答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくことなのです」(近内悠太)

2020年07月20日 | 読む・聴く・観る

 

『世界は贈与でできている』(近内悠太)

2週間ほど前に読み終えた本だ。

このなかに「言語ゲーム」という概念について触れた章がある。

この稿、まずは、そこに出てくるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉からはじめる。

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言語を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということなのである。(『哲学探究』、第5節)

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以下、著者の説明を要約する。

 

たとえば「窓」。

言葉をまだほとんど習得していない幼児に、窓を指差しながら「ま・ど」と発話して教え込もうとしても、語と実物とを結びつけてもらうことはむずかしい。

なぜならそれは、「外」「透明」「四角いもの」「枠のあるもの」「空」「雨」「南向き」「明るさ」などなどと、さまざまな解釈が成り立つからだ。相手は、すでに多くの言葉を持ち合わせている大人ではない。あくまでも子どもが対象という前提においてだ。

では子どもはどうやって「窓」という語を学習していくか。

たとえば「窓を閉める」という活動にプラスして「寒くなってきたから窓を閉めようね」という言葉を発する。あるいは「ほら、窓見てごらん、お月さま出てるね」という言葉とともに「外を見る」。そういった、「活動と言語学的コミュニケーションが合わさったやり取りを通して」、言葉というものは学習されていく。

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つまり、「窓」という語がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているかという点に、「窓」の意味があるということになります。(Kindleの位置No.1251)

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たとえば、野球における「ファール」。

野球を知らない子どもは、ルールブックを理解するという行為からそのゲームをはじめるのではない。すでに知っている誰かといっしょに、「とりあえずやってみる」というところからスタートする。そのなかから「ストライク」や「アウト」といった概念とともに「ファール」もまた理解する。野球というゲームを把握しなければ「ファール」の意味を理解することはできない。

つまり、ゲームに先立ってルールがあるのではなく、ゲーム全体に支えられてはじめて、そのなかのルールが理解できる。

これらの例えのあと、これが「言語ゲーム」なのだと著者は説く。

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語の理解が確実にできているから、言葉を使えるのではありません。そうではなくて、その語を用いて他の人と共に滞りなくコミュニケーションが取れているから、語の意味が理解されているのです

 このように、実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるかのように見える、というのがウィトゲンシュタインの主張のポイントです。

 ウィトゲンシュタインは、そのようなゲームを「言語ゲーム」と名づけました。

 野球に限らず、将棋もチェスも、そして言語的コミュニケーションも、人間の営んでいるあらゆる活動が言語ゲームとなります(手を挙げればタクシーが停まるという制度も言語ゲームです)。

(No.1269)

 僕らは他者との言語ゲームを通して、「窓」という言葉の使い方の規則を理解してきたのでした。

(No.1279)

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以下、「窓」「ファール」という例えを用いた「言語ゲーム」解説の結論。

またまた要約してみる。

「窓」という物体や「ファール」という行為のイメージを心に浮かべることができることは、意味を理解するということにおいての本質ではない。

「意味が分かった」とか「頭の中にイメージできた」といった人間の「内側にある何か」によって、言葉の意味は理解されるわけではない。

では理解している、とはどういうことか。

その基準は、「野球であればちゃんとプレーができること」、「言葉であれば言葉を使って他者とコミュニケーションが取れていること」、それ自体なのである。

つまり、意味は心の中にあるのではなく、言語ゲームの中にある

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 他者の心の内側や頭の中を覗き見ることはできず、だから、相手が言葉の意味を本当に理解しているか否かを知ることはできない、と僕らはつい思ってしまいます。

 (中略)

 そもそも、「この子はまだ『窓』の意味を理解していないのではないか?」と疑念を持つのはどういうときでしょうか。(中略)

 それはたとえば、子供に「窓を閉めて」と頼んだのに、その子が洗面所に行って手を洗ったりしてしまうという場面においてです。これは明らかに「窓」をめぐる言語ゲームからの逸脱を示しています。言語ゲームからの逸脱が発生する文脈において、初めて語の理解が疑われるのです。

