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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

上下

2025年01月30日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
かつて(といっても、かなり昔ですが)のぼくは、たとえば部下が失敗をしたとして、それを上に報告する場合、
「ぼくの指示なので、責任はぼくにあります」
というような物言いをするひとでした。
たとえそれが自分自身が指示したものではなかったとしても、そういう筋立てを基本として事にのぞむ人間だったのです。

一見すると「よい上司」のように思えます。しかし、そうとばかりも言えません。そして今のぼくは、そういう言動を否定します。いや、上司の方法論としては完全否定するものではありませんし、ときと場合によっては効果的な方法ではあります。それを踏まえてなお今のぼくは、基本的にそれを否定します。

などと言うと、なぜ?と訝る人も多いでしょう。自分がリーダーである部署やチームのなかで起こったミスや失敗は、内々では叱責したり指導したりをするにしても、外向きにはすべて自分の責任とすることのどこがわるいのか、むしろ真っ当で褒められるべき行いではないのか、そう思うはずです。
と前置きしておいて、ぼくの考えを披瀝することとしましょう。

まず、ぼくが前提とするところを明らかにしておかなければなりません。それが完全なる内と外、すなわち、別の組織同士なら話は異なったものになります。
そう。ぼくが前提としているのは、おなじ組織のなかの話です。
そこで、部下の失敗を隠し、「自分の責任です」とのみ主張する、たとえば昔のぼくのような人間にとって、眼前で相対している「上のひと」を、「敵か味方か」どちらか一方に分けてみましょう。
いささか乱暴ですが、その場合のみに限定すれば、白黒をハッキリとさせることも可能なはずです。
敵 or 味方?どっち?
少なくともその場合においては「敵」、という表現に語弊があれば「対立するひと」です。

じつは、根本的な問題はそこ、「上と下」を二項対立関係として捉えているところにあります。
もちろん、そうさせている要因は様々あるでしょう。一概に「下」のとらえ方にのみ責を負わせるのは不公平です。そう思わせている「上」の方にこそ、より大きい比重がある場合も多いはずです。ことはそれほど単純ではありませんが、この際、「下」(立場を変えればその人もまた上司もしくはチームリーダーです、つまり「下」であり、かつ「上」である人)の思考パターンや態度に問題をしぼってみたいと思います。

たぶんそこには「失敗は隠すべきもの」という固定観念があるはずです。詳らかにするのは、隠しおおせない場合のみであって、出来得れば隠しとおす。これが多くの人にとっての初期設定です。
そして、このチームはオレの領分だからアンタにとやかく言われたくはない、という気分もあります。
もちろん、上司のそういった態度が部署やチームを団結させ、成果を生み出す要因となることも少なくありません。複数の人間をまとめるためには大切な心がまえだと言ってもよいでしょう。人は、その塊を代表して外部と闘い自分たちを守ってくれる人間をリーダーとして認めるものです。
それを承知の上で、あえてグループの外部に敵を設定するという方法を採用する人が存在します。外敵をつくることによって、内部の結束を保つというのはそれほど珍しい例ではありません。そして、その敵としての存在を、同一組織の「上」に求めるのも、よくあることではあります。

根本問題は二項対立関係としての「上と下」という捉え方です。「上下」に対立関係をもちこむ発想です。「上と下」を対立関係で捉えた枠組みです。
なぜそれが問題なのかは、自分に置き換え、立場を変えてみればかんたんにわかります。
たとえばあなたが上司や経営者だとして、部下にそれをされるとどうなるか、そのことをイメージすればよいことです。また、「上」を対立関係でしか捉えられない人間は、「下」に対してもそうなりがちです。
そこでは「上」であるあなたが欲する情報を得ることが容易ではなくなるでしょうし、あなたの「下」に位置する塊では成し得ない判断を、上司として適切にくだすことも困難になります。情報という血液が詰まったり遮断されたりしてスムーズに流れない組織に円滑なコミュニケーションが生まれるはずもありません。

ついつい、「かんたんにわかります」と書いてしまいましたが、ことはそれほど単純ではありません。「かんたんにはわからない」からこそ、「わかりあえない上と下」という関係が多いのです。自分に置き換える、また、立場を変えてみることは、それほど容易にできることではありません。

対立関係をなくすのもまた容易ではありません。不可能であると言っても差し支えないかもしれません。これまで書いてきたことを踏まえ、それを否定し、対立関係を解消するように努めることは大切ですけれど、現実はそれほど生易しくはありません。
それに、こうやってエラそうに能書きをたれているぼく自身が、その手の人間そのものでもあります。ここまで書いてきたことは、自らの内省から生まれたものでもありますし、ぼく自身に宛てて書いているとも言えるのです。

