人は歳をとります。そして老いていきます。その向こうには死があります。誰しもが避けようがないこの事実を、ぼくはようやく実感として認識できるようになりました。
現代日本における「老」をめぐる問題でもっとも切実なもののひとつが介護でしょう。その程度をあらわす指標として、「要介護度」があります。
といっても実感としてピンとくる人はそうそういないのかもしれません。そういうぼくも、その言葉自体はよく聞くにしても、くわしく説明せよと言われるとたちまち答えに窮してしまうにちがいないのですから、他人のことを言う資格はないのです。
ということで、きちんと調べてみました。
介護レベルや認定区分という呼び方をされることもあるそれは、かんたんにいうと「介護の必要性の程度をあらわす指標」、公的介護保険制度における要介護認定申請の際に判定される、いわば物差し、言い換えればランク付けで、具体的なレベルには要支援1~2、要介護1~5の7段階があり、支援・介護の必要がない「非該当(自立)」を含めると8段階に分けられます。
という知識を得てもらったうえで、さて質問。
まったく同じ介護を必要とする老人がふたりいました。ところがこのふたり、ひと目見て大いにちがう外観をもっていました。髪の毛の量です。片方はハゲ、もう一方はふさふさ。
さて、要介護度が高いのは、ハゲかふさふさか、いったいどちらの方でしょうか?
ちなみに、厚生労働省『要介護認定はどのように行われるか』によると、介護サービスの必要度(どれ位、介護サービスを行う必要があるか)の判定は、客観的で公平な判定を行うため、コンピュータによる一次判定と、それを原案として保健医療福祉の学識経験者が行う二次判定の二段階で行われているようです。つまり、「ハゲかふさふさか」を決めるのはコンピュータだというのが、この設問の前提です。
答えは・・・ふさふさです。
コンピュータによる要介護認定には「介護=手間」というロジックがあって、手間に要する時間が要介護度判定の基準となるため、ハゲに比べ手間がかかる「ふさふさ」は介護度が高いという理屈。言い換えれば、介護保険制度の目的(=家族の負担を軽減し、介護を社会全体で支えること)からすれば、ハゲの方がより歓迎されるという論理です。
といってもこれは、あくまでもロジック的にはそうなっているという話です。けっして日本社会での一般的観念としてふさふさより劣っているとされがちなハゲ(つまりぼく)の社会的地位を高めようという目論見などはございません。
つまり、経済とかビジネスの論理ではどうかということです。そこにおけるロジックで何より重視されるのは効率ですので、手間がかかるということはすなわち歓迎されざるものでしかないのです。
先日、かつて妻がとてもお世話になった人のもとを、ふたりで訪ねたときのことでした。その方はもう数年で九十の齢を数えます。今もなお現役美容師であるその方が、特別養護老人ホームにいる100歳を超えたお姉さんの髪をカットしてあげたそうです。ちょうどその髪型が、そのときの妻のヘアスタイルに似ているとのことで、「そうそうこのあいだね」と思い出したようでした。
つまり、100歳超えのお姉さんにとっては、すこぶる付きに「今風」のヘアスタイルを年の離れた妹がさずけてくれたわけで、それはもう、ゴキゲンこの上なくなったそうです。その比較対象として挙げられたのが他の入所者でした。
「他の人なんか、みんなおんなじで、七三みたいな、カッコわるい髪型なんだよ」
そう言って上機嫌だったというお姉さんの話を語る妹さんもまた、とてもよい笑顔をしていました。
かつての特養では、「特養カット」という、後頭部は刈り上げで少しばかりの前髪を残した、角刈りと見紛うような髪型が、男女を問わず流行していたそうです。おそらく今も、外見はそれほどではないにしても、効率を重んじて個性のない短髪にしているということは、本質的にはそれと変わっていないのでしょう。
といっても、そのことを批判しているわけではありませんし、門外漢のぼくにはその資格もありません。それに、たぶん致し方がないことなのだと思います。
ただ、一面識もないその100歳超えのお婆さんが、若やいだ髪型を与えられて子どものようにはしゃぐその姿を想像すると、こちらもなんだかうれしくなるとともに、姉妹の情の深さと「髪」という存在の大切さについて、ほのぼのと考えさせられたものでした。
その夜、ぼくはこんな夢を見ました。
道の先の小屋で、老人が眠りこんでいました。
うつ伏せになった老人を、少年がそばにすわって見守っていました。
老人は、つるつるのアタマがふさふさになった夢を見ていました。
「髪は女の命」と言いますが、男にとってもそれは同様でしょう。
ということでそこのアナタ、そのふさふさ、あだやおろそかにしてはなりませぬぞ。