 つまり、本当に理解しているかを確かめようとするとき、そこですでに心の外、頭の外にある行為、振る舞い、つまり言語ゲームを前提としているのです。

(No.1297)

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以下、またまたまた要約。

たとえば「痛み」。

「私が感じているこの痛みは、あの人が感じている痛みと同じ痛みなのか?」

という懐疑は、「互いの心の内側にあり、根源的に共有できないように見えるもの」に対する疑いだ。

しかし、これは問いそのものがまちがっている。なぜなら、その問いは、「あの人」の内側にある痛みそのものを記述することができないからだ。記述の正しさは、実物との照合による一致を判断することによって決定する。しかし、それはできない。「あの人の痛み」を取り出して「私の痛み」と比較することはできないからだ。

「痛い」という語は何かを記述するものではない。

つまり、言葉は「心の中にある何か」の代理物ではない

 

ここでまた、ウィトゲンシュタイン登場。

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言葉は、言葉以前にある何か別のものの翻訳なのではない。(『断片』、191節)

「私は痛い」と言うことは、うめきと同様、ある特定の人間についての言明ではない。(『青色本』、121頁)

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またまたまたまた以下要約。

では、「痛い!」という語が、ある言語ゲームのなかで果たす役割とは何か。それが求めているのは、なんらかの対処だ。そして、「痛い!」という人を目の前の人にして、「本当にそうなのだろうか、確かめなければならない」と、人は考えない。

つまり、「痛い!」と叫ぶことで言語ゲームが終わるのではなく、その発話とともにゲームは始まる。

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 結局、ウィトゲンシュタインの言語ゲームというアイデアは、僕らの言語的コミュニケーションが言葉と心の中だけで完結するものではなく、僕らの生活全体と合わさって機能しているという事実を僕らに教えてくれているのです。(No.1328)

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いささか長くなりすぎた。そろそろ終いにしよう。

またまたまた・・・何度目かわからないがとにかく以下要約だ。

 

なぜ、他者のことを理解できないのか?

それは、その心の内側が分からないからではなく、「その他者が営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないから」であり、「その人の言語ゲームが見えないから」である。

さらに、自分がすでに知っている手持ちの言語ゲームをその人に当てはめようとする行為をするにおいて、「僕らはもっとたちが悪い」と著者は言う。

そして、「他者理解においてやるべきこと」とは。

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一緒にゲームに参加しながらゲーム全体を観察して「ファール」の意味を少しずつ学んでいくように、その他者がこれまでの人生の中で営んで来た言語ゲームを少しずつ教えてもらいながら、一緒に言語ゲームを作っていくことかもしれません。ちょうど、僕らが幼いころ、「窓」という言葉を、言語ゲームに交ぜてもらいながら学んでいったようにーーー。

 他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくことなのです

(No.1374)

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そこでわたしは考える。

「ではどうすればよいのか」

結局、それについての答えは、毎度毎度のことながらすぐには浮かばない。

一読して、「わかったつもり」になり、「これだ!」「これが他者理解の問題解決の突破口だ」といきおいこんではみたものの、本当に「わかった」のか?と自身に問いかけると、「いやぁそれがどうも」と心許ないことこの上ない。

「むむむ」とうなって、ふたたび読み返してみると、案の定、よく「わかってない」ことに気づく。ならばと、自分なりに要約しながら「わかろう」と努めてみたプロセスをさらけ出し、ここまで書いてきた。

その結果、「わかった」とエラそうなことを言うつもりはないし、ここから突破口がひらけると断言することもできないが、なんだか少し問題解決の「よすが(のようなもの)」あるいは「とりつく島(のようなもの)」を見つけたような気にはなっている。

 

 

(注:青字はわたし独断の注釈ですのであしからず)

 

 

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