ではどうすればよいのか。
長く「三方良しの公共事業」の旗振り役を務めてきたぼくとしては、ここでも、二項対立ではなく、「三」の存在を含めた発想や枠組みを提唱したいところですが、残念ながら、それが具体的には何者を指すのかについて、解答をもち合わせてはいませんし、どうやらどこにでも誰にでも適用できる一般解があるのかどうかもわかりません。
ということで、中途半端なままですがこの稿、これにていったん締めたいと思います。いつかこの思考に進展があればまた。



ムダな工事

2025年01月29日 | 土木の仕事
「地域にとってムダな工事は見たことがありません」

あるウエブ記事を読んでいて出会った言葉です。
とある若い建設業経営者が書いたものです。
同様の言説は、時おり目にし耳にすることがあります。
まず例外なく、みなさん真剣にそうおっしゃっているのですが、ぼくはといえば苦笑を禁じえず、これまた例外なく、心の内で即答するのです。

「あります」

ムダな公共工事はない。そう思うのは自由ですけれど、これはもう「ある」としか言いようがありません。長くこの仕事をやってきている業界人であればあるほど、その年数に比例して、「ムダな公共工事」と出会った回数が多いでしょう。
もちろん、観点次第ではあります。
立場次第でもあります。
ものの見方は十人十色。あるひとつの公共事業をとっても、それをムダで意味がないと感じるか、有意義なものと受け取るか、まったく正反対の態度をとる人がいても、なんら不思議はないのです。
しかし、その理をふまえてもなお、ぼくは「あります」と断言します。
そして、他ならぬ自分自身がその施工者となったことも、一度や二度ではありません。

自分自身が当事者となって行っている仕事がムダだ、と気づいたとき、人はアイデンティティーを喪失します。拠って立つ場所を失ってしまいます。だから正当化しようとする気持ちはよくわかります。
しかし、自分の仕事の正当性を主張したいがあまりに、自らの内から客観性を失ってはなりません。

ムダな部分も引き受けて、それでもなお、ムダではなくしようとする。たとえ一人であっても、どこかの誰かのためになる部分を見つけ、その一人のために工事をする。そういう仕事の仕方があってもかまわないとぼくは思います。いや、公共建設工事の末座に連なる者としては、むしろ積極的にそうするべきではないかと思います。
その試行錯誤が、ムダな工事を減らすことにつながるのかもしれません。
本当に微力でちっぽけですが、たとえ末座であっても、できることはあるはずです。

だからお願い。「ムダな工事はない」と無条件に断定をしないでください。
たしかにムダな工事は存在するけれど、それをムダではないものに転じることもできなくはないと思い定め、地域のためにできることを考え、足掻いてみてください。それで何かが起こり何かが変わるとか、たかが辺境の土木屋風情に、そのような保証ができるはずもありませんが、その営為は、それこそムダにはならないとぼくは思いますよ。なんとなれば世の中っていうのは、そんなに捨てたもんでもないですから。


一事が万事

2025年01月28日 | ちょっと考えたこと
北条三代。戦国時代、小田原を拠点とし関東一円を支配した北条氏の治世を指してそう呼ぶが、じつは後北条氏は五代までつづいている。
では何故「三代」なのか。それは、滅亡へのトリガーを引いたとされている四代氏政が暗愚の君主であった(諸説あり)ため、彼以降はカウントせず、初代早雲をはじめ、二代氏綱、三代氏康までをもって栄華を誇った北条氏を呼びあらわして「北条三代」、その四代目のエピソードとして有名なのが「汁かけ飯」、氏政が少年時代の話だ。

ある日の食事中、汁を一度メシにかけて食べた氏政少年。しかし、案に相違し、メシの量に比して汁は少なく、もう一度汁をかけ足した。
それを見た父の氏康。
「毎日食事をしておきながら、メシにかける汁の量も測れんとは、北条家もワシの代で終わりか」
と嘆息したという。

いわゆる、「一事が万事」というやつだ。
ひとつの小さな事柄にあらわれるものは、他の大きな事象の場合にも当てはまる。氏康父さんは、一見すると取るに足らない食事中の行いを見て、「汁かけ飯の量も判断できぬ者に領地経営や家臣団の統率が務まるはずはない」と推量した。

