腐った林檎の匂いのする異星人
3 サイキサイクル ②
時を越えたみたいだ。いつの間にか、階段を上り終えていた。
見下ろすと、やけに高い。めまいがしそう。普通だと、途中に踊り場がある。急な狭い階段を、手すりに頼らず、それを避けるようにして上ったのだろう。壁に肩を擦り付けていたような気がする。でも、壁の記憶はない。想像はできる。夢のようでもある。途切れがち。
店内は吹き抜けで、二階は天井からぶら下がったみたいになっている。確かなことはわからない。上るとき、ちゃんと見ていなかった。
扉の前で息を整えた。叩いたら、ガタガタと反動がひどかった。中から反応はない。ノブは空回り。よく見ると、ドアでなく、引戸だ。
戸を後ろ手で閉めていた。開けたときの記憶が、ぼやっとしている。半畳もない上り口に、何足か、靴が置いてある。客が何人も来ているみたいだが、だったら、どうなのか。楽か。苦か。
昼間なのにカーテンが閉めてある。狭い和室。物があちこちにある。それらのどれもが壁にくっついていない。中央に丸い物がある。それがサイキだろう。彼は僕が来たのを知っているはずだ。知っていて、わざと振り向かない。そっと近づいた。近づかれていることを知っているはずだ。頭にヘッドホンが挟まっている。それを外してやった。彼はゆっくりと振り向き、「やあ」と言った。僕も「やあ」と言った。ヘッドホンを自分の耳に当てた。バンドは顎の下。
影の残骸のようなものが部屋の隅に漂っている。そちらを見たくなくて、目を瞑った。だんだん、自分が自分ではないような気がしてくる。誰かの真似をしているみたいだ。誰かに教わった通りにやっているみたいだ。今いる場所とは少し違う場所にいるみたいだ。実際よりも数秒先にいるみたいでもある。
ヘッドホンからは何も聞こえてこない。いや、耳を澄ますと、耳鳴りのような微かにうねる音が聞こえてきた。ジャングルの音だろう。南米のジャングル。そこに何かがいて、蝶か何かがいて、羽を閉じている。地味な色。その虫は毒々しい赤い花びらに留まっている。爪のような花びらが並ぶ。食虫植物か。あっ、蝶が羽を広げた。危険を感じたのか。輝く青。
音が消えた。ヘッドホンを奪われたのだ。少し遅れて蝶が飛び去った。
サイキの顔が迫っていた。彼はニタアッと笑った。
サイキが部屋を出た。僕は不必要に長い時間をかけて部屋を出た。
等身大の福助が、本物の、つまり、本物の人形の福助が、階段の下に鎮座していた。
サイキにどことなく似ている初老の男が、明日の午後に自転車を取りに来るようにと告げた。その人がサイキの親爺だと思ったあの人なのか、どうか、はっきりしない。
「ヨーコさんの知り合いだって?」
「はあ」
「どういう?」
「母の、ええっと」
逃げた。店の外でサイキが呼んでいるというふうを装う。
毒茸はなかった。
外で、彼は軽くジャンプをしていた。僕が出てきたらしいと感じ、走り出した。追うしかない。
彼は、曲がり角の自動販売機の前でもジャンプをしていた。買うのかと思ったが、買わない。買わせたいのか。缶コーヒーの同じものを二本買って、一本を差し出した。彼はそれをよく見もせず、さっと奪い、先に開けて、グビグビ、飲み始めた。僕も飲んだ。なぜか焦ってしまい、噎せそうになった。妙に甘かった。眠くなった。
自販機の前で、通る車を見ていた。他に見る物がなかった。サイキの顔を見たくなかった。いや、見るべきではないように感じていた。
うちのクラスには「困ったときのサイキいじり」というマナーがある。だが、二人きりだと、いじりはできない。
白い犬が寄って来た。犬は置いてあった缶コーヒーに鼻を近づけ、倒した。中身が数滴出て、それを舐めた。サイキは犬にいやらしいことをした。犬は僕の方を向いて口を半開きにした。目はギョロギョロ。自分の意思とは無関係に動くようだ。
二人で河原を歩いた。犬が離れて付いて来ていたが、いつの間にか、いなくなった。僕はヨーコさんの話をした。ヨーコという名は出さない。
あの人は椅子に浅く掛けて転寝を始めた。僕は畳の上に坐っていた。あの人の脚が徐々に開いた。白いミニのワンピース。病院の人みたい。その裾が徐々にずり上がる。パンティは見えない。見たくはない。でも、まだ見えていないということを確かめたかった。
「死ね」と、サイキが吐き捨てるように言った。
聞こえないふりをして、「お兄さん、いる?」と聞いてみた。彼は黙って首を振った。「いない」という意味だろうか。「いるけど、兄の話はしたくない」という意味にも取れる。
数秒後、「みんな、死ね」と、彼が叫んだ。聞こえないふりは無理だった。「死ね」と、僕は小さな声で言った。疑問とも取れるような言い方。「おまえもな」と、彼が遠くを見たまま言った。「おまえ」が誰なのか、わからない。
「異星人、知ってる?」
「ふん」と、彼は乾いた息を漏らした。ちょっと間があって、二度首を縦に振り、それから思い出したように大きく一度だけ横に振った。丈の高い草を払うような仕草。実際、そこらに芒が生えていたが、間近にはなかった。
あまり広くない川の真ん中に土が溜まっていて、それは赤かった。赤土よりも赤い。そこに白い鰐がいた。鰐は立っていた。脚で立つのではなく、尻尾で。誰かが鰐を羽交い絞めにして立たせているみたいだ。鰐は苦しんでいるが、抵抗できない。淡い影のような人体が鰐の背骨を折った。キャーという叫び声が響き渡った。その叫び声が鰐のものなのか、どうか、わからない。影の声かもしれない。工場のサイレンのようでもある。サイキの声のようでもある。僕の頭の中の声かもしれない。キーンの進化。いや、正体。そんな反省をしていたら、鰐は消えていた。影は残ったが、ぼやけて薄れて見えなくなった。
サイキにも鰐が見えていたようだ。影も見えていたろうか。
二人は立ちあがった。
自販機の前に戻り、彼は「学校、どうしようかな」と呟いた。独り言のように聞こえなくもなかったので、独り言だと思うことにした。
軽く会釈して、僕はサイキサイクルとは反対の方向へ歩き出した。家のある方向とも違う。
何か言わなければならないような気がして、数歩戻った。
「パンクね」
「うん」
「あれ、異星人の吹き矢」
「ふん」
「知ってた?」
「よくある話」
悟ったような表情を僕の目の中に残し、サイキは離れていった。
小さくなっていく背中に僕はピストルを向けた。指で作ったピストル。
パン!
倒れなかった。指先から上がる硝煙をわざとらしく吹きやる。青い蝶が飛んできて、夕空を向いた指に留まり、何かを教えたそうに羽を開閉してから飛び去った。
サイキは数日で死ぬはずだ、絶対。だって、異星人がくれたピストルなんだ。
ヨーコさんはパンティを穿いていなかった。
(終)