16.
《私》(自我)の第三の「かたち」(ゲシュタルト)によって、
人間の霊界における自立性が洞察されるようになる。
この洞察は、次のような感覚を呼び覚ます。
「人間の地上的・感覚的な本性は、
人間が現実には何であるか、ということを開示するものにすぎない。」
これによって真の自己認識の出発点が与えられる。
なぜなら、人間をその真実において形成する自己が
認識に対してみずからを開示するのは、
人間が「私」の思念からその形象へ、
その形象からその形象を生み出す力の作用へ、
そしてそこからそれらの力の作用を担う存在たちへと歩みを進めたときだからである。
(訳・入間カイ)
16. Die dritte Gestalt des «Ich» gibt die Einsicht in die selbständige Wesenheit des Menschen innerhalb einer geistigen Welt. Sie regt die Empfindung davon an, daß der Mensch mit seiner irdisch-sinnlichen Natur nur als die Offenbarung dessen vor sich selber steht, was er in Wirklichkeit ist. Damit ist der Ausgangspunkt wahrer Selbsterkenntnis gegeben. Denn jenes Selbst, das den Menschen in seiner Wahrheit gestaltet, wird sich der Erkenntnis erst offenbaren, wenn er vom Gedanken des Ich zu dessen Bilde, von dem Bilde zu den schöpfenden Kräften dieses Bildes, und von da zu den geitigen Trägern dieser Kräfte fortschreitet. (Rudolf Steiner)
この第16項にいたって、
「真の自己認識の出発点」が示されます。
これまでに見てきたように、
私たちは普段の生活のなかで、なんとなく「自分」という意識をもっています。
この「自分という意識」は、
私たちが日常生活のなかで、鏡に映った自分の姿をみたり、
せっかちだったり、のんびりしていたり、
怒りっぽかったり、落ち込みやすかったりする自分をみて、
なんとなく「自分はこういう人間だ」と思っているものです。
それがシュタイナーのいうところの「《私》の思念」です。
そこに見えているのは、「地上的・感覚的な本性」です。
つまり、この「地上」(地球上)を、「感覚」を働かせながら
(いろいろな感じ方をしながら)生きている自分のことです。
ここで重要なのは、この「地上的・感覚的本性」は
「本当の自分」ではないと言っているのではない、ということです。
この日常の自分のあり方は、
自分という「人間は現実には何であるか」ということを「開示」するものなのです。
シュタイナーの「開示するものにすぎない」という言い方は、
自分の普段のあり方をみて、自分は所詮この程度のものだと決めつけたり、
あるいは反対に、普段の自分のあり方を否定したりするのではなく、
普段の自分のあり方を手がかりに、真実の自己へと到ることができる、と示唆しています。
そして、シュタイナーは、
私たち一人ひとりが普段、何気なく感じている「自分」は、
「生命体」(エーテル体)のなかに働く《私》の反映にすぎない、と述べています。
本当の「自己」なるもの、もしくは人間の「真の《私》」は、
生命体のなかで人間の「形象」をつくりだしています。
人間が今あるような姿形をしていること、
一人ひとりがそれぞれの個性をあらわす体型をしていて、
その「かたち」が時間とともに成長したり、衰えたりして変化しながらも、
ひとつの原型をずっととどめているのは、
そこに《私》が働いているからです。
この《私》の働きが、
「アストラル体」(感覚体)における《私》の作用です。
つまり、この第16項で「形象を生み出す力の作用」と呼ばれるところです。
アストラル体は、惑星領域とつながっています。
ちょうど占星術で、黄道十二宮のなかの星々の位置によって、
一人ひとりの個人の運命が読み解かれていくように、
アストラル体における《私》は、
自分はこの地上でどのような「運命」を担い、
未来に向けて何を目指して生きるか、その「意志」を働かせます。
つまり、私たち一人ひとりの姿形や体型、
さらには私たちの「体質」や「気質」といったもの、
身体のなかに刻み込まれたさまざまな傾向や素質、
病気や健康とかかわる一切のもの、
―それをシュタイナーは「形象」として表現するのですが―
そこには、《私》の運命や、未来に向けての意志がかかわっているのです。
それが、「形象を生み出す力の作用」です。
しかし、シュタイナーはそこではとどまらずに、
「それらの力の作用を担う存在たち」に目を向けます。
ここで重要なのは、
「存在たち」というように複数形になっていることです。
健康や病気を含め、自分に「運命」として向かってくるものは、
単一ではなく、無数に存在します。
そのなかには、「これは明らかに自分が招いたことだ」と感じられるものもあれば、
「なぜ自分がこのような目にあうのだろうか」と
どうしても納得がいかないものもあるでしょう。
それらをすべて「自分の修行のため」と自分に言い聞かせることもできますが、
すべてを「自己」として括るだけでは、
運命を正確に理解することにはなりません。
シュタイナーは、そこでそれらの運命の作用を担っている
「存在たち」を意識するように示唆しています。
それらの存在たちは、「自分」ではありません。
しかし、自分もまた、それらの存在たちと同じ、ひとつの独立した存在なのです。
それが「霊界における《私》の自立性」です。
もちろん、何よりも大切なのは、
自分自身が主人公であることを自覚することです。
そして、すべてが「ひとつにつながっている」ことも確かです。
しかし、シュタイナーが提示したアントロポゾフィーのひとつの特徴は、
「すべてはいずれ一なる全体のなかに還る」とするのではなく、
すべては「一」でありながら、
私たち一人ひとりの《私》は、どこまでも「個別の私」でもありつづける、
と点をつらぬいているところにあります。
つまり、ゲーテのいう「一にして全」ということ、
一人ひとりの「私」はどこまでも「個」でありながら、
同時に、すべての人間は「普遍の私」を共有しているということ、
つまり、「個別の私」と「普遍の私」という
人間の最大の「謎」を抱きつづけているということです。
そして、このことが、
一人ひとりの《私》が、一個の自立した霊的存在としての自覚をもちながら、
霊界において、他の霊的存在たちに向き合う可能性につながります。
そのとき、私は「運命」に翻弄されたり、ただそれを受け入れるのではなく、
一個の霊的存在として、
それらの運命の作用のなかに働くさまざまな霊的存在に
「対等」に向き合うことになります。
そのとき、
ちょうど芸術行為のなかで、
人間が素材に向き合い、その素材に働きかけることによって、
まだこの世に存在していなかった、まったく新しいものを作品として生み出すように、
一人ひとりの《私》は、
自分に向かってくるさまざまな運命の作用に向き合い、
それを素材として、そのなかから、この地球上にまだ存在したことのない、
まったく新しいものを生み出すことができます。
それをシュタイナーは「人生芸術」と呼びました。
そして、そこに神々が一人ひとりの人間に託した可能性があるのです。
シュタイナーのいう「自己認識」への道は、
そのような可能性に向かって一歩一歩近づいていく道であろうと思います。