少食である。
慢性胃炎経由の萎縮性胃炎というやつになってから、あまり食えなくなった。
~ちなみに、この胃弱という癖、いつなったのかよくわからない。自覚症状がなかったかといわれれば、そりゃあったに決まっているのだが、それが病気だとは思わなかった。こう見えて、打たれ弱いが痛みにゃ強い。~
と同時に、日常的に身体を使った仕事をすることが少なくなったこともあり、自覚的に食を減らした。結果、当然のことながら少食になった。
~ちなみに、相反するようだが酒は呑む。たくさん呑む。これについては今さらことさら語ることでもないだろうが、とりあえず、「でもねアンタ」と言われる前に書いておく。~
近ごろではそのうえ、意識して少ししか食べないことがある。意識して「抜く」ことだってたまにある。そのたいていは、前夜の深酒でストレスフルになっている胃に休息を与えてやろうとしていることだが、実行するについては、けっこうな意識改革が必要だった。なぜならば、ずっとわたしは、「つらいときほどメシを食え」「とにかくメシを食え」「何がなんでもメシを食え」という思想の信奉者だったからである。
そういえば、20歳になる少し前、後輩を昼メシに誘ったことがある。すると、「食いたくないんです」「食えないんです」などと言う。聞くと、失恋したのだという。心の底から「ダメやなコイツ」と思ったことを覚えている。
なぜ唐突にこんなことを書いているのか。
近ごろつづけざまに、「メシが食えない」とか「あいつメシを食えてなかった」とか、若い人たちの行状を聞き及んだからだ。
贈る言葉はただひとつ。
「とにかくメシを食え」
古来、「腹が減ってはいくさはできぬ」と言う。使い古された陳腐な表現とはいえ、相当な部分で的を射ている。
メシはチカラの源だ。身体のみならず、頭にとってもエネルギー源だ。身体的にダメージを受けているからといって、また、精神的なダメージを負ってしまったからといって、メシを食わないようでは反転攻勢には出られない。だいいち、それでメシが食えなくなるようでは、渡る世間を生き抜いていく「あしたのため」には、心もとないことこのうえない。
「(つらいが)とにかくメシを食う」「(しんどいケド)とにかくメシを食う」「(なにがなんでも)とにかくメシを食う」という行為は、身体にチカラを与えると同時に、心に喝を入れる意味としても有用だ。
とにかくメシを食え。
四の五の言わずにメシを食え。
男も女もメシを食え。
若い人には断固としてそう薦めるわたしはしかし、「すべからく、食は腹八分目をもってよしとするべし」、つまり、「腹いっぱい食うべからず」という考え方の持ち主でもある。なぜならば、食を調整するという行為は、セルフコントロールのなかで重要な位置を占めていると信じているからだし、何よりもういい歳だもの。それほどしゃかりきになってメシを食う必要もなかろう。だから近ごろのわたしは、あまり「食わない」し、ときとしてまったく「食わない」。
だがそんなわたしでも、ヘバッたとき、あるいは、ここイチバンという局面では、無理矢理にでも「食う」。
なんとなれば、「腹が減ってはいくさはできぬ」からだ。
なおのこと、若者なら食わねばならぬ。
とにかくメシを食え。
四の五の言わずにメシを食え。
男も女もメシを食え。
以上、「若者よメシを食え」のススメである。
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