たとえばそれが現代日本ならば、そのような些末なことで少年の未来を決めつけてしまう親がいたら非難轟々、あっちからこっちから切り刻まれてしまうにちがいない。ぼくもまた、たとえばそれがわが孫ならば、「未来ある子にそんな可哀想なことを言ってやるな」と親をたしなめるかもしれない。

失敗を繰り返し、その体験を糧にして成長してゆく、それが人間というものならば、些事をもって大事を推し量るなど、大人としてあるまじき行為だというのが現代日本一般での常識だろう。ぼくもまたそれに同意する。

とはいえ、「一事が万事」ということわざが、すべてにおいて意味を成さないかというと、そうとも言えない。
万事をこなすにおいて必要な力が一事にもあらわれるというのはよくあること。そう、一事には万事に通底するものがあるからこそ、「一事が万事」という言葉が成立する。
「汁かけ飯」という些事に「領地経営」という大事をこなす能力の欠如を喝破した氏康父さんもまた、その習いどおりだったと言えるだろう。

しかし、繰り返すが、若年代の一事をもって万事を評価するべきではない。人は体験から学ぶ生き物、体験から得られた知見を成長の糧とするところは、人が人たる所以であるからだ。

たとえば「汁かけ飯」ひとつとってみても、椀によそった飯の量に応じてそのつど最適な汁の量を判断できる子はまずいない。個によって遅いか早いかのちがいはあっても、どの子でも、体験を繰り返すうちにそれを自らのものとするという、同様の段階を踏むはずだ(この令和の御代に「汁かけ飯」をする子がどれだけいるかは別として)。
往々にして人は、習熟速度の早さや習熟期間の短さを評価の基準とすることが多い。しかし、長いスパンで見た場合には、一概にそうとも言えないのが人間のおもしろさでもある。だとすれば、それをもって将来をどうのこうのと推し量るべきではないだろう。

といっても、いつまでもそれをつづけているとなると、ちょいとばかり事情は変わってくる。そこにはもちろん、育った環境が大きく影響を与えているにちがいない。そのようなムダについて指摘されずに少年時代をすごすと、気づかないまま成長してしまうこともよくあることだ。
一事をもって万事を正しく推量し、その些事が大事に通ずることを教え、言動を修正し、あるべき方向へと導いてやるのも大人の大切な役割ではある。

しかし、究極的には、できるできないは個人の責に帰せられるものだ。すべてを自己責任と断じるつもりはないが、自分の至らなさを親や上司や環境のせいにしてしまう姿勢からは、成長は期待できない。
万事に必要なものが一事にも表出するという理を胸に留めおき、些事だからいいや、という姿勢を排除する。そういった心のもちようが、人間の成長にとって大切なものとなる。

「一事が万事」は、ぼく自身にも、そしてぼくの周辺にも掃いて捨てるほど転がっている。とはいえそれらのすべてを、十把一絡げで「一事が万事」と処理してよいものではないだろう。
他者を推し量るために用いる際には十分な注意が必要。しかし、自らへの戒めとして使うと効果的。これが「一事が万事」というものではないだろうか。

言わずもがなではあるがこれ、けっしてお子様限定の話ではない。
どうかそこんとこヨロシク、なのである。


負けても腐るな

2025年01月24日 | ちょっと考えたこと
初場所もたけなわ。
大方の予想を裏切り、またもや混戦模様となった本命不在の優勝争いが、それはそれでおもしろい。
そんななか、それに絡むことはできないが、なかなかに存在感を発揮しているのが阿炎。先日の放送では、師匠である先代錣山(現役時代の四股名は寺尾)が彼に宛てたという言葉が紹介されていた。

いわく
「負けても腐るな」

うん、大切なことだ。とうなずくぼくは、皆さんご存知のように「腐る」ひとだ。
負けて腐るのは当然のこと、何かにつけて不貞腐れる。
思えば、そんな自分とたたかい、それを克服しようとすることに、人生に与えられた時間の多くを割いてきたような印象すらあるが、それが実を結んだのかどうかと自分に問うてみても芳しい答えは返ってこない。
事ほど左様に、負けては腐るし、何かといえば不貞腐れる。

いやいやだからこそではないか。
だからこそ、このシンプルな言葉を投げかけつづけなければならないのだよ。
そう自分自身に言い聞かせながら脳内で反芻し、声に出さずに繰り返してみる。

