答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

血が騒ぐ

2015年06月05日 | ちょっと考えたこと

 

「行きたいところがあったら送迎するので遠慮せずに言ってください」という主催者さんの申し出を丁重にことわり、向かった先は石橋記念公園。

勇躍ホテルを飛び出したのはいいが、外へ出てみると、ひどい降灰だ。

その洗礼に思わずひるんでしまった私だが、せっかくの梅雨の晴れ間だ。見逃す手はないと、JRに乗り込むべく鹿児島中央駅へ。

と、いきなり目に飛びこんできたのがクルーズトレイン「ななつ星in九州」。

鉄道マニアではない私のようなものでも、さすがにこの車体には少しばかり血が騒ぐ。

 

 

見とれる間もなく、すぐにやってきた国分行きに乗り込み、ひと駅先の鹿児島駅へ。

そこから約15分、歩行者など私以外見当たらぬ国道10号鹿児島北バイパスをえっちら歩き石橋記念公園到着。

さっそく迎えてくれたのがメインの西田橋だ。

 

 

う~・・・

これはこれは・・・

土木屋の血が騒ぐ。

 

 

 

精巧なミニチュアや工法の説明に、ますますもってテンションアップ。

遠足とおぼしき小学生の元気なあいさつに、うんうん良い子たちだとうなずき、負けじと大きな声で応えながら次へと進む。

「こんにちわ!!」

 

高麗橋。

 

玉江橋。

 

ふと案内板を見ると、「砲台跡」の文字が。

なんと記念公園のあるこの地、祇園之洲は、文久3年(1863年)7月に起こった薩英戦争で、薩摩藩側の攻撃に使用された砲台があったところだというではないか。

 

 

海のほうをながめ、維新の昔に想いをはせると、なんとはなしにイギリス艦隊の姿が見えてきて、見たこともないアームストロング砲から轟音を立てて爆弾が飛んできた。

ことほどさように歴史好きというやつは、な~んにもなくても「跡」というだけで、アドレナリンが身体じゅうにいきわたって興奮してしまうもの。

しばし時間の経つのを忘れたたずんでいたが、おのれに与えられたミッションを思い出し我にかえる。

残念ながら長居をする間がない。

来た道とは違う道をおっちら歩き再び鹿児島駅。

市電に乗って講演会場まで。



鹿児島。

この街は、なんとはなしに手が合う街だ。

降灰でざらざらするボウズ頭をなでながら、うんうんとうなずくオヤジなのである。



石橋記念公園(Wikipediaより)

 沿革[編集]

 1993年(平成5年)8月6日鹿児島県集中豪雨(8・6水害)による洪水のため、島津重豪の命で作られ現存していた玉江橋(たまえばし)、新上橋(しんかんばし)、西田橋(にしだばし)、高麗橋(こうらいばし)、武之橋(たけのはし)の「五石橋」と呼ばれる石橋群の内、「武之橋」と「新上橋」が流失し、他の三橋も甚大な被害を受けた。

 この後、橋を洪水のない場所に移築するか、原状回復するかで大問題となったが、結局、残った三橋は別の場所に移築することとなり、2000年(平成12年)に石橋記念公園として開園した。橋の移築問題は交通・河川整備と史跡保護の兼ね合いの難しさを証明する出来事となった。

 

概要[編集]

 公園は稲荷川の河口、国道10号鹿児島北バイパスに面したところにあり、かつて島津斉彬の命により築かれた「祇園之洲砲台」を利用して造られている。

 記念館に一番近い場所にあるのが「西田橋」で、鹿児島城に最も近い場所にかけられ、参勤交代で藩主が利用する橋だったため5橋の中で最も費用を要した橋と言われている。西田橋を渡り、稲荷川にかかった普通のコンクリート橋を渡って見えてくるのが「高麗橋」で、後に多くの倒幕志士を輩出した下級藩士が多く住んでいた加治屋町と高麗町を結んでいた橋であった。一番海岸側に移築されているのが、実際には一番山側に架けられていた「玉江橋」で、残った3橋の中で最も建築当時の姿を残していると言われる。

 また、高麗橋の袂には、五石橋を造った肥後の名石工・岩永三五郎の像が建立されている。


 

 

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