ぼくがぼくをあらわす一人称は、ここでは「ぼく」ですが、会社や家庭ではちがいます。大まかに分けるとそれは、フォーマルあるいはオフィシャルには「わたし」で、カジュアルもしくはプライベートでは「オレ」、となります。つまり、「ぼく」という一人称は、ここだけで用いられる特殊なものなのです。
「わたし」については、それを使いはじめた頃の確たる記憶があります。社会人になってすぐのことです。当時の上司との会話のなかで自らを「ぼく」と称したぼくに、「それは社会人が使うものではない。私と言いなさい」と嗜めると同時に指導した7つ年長の彼の言葉にしたがって以来、ぼくは「私」になりました。
一方オレは、いつの頃からそうなったのか。これについては確かな記憶がありませんし、何か信念めいたものがあったわけでもありません。わかっているのは、どんどんとその頻度が多くなっていったこと。ということで今、プライベートのぼくは、ほぼ100パーセントをオレと称しています。
ただ、この現状については、いささか不満がないでもありません。じつを言うと、オフィシャルでもフォーマルでもプライベートでもカジュアルでも、ぼくはぼくのことを「ぼく」という一人称に統一したい。これが秘かなぼくの願いなのですが、さすがに二捨三入すれば七十となるこの歳になって「ぼく」とあらためるのは、色んな意味で気恥ずかしいものがあり、内に秘めたその願いが実現しないまま今日に至ります。
事ほど左様に、自らの一人称は生涯にわたって一様ではありません。そしてそれは、かつてのぼくが一瞬にして「わたし」に変化したようなドラスティックな例はめずらしく、成長するにつれ、少しずつ自然に変わっていくのが多いのでしょう。
先日、3人いるうちでもっとも年長の孫が、宿題を手にしてこう言いました。
「おじいちゃん、オレ、ここがわからんがやけんど」
彼がその一人称を使うのを聞いたのがはじめてだったぼくは(少なくともぼくの前では)、ドキリとして思わずまじまじと顔を見つめ、二秒ほどの沈黙のあとアタマを撫でてやりました。
たぶんなんのことかさっぱりわからなかったであろう彼は、なんだか気恥ずかしそうな顔をしたあと、「どうして?」と問いかけてきます。
対してぼくは、「うん、まーね」と、まともに答えず、心のなかでこうつぶやいたのです。
「よし、今日からオマエも仲間入りだ」