「負けても腐るな」

よい言葉だ。

不完全であるということ

2025年01月23日 | ちょっと考えたこと
LINEの着信音が鳴った。
知人からだ。
折しも、ある事業が終わったのに伴う事務処理についてやり取りをしていた人だ。
どれどれ、とのぞいてみると、約2時間を要し仕上げていた渾身のテキストが、完成間際になって飛んでしまったのだという。

なんとも言いようがない。
「ご愁傷さまです」
とだけ返した。

と、それから1時間以上が経っただろうか。
ふたたび連絡があった。
己を叱咤激励して再開したものの、また消えたらしい。
今度はかける言葉がない。

かつてはぼくにも、その手の事象がよくあった。
だから気持ちは痛いほどわかる。
しかし、クラウド(主にOneDrive)上で仕事をし、なおかつOffice製品であれば自動保存がオンになっている今のぼくには、ほとんど起こらないことだ。
とはいえ、まったくないかといえばそんなことはなく、現に今、こうやって書いているgooブログでは、年に何回かは、それこそ渾身の一文を雲散霧消させてしまうことがある。
ふたたび書き直すのは、意を決しさえすればさしてむずかしいことではない。前の文が脳内に残っているのだから、むしろ最初よりよいものになることもないではない。しかし、それが二度つづくともうダメだ。
昨今流行りの「心が折れる」という言葉は、あまり使いたくないのだが、まさにそれがピタリと当てはまる心情となる。

それだけではない。
つい先日は、なんの拍子か、クラウドではなくデスクトップで新規作成をしたWord文書を保存し忘れて飛ばしてしまった。しかも作成途中ではない。全部できあがって資料として使用したものが消えていたのだ。
あれ?あれ?あれ?
デスクトップにあるのは、表題だけつけられた中身が真っ白のファイルだけ。どこをどう探してもないその調査報告書は、説明用にプリントアウトして三者に配布しており、内輪でいちばんぼくの恥を飲みこんでくれそうな人に頼んで、紙をPDFにしたものを送ってもらい、それをもとにキーを叩いて復元し、あとの二者に対しては何事もなかったかのようにダンマリを決めこんでいる。

このようなエラーはシステムの不具合である場合もあれば、ヒューマンエラーである場合もある。
いずれにしても、そういったことが起こらないようにするためには、人間の心持ちとか取り組みように頼らず、マシーンやシステムをエラーが起こらないようなものに改変することが最善策だとされている。
もちろん、ぼくとてそれに異論はない。

といっても、それを扱うのは、現状のところはあくまでも人間だ。
だから極力人間を排除していくのだ、という方向は上の文脈からいえば正しい。
しかし、人間の関与がなくなればなくなるほど、その仕事は味気ない。
まったくもってぼく個人だけの意見にすぎないが、人の介在がなくなればなくなるほど、ぼくはその仕事をきらいになってしまう。

だからだろうか。ときとして不完全な自分がかわいらしく見えてくることもある。いや、たぶんそれは甘えなのだろう。できない自分を許すための方便なのだろう。しかしぼくは、そこを捨て去ろうとは思わない。

「不完全であるというのはいいなって。生きていく上で不完全だから進もうとするわけで」

きのう、米国野球殿堂入りしたイチローさんは、「あと一票」で満票を逃したことについて、そうコメントしたという。
よもや、あのイチローとこの辺境の土木屋を比べるつもりもないし、比べようもないほどに彼我の差はある。そして、「だから完全を目指す」のだという彼の文脈は完全無視した勝手な言い草ではあるけれど、なんとはなしに、「不完全」というその言葉が胸に染みた一日だった。


勝負の相手

2025年01月22日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
正月前後の長期休暇中、浮かんでは消え消えては浮かびを繰り返す言葉がありました。

積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ。
積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ。

竹原ピストル『オールドルーキー』の一節です。
とはいえそれを思い浮かべるのは、今に始まったことではありません。
これまでも折に触れてはそうだったし、また、このブログをはじめとして様々な講話でも、主に仕事を遂行する上での心がまえとして紹介してもきた、ぼくにとってはお気に入り中のお気に入り、まちがいなくトップランクに位置する言葉です。

自分が積み上げてきたもので他人と勝負する。そこには勝ちもあれば負けもあるでしょう。しかし、積み上げてきたもので勝負しようという心の持ちようでいるかぎり、その勝ち負けの割合は負けの方が多くなるでしょうし、やがてはまったく勝てなくなってしまうにちがいありません。
だから変わりつづけなければならない。変わったもので勝負するということは、自分が積み上げてきたものとの勝負に他ならないのです。
もっと平易に言えば、過去の成果や成功体験の上に胡座をかいていては、未来の成功はないし成果もあがらない。だから変わりつづける必要がある。これがぼくの解釈でした。

