向田邦子講演録『言葉が怖い』を聴いている。
言葉が怖い 新潮CD (新潮CD 講演) | |
向田邦子 | |
新潮社 |
といっても、今朝出勤の車中で聴き始め、現場の行き帰りで聴きつづけているだけだから、全部を聴き終わったわけではない。
そのなかのひとつから。
菊池寛の、ある言葉が忘れられないのだという。
いわく、
人に小言を言うときは、嫌なことを先に言う。そして最後にいいことを言う。
たとえば、
「オマエは勉強はできないけども気立てはいいね」と言うべきだ。
それを、
「オマエは気立てはいいけど勉強はできないね」と言うと、あとのほうが結論になってしまって人の心に残ってしまう。
つまり、人にものを言うときは悪いことを先に言って、いいことをあとから言い、あと味をよくしなさい。
「へ~そうか。そういう考え方もあるんだ」と感心し、車を止め、そのくだりまで巻き戻して急ぎ書きとめたのは、たとえば子どもたちと相対するとき、わたしが努めて実践しているのと正反対の方法だったからだ。
理性的でいられる場合にかぎって、という但し書きはつくが、わたしは褒め言葉から入るように努めている。まず褒めて、そのあとで悪いところを言う。褒めようとする場合は、そんなことをことさらに意識せずともよいが、悪いところを注意する場合は、意識してそうするようにしている。なぜか。嫌なことを先に言われてしまうと、そのあとの意識がその嫌な言葉に左右され、聴く耳を持てなくなってしまうというわたし自身の体験からきている。あとで褒めてもその効果は半減してしまうと、これまでのわたしは考えてきた。
(あくまでも「努めている」ということなので、「やってることは違うじゃねえかよ」という指摘は受けつけません。悪しからず)
しかし、菊池寛の言葉にも「たしかに言われてみれば・・・」と納得させられるところがある。
「へ~そうか。そういう考え方もあるんだ」と感心したゆえんである。
してみればどうすればよいのか。
先に褒めるか。
あとで褒めるか。
あとで嫌なことを言うか。
先に嫌なことを言うか。
その対話が量的にどのくらいのボリュームをもって行われるか、で対応は異なってくるような気がする。褒め言葉と悪口の量的バランスにも大きく左右されるような気もする。
いくらなんでも、けなして、けなして、けなして、最後に褒める、では浮かばれなかろう。
であれば、褒めて、けなして、けなして、また褒める、という手もありだ。
また、「悪いところを注意する」つもりなのに、最後の褒め言葉だけを心に残されたのでは、本来の趣旨から外れてしまう。
と、つらつら考えて、今現在の結論も妙案もないままこの稿を置く。
なんのことはない。いってみれば、わたしの脳内に一石が投じられたことの報告のようなものである。
↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします
有限会社礒部組が現場情報を発信中です
発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。