花札、それも「こいこい」などというゲームが、今の若い人たちにとってどういう位置にあるのかよくわからないが、わたしが少年だったころにもそれは、さほど皆の身近にあったわけではないような気がする。
が、わたしの家では、ポピュラーなカードゲームとしてそれはあった。教えてくれたのは父である。
そんな記憶がひっぱりだされたのは、今朝のNHKニュースからだ。ボクシングWBA世界ミドル級スーパー王者村田諒太のインタビューのなかで、その画像は登場した。
はて、この札の名前はなんだっただろう?
インタビューを聞き終え、納豆飯をかきこみながら記憶を呼び起こした。
たしか、「柳にカエル」。他の札と組み合わさって「役」となったはずだ。
さっそく調べてみた。
残念ながら不正解。正しくは「柳に小野道風」。いわゆる光札のひとつで、「雨四光」という「役」を構成する4枚のうちひとつ。同じく「五光」という「最高役」を構成する5枚のうちのひとつだ。
もちろん、村田チャンピオンが「こいこい」の話などするはずもなく、この絵柄のもととなった逸話を彼が好んでいるというインタビューの内容を表現する画像として、テレビ局がもちだしたものだったのだろう。
小野道風とは平安時代の貴族。後に藤原佐理、藤原行成と合わせて「三跡」と称された書道家である。その逸話とはこうだ。
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道風が、自分の才能を悩んで書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰り返し飛び跳ねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。(『Wikipediaー小野道風』より)
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知らなかった。
わたしのあいも変わらずの浅学さはさておいて、念のため言っておくと、チャンピオンの視点は小野道風に向けられたものではなくカエルに向けられている。
「たまたま吹いた風」という偶然の恩恵を受けることができたのは、「飛び跳ねる」を繰り返していたカエルの姿勢があったゆえである。村田チャンピオンがこの逸話を好きだという理由はそこだ。インタビューのなかで彼は、アスリートとしての自分をそのカエルになぞらえて、コロナ禍のなか、試合がまったくできないという環境においても、資本である身体を劣化させないために努力をつづけなければならないというようなことを言っていた。
わたしは、花札の絵づらを見ながらながらこう思った。
その偶然に出会うカエルは数多くいるだろう。だが、「柳に飛びつける」という、物理的に考えるとムリな成果を得るには、その偶然を必然に変える営為が必要となる。それが「飛び跳ねるを繰り返す」である。それがない数多の蛙は、たとえその偶然に出会えたとしても、指を加えて見ているしかない。いや、それならば、まだマシなのかもしれない。そこには、あの偶然をどうやってものにするか、という思惑が生まれる可能性があるからだ。
ムリをその発想と行動の起点とするカエルたちは、「たまたま吹く風」が自身に有利なものになり得る可能性を秘めているということにさえ気づかない(たぶん)。
「柳に小野道風」
朝から、いい札をめくった。
「こんなのもまた、些細ではあるが、偶然を必然に変えるということなのか?」
自問し
「そんなことはあれへんやろ」
アタマをかいた。