では誰がその勝負の相手なのか。
これについては曖昧模糊なまま、深く考えたことはありませんでした。
なんとなれば、勝負の相手はひとりではないし、その場その時で変わるものです。であれば、誰かを特定する必要などありはしません。そこでは、いったい誰と勝負するのか、誰に勝てないのか、そこのところを突き詰めて考える必要はなかったのです。
当然のようにそう考えていたぼくの脳内に、突然その答えが舞い降りたのは今年のはじめでした。

そうか、勝負の相手は他ならぬ自分自身だったのだ。

「積み上げてきたもの」を過去の成果と捉えるのは、たぶんまちがいではないでしょう。しかし、「積み上げてきたものと勝負」するときそれは、「自分が積み上げてきたもの=自分」、すなわち「これまでの自分と今の自分の勝負」となるはずです。そして、その勝負に勝たなければ他の何者にも勝てはしない。そう捉え、自分自身への戒めと同時にエールとしなければならないのではないかと考えた。竹原ピストルが詩に乗せた想いはどうあれ、そう解釈することがこれからのぼくにとっての最適解のような気がしたからです。

では、具体的な行動としてあらわすにはどうすればよいのでしょうか。
真っ先に思いついたのは「捨てる」ことでした。
変わりつづけようとするのは正しい。しかし、それまでに積み上げてきたものを捨てなければ、本当の意味で「変わった」とは言えないのではないか。そう考えたのです。

では、何を捨てるのか。
そう考え始めたとき、いくつかの候補として浮かび上がってきたのは、ぼくが寄す処としてきた、あるいは骨格としてきたいくつかの事柄でした。
ですが、ここでは明かさないでおこうと思います。
そのような大胆なことが、はたして己にできるだろうかと思ったとき、身ぶるいをするような感覚に襲われたからです。有言をすることで自らの逃げ場をなくして実行せざるを得なくする、という手法を採用することが多いぼくですが、今回ばかりはさすがにビビってしまったからです。

しかし、考えてみれば、それほど怖気づくことではないのかもしれません。
ドラスティックな変化を遂げるには、一気呵成に「捨てる」を実行しなければならないのでしょうが、ぼくは何も、劇的に変わろうとしているわけではなく、なんとなれば「漸進」は、かねてよりのぼくのモットーでもあるのですから。

すると、またあることに気づきました。
それならば、これまでずっとやってきたことに他ならないではないか。
そう思ったのです。
何のことはありません。

積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ。積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ。その勝負の相手は他ならぬ自分自身。

ぼくのこれまでは、まさにその通りでした。
それなのに今さら何を。
ふぅー、あらあら、なんと回りくどく、かつ遠回りする思考でしょうか。
我ながら少々情けなくなってきました。

しかし、「勝負の相手は自分自身」であることや、「積み上げてきたものを捨てる」ことを、強く意識するのとしないのとでは大きな差があるにちがいありません。たとえ緩やかな変化であったとしても、意識的でなければ積み上げてきたものを捨て去ることはできず、どこかにその残滓があったままであれば、それへの未練に引きずられてしまうのは必定です。
そのことに気づいただけでも、この遠回りには意味があったのではないでしょうか。いや、きっとあったと思い込むこととして、この回りくどいテキストを締めくくることにします。でわ。



いやし

2025年01月20日 | ちょっと考えたこと
「いやし」である。
といっても、昨今もてはやされる「癒やし」ではなく、食べ物に執着する、あるいは、食べ物をやたらとほしがる人を指して言うところの「いやし」、つまり、「いやしんぼ(卑しん坊)」の略としての「いやし」である。「卑しい」と「坊」を組み合わせた言葉だから、もちろん、相手を見下げて用いる語句にちがいない。

とはいえそんなことを言うと、ぼくを知っている人なら十中八九が首をかしげるにちがいない。そう。それほどにぼくは食が細い。一般の成人男性と比べると、半分は大げさにしても、けっこうな割合で少食だ。いや、若者が相手だと半分ほどかもしれない。昨今流行りの「大食い」に毒された人ならば、それこそ月とスッポン、比較の対象にもならない。

そうはいっても、少食と卑しん坊が並立できないわけではない。別に完全対立をした概念ではないから、立派に同居ができる。ただただ、わが身が欲するほどには食べ物を摂取することができないだけのことだ。したがって、「いやし」でありながら少食である身は少々悲しい。

