33年前、箸の持ち方を正した。いわゆる矯正箸を使ってである。きっかけは、こんなふうだ。
社用で食事会があった(今の会社ではない)。いわゆる接待のようなものである。場所となったのは、少し高級な焼肉店だ。その参加者のなかでイチバンの下っ端はわたし。誰に言われるまでもなく、肉焼き係をしたのは当然の成り行きだった。宴なかば、大ぶりの肉を上手くつかめず、照れ笑いをしながら顔を上げると、一同の視線がわたしの手先にそそがれていた。刹那、恥ずかしさと肉を焼く卓の熱さと酒の酔いとがごちゃまぜになって、身体がかぁーっと熱くなったのを今でも覚えている。
もちろん、おのれの箸の持ち方が「おかしい」ことについては大いに自覚的だった。むしろ、「別にいいだろそんなこと」と、それを話のネタにしていたようなところもあった。「だってオレ、これで何の不自由もしてないし、豆だってつまめるもんネ」、てなもんである。今から思えば羞恥の裏返しだったような気もする(ややこしい男だね、まったく)が、事実、それでさしたる問題はなかったはずだった。だが、その場その時その雰囲気は、そんな虚勢をはる余裕などはまったくなく、「上手くつかめない」という事実と「上手く使えない」という事実が符合して、「おのれの至らなさ」という現実をつきつけてくれたのである。
食事会が終わり、当時付き合っていた彼女と住んでいたアパートに帰るなり、「オレ、箸の持ち方直す。教えて」と頼み込むと、「矯正箸っていうのがあるよ。買ってきてあげる」と彼女。翌日、わたしの目の前に置かれたのは、正しい指の位置に輪っかがついたプラスチックの白い箸。ただそれは、大人が持つにはあまりにも小さい。
「そうか、大の大人はこんなことせんわな」
と思うと、その小ささがやけに哀しかったが、とまれ、そこからわたしの奮闘が始まり、結果、みごとに箸の持ち方は矯正された。
と書くと、四苦八苦悪戦苦闘艱難辛苦を経てものにした、と思われるだろうがさにあらず。何のことはない。事実はというと、じつに短期間で正しく箸が持てるようになった。感覚と理屈の両方で「わかった」という瞬間が、あっさりと降りてきたのである。
「あ・・・、そうだったのネ」
そのあっさり感が妙に感動的だったのを覚えている。
その矯正箸について、知人からこんなことを聞いた。
いわく、「あれは効果があまりない」のだと。
なぜなら、「矯正箸を使ってるときはちゃんとできるが、ふつうの箸に戻すとできなくなる」のだと。
「けどオレは矯正箸で直ったぜ」とわたしが言うと、「それはアンタに”直すんだ”という強い意志があったからであって、矯正箸の効果は少ない」とにべもない。
「ははぁ~、な~るほどネ」とわたし。たしかに、そう言われてみれば思い当たるフシがある。
そう、すべからくそうなのだ。
マインドとツール。
「向上しよう(変わろう)というマインド」と「向上する(変わる)ためのツール」。
どちらがより大切なのかという問題は、いつもいつでも眼前にある。
「精神」に偏ってしまうことは厳に戒めるべきだろう。「技術屋日記」と銘打ったブログをつづけながら理論的なテクストをほとんど書くことがないわたし(書くことができないという説もある)だが、精神論に傾きすぎる危険は十分すぎるほど承知している。その一方で、「道具」に頼り切ってしまうのもまた危うい。こう見えて「ツール大好き」人間のわたしは、いや、「ツール大好き」人間だからこそ、強くそう思う。肝要なのは「平衡」と「落としどころ」なのだ。
あらあらどうしましょ・・
たかだか「矯正箸を使って箸の持ち方を正した」という昔話が、いつのまにか「向上しよう(変わろう)というマインド」と「向上する(変わる)ためのツール」などという大仰なものになりかかってしまった。
いやはやまったくこりゃまたどうも・・・
こんな面倒くさい男に、これまでよく付き合ってきてくれたもんだ・・・
夕餉前、買い替えたばかりの新しい箸を食卓に置き、台所にきびすを返した33年後の「彼女」のうしろ姿に、1984年の白い小さな矯正箸を思い浮かべて、こっそりとウインクをしてみる。
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