべてに能動がある。その能動を自らのものにするかどうかは、言動の主体である当人次第だ。

と、このようなことを考えてみたところで、表面上でドラスティックに変わるものは何もない。能動的であろうとする姿勢も変わらないだろう。ただ、すべてが受け身から始まることを理解しているのといないのとでは、心持ちがずいぶんとちがう。そしてそれはやがて、言葉や行動にもあらわれてくる。
かもしれない。
ような気がする。
たぶん。



色覚異常隔世遺伝

2025年02月06日 | ちょっと考えたこと
10歳の孫が色覚異常であることが判明した。
少しうれしく思う自分がおかしい。

これまでにも何度か書いてきたように、ぼくは生まれつきの色覚異常者だ。
色覚異常、特定の色を識別する能力が低い状態だ。色のちがいがわかりにくかったり、ひどい場合はちがう色が同じ色に見えたりする。
ぼくの場合はそれが赤と緑。といっても巷間よく言われるように、赤が緑に見えたり、赤色の信号が見えないわけではない。仕事関連でいえばそれは、たとえば岩についた苔の緑に赤いスプレーで書いた文字だとか樹木の葉っぱや下草のなかにある赤いスプレーを塗布した杭だとかが見えにくいことであり、ふだんの暮らしでは、濃紺や濃い緑と黒が区別しにくかったり、グリーン系の衣服がどうやら他人とはちがった見え方をしているらしい(自分ではわからない)ことだったりする。
つまり、仕事をする上、また生きていく上で、まったく支障がないといえば嘘になるが、「それほどのことはない」というのが、大多数の色覚異常者だろう。

「生まれつき」と書いた。大半の色覚異常者は先天性、つまり遺伝によってそうなることがほとんどで、その仕組みはこうだ。

・色覚異常はX染色体に関係する遺伝子によって引き起こされる。
・男にはX染色体が1本しかないため、母親から受け継いだX染色体に色覚異常の遺伝子があれば発症する。
・女はX染色体が2本あるため、片方の染色体に異常の遺伝子があれば保因者となるが発症せず、両方にあれば発症する。
・したがって、男に比べ女の色覚異常者は少ない。
(日本では男性が20人に1人、女性は500人に1人の割合らしい)
・しかし、父親が色覚異常である娘は保因者のため、その子に遺伝子が受け継がれる可能性、つまり隔世遺伝はある。

してみると、色覚異常ではない男と遺伝的保因者の女の組み合わせから生まれる子どもが色覚異常になる確率は、男子で50%ということになる。
そんな単純な計算をアタマのなかでしているぼくに、孫が問いかけた。
「それってどうなの?」

ニヤっと笑ってぼくが答える。
「つまりその、ふつーではないということよ」

すると、なぜだかうれしそうに、孫が笑った。
よし、「ふつー」でないことを悲しまぬその意気やよし。
少々曲がりくねった道程になるかもしれないけれど、水先案内人がここにいる。
うれしくて爺も笑った。


いられ

2025年02月05日 | ちょっと考えたこと
「いられ」という言葉がある。
Adobe社のソフト、Illustratorの略ではない(そう呼ぶ人も多いけど)。
「いられ」、土佐弁だ。
せっかち。短気。そういった気質をもつひとを指して言う。
つまり、「待てないひと」のことだ。

ぼくには、かつて「いられ」であったという自己認識がある。
「かつて」と表現するからには、今はそうではないという前提があるのだが、自分でそう思うほど他人にはそう感じさせていないのかもしれないし、たぶん根っこのところにはこびりついているのだから、「そうではない」と断定することはできない。
とはいえ、ぼくのなかでのそれは、かつてとは様相が異なっている。

「そうはいってもアンタ、顔にはしっかり出ているよ」
と指摘されたら、さもありなんと黙ってアタマを掻くしかないが、とにもかくにも自意識としては、かなり払拭したつもりだ。
なぜマシになったのか。
いつの頃からか、「多分にこれは自分自身が増幅させているものでもあるぞ」と感じ始めたからだ。早口しかり早足しかり舌打ちしかり、また貧乏ゆすりしかり。売り言葉に買い言葉で始まった喧嘩を、感情的になった自らが発した言葉でさらにエスカレートさせてしまうこと、しかり。

それが生来そなわったものか、あるいは、成長していくうちに自ら選択したものかは別として、身についてしまった「いられ」を取り去るのは至難のわざだ。
だから、気性としての「いられ」が発動するのはやむを得ない。
しかし、問題の比重がそのあとの方により大きくあるのを、多くの「いられ」たちは理解せず、起動時とその後をごちゃ混ぜにして、自らの気質が直らないものだと思っている。

そうではないとぼくは思う。
それは「第二の矢」(※)のようなものなのだ。
ある事象が原因で「いられ」が起動した。その「第一の矢」は止めようがない。いや、止められるに越したことはないのだが、困難きわまりない。
しかし、それを引きずったり増幅させたりするのは、自らの思考であり発言であり行動であることを忘れてはならない。早口しかり早足しかり舌打ちしかり、また貧乏ゆすりしかり。売り言葉に買い言葉で始まった喧嘩を、感情的になった自らが発した言葉でさらにエスカレートさせてしまうこと、しかり。
それが「第二の矢」であり、それらの言動は、感情をさらに昂らせるのに十分すぎるほどの効力をもっている。

だったらそれを防ぐようにすればよいではないか。
いつの頃だったかは忘れたがそう思い、爾来、実践するように努めてきた。
繰り返すが、「ずいぶんマシになった」というのは、あくまでも自己認識にすぎず、「どの口が言うか」と笑われれば黙ってアタマを掻くしかない。
とはいえこの方法、けっこう有効だとぼくは思っている。
もちろん、「いられ」を直す気がないひとには、どうでもよいことだろうし、それに留意しながら実践したとて、思いどおりになるほど甘くはないけれど。



※「第二の矢」については、これまで何度も書いてきましたが、もし興味がある方はこのへんをお読みくださればよろしいかと思います。