とはいえ元来が少食だったわけではない。若いころなら、食堂に入っても、麺類を単独で食することはほぼなく、必ずといってよいほど丼ものがセットだったし、呑んだあとのシメのラーメンはもちろん必須、なんならシメの焼肉がマイブームだった時期もある。事ほど左様に、人並みには食っていたはずだ。
そんなぼくの今ここにある食の細さは、自らのぞんだ節制が習慣化して身に着いたものと、いつからか棲み着いた胃弱が絡みあってそうなったものとの合作としてある。

そうそうそういえば、母はよく、「いやしは料理が上手になる条件」と言っていた。たしかに、そう言われてみれば思い当たる人は多い。
「いやしならば料理上手である」と「料理上手ならばいやしである」は同時に成り立たないが、「いやし」が料理上手になる蓋然性は高い。その本質は「欲」だろう。
それを踏まえて亡母の言葉を言い換えると、「料理が上手になるには欲をもつ必要がある」となる。こう表現するとほとんどの人に異論はあるまい。食欲がある一線を超えると「いやし」になると同時に、あの味を再現させて口にしたい、また、誰かに食べさせたいたい、そしてさらにそれをアレンジして向上させたい、という欲が料理上手を生み出す。

「食いたい」と「向上したい」、両者に通底する共通項は「欲」である。
つまり、「いやし」は欲深さが具現したものとしてある。
考えてみればぼくの場合の「いやし」も、食に関することだけではない。何につけても「いやしんぼ」、これがぼくという男の本質だ。
そう、ぼくの「いやし」もまた、生来の欲深さの発現としてある。

それがよいのかわるいのか。これはどちらとも言えない。時と場合によるとしか言いようがない。少食は「器」であり、「いやし」は「心」だ。欲深さを、器のちいさい身のうちに抱え70年近い歳月をすごしてきてみれば、いささか持て余し気味で鬱陶しいときもある。

たとえば、
「オヤジ、そりゃちょいとばかり欲が深すぎやしないかい?」
そう問いかける別のぼくがいると
「バーカ、これが向上心というやつぢゃないか」
と即答するぼくがいる。
どちらに軍配が挙がるか。それはその時々の体調や気分等々。あくまでも自らの身の内にある。どちらにも偏ることなく、折り合いをつけながら平衡を保つのも自分次第だ。しかし、多くの場合では「欲」が勝ることとなる。
近ごろもまた、その例に漏れず、やたらと食い気に走る自分がいる。
すぐに器が満杯になることを承知して上手に使えば、モティベーションアップのためにこの上ない良薬となるが、さて・・・。


おせっかい

2025年01月17日 | ちょっと考えたこと
十年来の知己が緊急入院したというのを知ったのは、彼が退院後にアップロードしたSNSからである。さっそく、ダイレクトメッセージで近況を問うてみると、思いのほか上々らしく、ほっと胸をなでおろした。

そのやり取りのなかで彼が書いてきたあるできごとに驚いた。
なんと、ぼくが夢の中に何度も出てきたと言うのだ。
その文字を見るなり、いやはやまったく・・と苦笑する。
いくらおせっかいの質だとはいえ、遠く離れた病床、しかも一時は死をも覚悟したというところにまで顔を出すとは、いくらなんでも度が過ぎるというものだ。苦笑いするしかないではないか。
と同時に思い浮かんだのが、若いころ読んだ詩の一節だった。

夢の中まで追いかけてきて
いったい君はぼくにどうしてほしいのか

うろ覚えだが、そんなふうな言葉だったと思う。
あれはたしか山之口貘・・いやいや金子光晴だったか・・・と、ひとしきり検索してみたがヒットしない。
とはいえあれは、恋の詩、つまり詩人が恋人に向けて書いたものだったはずだ。恋人なら大歓迎だろうが、この禿頭に出てこられたのではたまったものではない。
という旨の返信を送ると、いやいやそうではないと彼いわく、「なんだかんだと高知弁ですごく励ましてくれた」らしいのだ。

高知弁か・・・これまたやけにリアルである。しかも一度ならず何度もとは。
当然ぼくなら願い下げだが、彼の文面からは、そういった雰囲気は微塵も感じられない。ありがたいことだ。

ということで、期せずして発覚した令和7年巳年初めのおせっかい。
思えば母も祖母もおせっかいで、その血を受けたぼくもまた、小さいころからのおせっかいが、数え年で六十と八を迎えてもおさまりそうにない。