腐った林檎の匂いのする異星人と一緒６
～拾い食い
誰が決めたか、七秒ルール。落ちた食い物でも、七秒以内に拾えば、食える。大丈夫。このルールを破れば異星人と呼ばれる。覚悟せよ。
月夜。
左手は缶コーヒーをしっかりと掴んでいた。中指と薬指はドーナツの袋の端を挟んでいた。右手は財布をしまうのに忙しかった。
尻がガードレールに載る。目に缶が映った。缶だけだ。上体が固まる。
左手は、なぜ、こうも頑なに缶を握り締めているのだろう。肘が尖る。中指と薬指は、接着剤でくっついているみたいだ。指の感じが脳に届かない。背後を自動車が通過した。耳の穴をその音が塞いだ。風をうなじが受けた。
路上に何かが落ちていた。落ちている。置いてあるのではない。落とし物。僕が落とすはずはない。だって、こんなにも強く握り締めているのだ。握り締めて歩いて来たのだ、ここまで、店の前から、ずっと。
足元の物体、すなわちドーナツ、透明の袋に入ったドーナツ、白い文字で商品名が書いてある透明の袋に入ったドーナツ、何度も目にした商品、自分が購入したものとして、あるいは他人が購入したものとして、物心ついて以来、何度も目にしてきた商品。それが未知の物体、そう、物体Ｘとして落ちている。物体Ｘの、そのＸのみが眼球を貫き、脳に入り込む。路上に残された物体は、死骸のようだ。Ｘが鍵となり、記憶の扉の鍵穴に刺さり、捻った。扉が開く。鳩の死骸。鼠の死骸。猫の死骸。母の死骸。透明の袋に入った人間。その袋に白い文字で何か書いてあるが、読めない。
ドーナツの死骸。
おお。かわいそうな子どもたちよ。ドーナツの死骸さえ、口にできないのですね。死骸のような裸。今にも死んでしまいそうな、生きているのが不思議なくらいの裸。肋骨の浮き出た、凹んだ胸。細すぎる上腕。膝から下をなくした脚。何かを訴えるのではないぎょろ目。何の死骸かわからない、ぐちゃぐちゃの粘土みたいな物を白い指で口に押し込まれている。蠅が顔に集り、鼻の穴まで覗き込む。私たちはこの現実から目を逸らしてはなりません。今日は食べられました。明日は、どうでしょう。明後日となると……。おお、失礼しました。思わず感情的になってしまいました。
無声のカウントが始まっていた。ワン。ツー。スリー。ああ。フォー。尻がずれた。ファイブ。シックス。動かない。視野が狭まる。セブン。時間切れ。拾った。エイト。万引きでもしたみたいだ。はあはあ。下手に袋を破り、物体Ｘに、ナイン、噛みついた。Ｘは無味。口は満杯。コーヒーで流し込む。噎せた。テン。背中をガードレールが擦られる。ずるずる。ぺた。見知らぬ人々の横顔が星のない夜空を背景に通り過ぎる。揺れながら滑る。ごっくん。ふう。
誰かが見ていた。きっと誰かに見られていた。ルールを守れない少年少女は許されない。
逃げる。夜道を走る。月は、犬の耳のように尖る。それは二個あって、どちらが本物か、わからない。ざくざく。カツカツ。ぼたぼた。とんとんとん。ギーッ。
深夜の教室。
「人は様々なのよね」
島本公子が偉そうに宣言している。繰り返し、繰り返し。「様々」と言うとき、上下に手を振る。そのたびに中指が伸びる。ぐんぐん。
「美化！」
中林政治が茶化す。三つの目から違う色の光線が異なる方向へ発射される。ビカビカビカ。
笑いすぎて口から飛び出した心臓を、寺井晴美が恥ずかしそうに呑み込む。ごっくん。えへへ。
佐々木理は「ウーウー」とサイレンの音を真似て旋回し、蠍に戻る。
鳳翔子は、背中の羽を広げてホバリングしながら、難しそうな本を読んでいる。
高名寺佳代は、窓の外に浮かぶ専用ドラゴンに乗り込み、飛び去った。
色とりどりのガラス玉が床に広がっていて、弾いて遊ぶ、角川聡志は角で、尾藤照江は尻尾で。ジャンヌは加わらない。
透明な袋の中で目を閉じてじっとしている、ずっと前から、誰かが。もう、誰でもない誰か。
（終）
