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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

打てば響く

2024年01月08日 | ちょっと考えたこと

「作用反作用」という。
物体に力を加えると、必ず逆向きの力があらわれる。加えた力が作用、それによってあらわれた力が反作用。作用と反作用の大きさは等しく、互いに逆向きだ。これを「作用反作用の法則」という。別名は「運動の第3法則」、ニュートン力学における運動3法則のうち、「第1:慣性の法則」「第2:運動方程式」につづく3つめだというのがその名の所以である。
作用には必ず反作用がはたらく。これは物理上の真理であるだけではなく、人と人との関係においてもまたそうだ。しかし、人間という生き物の場合には、それがシンプルにはあらわれない。
たとえば、わたしが発する「言葉」という作用に対して、眼前に在る人の内部では反作用がはたらくけれど、それが言動としてあらわれるどうかは、その場その時、人それぞれによって異なってくる。
「打てば響く」という。
言わずもがなを承知で説明すると、太鼓を打つと即座に音が鳴るのを比喩として、何かしらの働きかけに対してすぐに反応することを意味する言葉だ。
それが太鼓であれば、皮に対する打撃に対しては、その音の良し悪しはともかく必ず反響がある。しかし、人はそうではなく、打撃に対する反応には差異が生じ、ごくごく大雑把に言うと、敏感に反応する者とそうではない者に分かれる。実際にはそのどちらにも長所と短所があるのだが、一般には、反応や行動が速い人の方がそうではない者に比べて優れていると評価される傾向にある。
だから「打てば響く」という言葉に存在意義がある。
ぼくを知る多くの人は、ぼくのことを「打てば響く」系だと思っているようだ。実際にどちらかといえばそうなのだけれど、小さいころからそうだったかというと、じつはそうでもなかった。出たがりと引っ込み思案、破廉恥とシャイがひとつ内面に同居する少年だったぼくは、それゆえに、「打っても響かない」ことも多かった。
だから自らを「打てば響く」人たらんとしてきた。
その甲斐あってか、「打てば響く」系のぼくは、内なる別人格をずいぶん駆逐することができた。したがって、今、みなさんの前に存在するのは、「打たれる」と「響く」のあいだをなるだけ縮めようとしてきた結果としてのぼくである。
ところが、いわば望みどおりであるはずのそのぼくを、近頃のぼくはあまり好きではなくなってきている。
「作用」には必ずストレートな「反作用」がはたらく。だがそれは、人間世界においては必ずしもよいことであるとは限らない。相手の「作用」に対して素早く、かつストレートに「反作用」を返すのは、時と場合によっては悪手となることも多い。この歳になってそれにようやっと気づいたからである。
ではどうすればよいのか。

ストレートに反応しない。
ゆっくりと反応する。
あるいは「響かない(ふりをする)」。

「打てば響く」に身も心もどっぷりと浸かってしまったぼくには、その実行が困難であることはマチガイナイ。しかし、今のぼくに対するニーズが、けっして「打てば響く」的なものばかりではないことを考えれば、そういう心がけもまた必要不可欠なものだろう。
そのうえで、出来得るならば、「打てば響く」ぼくと「打っても(すぐには)響かない」ぼくを、意のままに使い分けることができたなら・・・・

以上、松の内が明けてようやっとリリースをする令和6年の初稿だ。別に所信表明ではない。いつものように、「ちょっと考えたこと」である。



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