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夏目漱石を読むという虚栄 1150

2021-01-23 14:43:10 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1150 「恐ろしい影」

1151 もう一人の自分

 

先に進む前に、言葉に関する次のような俗説を検討しておかねばならない。

 

<「もう一人の自分」は、外から自分のなかへ入って来たのではなく、現実の自分がかたちを変えて分離したのですから、現実の自分の体験や能力を生かして活動するしか方法がありません。夏目漱石の小説『吾輩(わがはい)は猫である』を読むときには、「もう一人の自分」は猫にならなければなりませんが、これもかたちだけの猫で、実際に猫になったのでは文章を読むことさえできません。それゆえ、現実の自分が幼ければ、「もう一人の自分」が大人になったとしても、それはかたちだけの大人でしかありません。現実の自分が成長するにつれて、「もう一人の自分」も成長していきます。また、与えられた作品を「もう一人の自分」として体験したり知識を身につけたりした場合にも、それはつぎに現実の自分にひきつがれ、現実の自分を成長させることになります。こうしてすぐれた芸術は、追体験によって現実の私たちの成長に役立つのです。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

「もう一人の自分」とは、〈自分を客観視する意識〉を人格化したものだろう。私は、これを〈〉と書く。〈dareka〉の頭文字。「かたちをかえて」は意味不明。

「実際に猫になった」は意味不明。主人公の「猫」なら、字が読めるはずだ。『吾輩は猫である』の読者は、語り手ワガハイにとっての聞き手に擬態すべきだろう。しかし、その聞き手の像は不明。ワガハイが誰に向かって言葉を発しているのか、まったくわからない。

「もう一人の自分」は「成長して」いかないかもしれない。退行するのかもしれない。

何をもって「すぐれた芸術」と判定するのか。「追体験」は意味不明。「還元的感化」(N『文芸の哲学的基礎』)の一種らしい。

 

<他人の体験を、作品などを通して自分の体験として生き生きと、とらえること。

(『日本国語大辞典』「追体験」)>

 

この説明も意味不明。「他人」とは誰か。作家先生か。語り手か。作中人物か。

作家の創作体験の「追体験」をすることが「成長」に役立つことがあるとしても、逆に退行してしまうことだってあるかもしれない。危ない。

 

<誤記憶は実際の経験が歪曲、改ざんされて、異なって追想されるもので、多くは記憶減退を伴っている。偽記憶は事実としては存しなかったことが実際あったとして追想される場合をいう。

(『精神科ポケット辞典 新訂版』「記憶錯誤」)>

 

『ドグラマグラ』(松本俊夫監督)や『シャッター・アイランド』(スコセッシ監督)参照。ついでに『メメント』(ノーラン監督)も。

 

 

 

 

 

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1150 「恐ろしい影」

1152 さもしき玩具

 

文学に関する眉唾の俗説を、教師根性の持ち主は真実のように語る。

 

<石川啄木の短歌に

 ふるさとの山に向ひて

 言ふことなし

 ふるさとの山はありがたきかな

というのがあります。昔、私の仕事仲間に、この歌がすきで、いつも口にしている男がおりました。自分も、少年のときに友だちと遊んだふるさとの山が、目にやきついていて忘れられないと、話していました。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

三浦は〈おれの啄木が盗まれちまったぜ〉みたいに思って悔しかったのだろう。

 

<話されたり書かれたりしたことばの意味は、その話し手や書き手の体験から成立しているのですから、ことばの後にかくれている具体的なありかたまでふくめてとりあげなければなりません。啄木の歌ならば、岩手県岩手郡渋(しぶ)民(たみ)村で育った石川一(はじめ)の見た山として、具体的にとりあげなければなりません。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

「体験から成立して」の「成立」は怪しい。「体験」がないと「ことば」の「意味」は知れないのか。そんなことはない。逆だ。似たような「体験」をしたことがない人に情報を伝達することができなければ、表現は無駄。「ことばの後ろ」は〈眼光紙背に徹する〉を踏まえているつもりか。だとしたら、くだらない。「具体的なありかた」は他人に知れない。

「石川一(はじめ)の見た山」が他人に見えるはずはない。特定の「ふるさと」を想像させたければ、歌人は固有名詞を使ったろう。彼は、歌の中の「ふるさとの山」と人々の「ふるさとの山」の混同を、むしろ望んでいたはずだ。この歌は、その程度のおセンチなものだ。もっとお粗末かもしれない。

 

ふるさとの人に向かひて言ふことなし ふるさとの人はありがたくなし

 

短歌は早熟なハジメちゃんの「具体的なありかた」を隠蔽するためのさもしき玩具だった。

 

<ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために、使われています。人間の心のはたらきについてよく理解しないと、ことばの謎は解けないはずです。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

「人間の心のはたらきについてよく理解し」ていたら、「ことば」なんか、要らないよ。

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1150 「恐ろしい影」

1153 「自分の頭がどうかしたのではなかろうか」

 

「もう一人の自分」つまりが自問自答の相手として有効に働いてくれる場合はある。しかし、侵入者のように錯覚されることもある。

 

<私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃(ひら)めきました。初めはそれが偶然外(そと)から襲って来るのです。私は驚ろ(ママ)きました。私はぞっとしました。然ししばらくしている中(うち)に、私の心がその物凄(ものすご)い閃めきに応ずるようになりました。しまいには外(そと)から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるものの如(ごと)くに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑(うたぐ)って見(ママ)ました。けれども私は医者にも誰にも診て貰う気にはなりませんでした。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十四)>

 

「その時分」は、〈静とSの関係がSには修復不可能のように思われだした「時分」〉だろう。「恐ろしい影」は、「もう取り返しが付かないという黒い光」(下四十八)の再来らしい。これが成長して「恐ろしい力」(下五十五)になり、やがて口を利くようになる。一方、Sの気分は萎縮し、混乱する。「閃(ひら)めき」は〈ちらつき〉と解釈する。「閃(ひら)めきました」は、「その時分から時々」に呼応させるには、〈「閃(ひら)め」くようになり「ました」〉などが適当。

「初め」は〈「初め」の頃〉などが適当。「偶然」ではなく、必然かもしれない。「来るのです」は、「初めは」に呼応させるのなら、〈来ていた「のです」〉などが適当。

「しばらく」の長さを想像することはできない。数秒か、数分か、数日か。「しばらく」何を「している」のか。

「しまいには」の結びだから、「思われ出して来たのです」の「出し」は不適当。「如(ごと)く」だから、実際には「自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもの」ではないようだ。真相は一つしか考えられない。「恐ろしい影」は、「偶然外(そと)から襲って来る」のでもなく、「生れた時から潜んでいるもの」でもなく、〈ある刺激に反応して生じる「もの」〉だろう。その刺激とは孤立感などだろう。淋しくて「影」を呼び出ししまうのだ。

「誰」に相当するのは、「診て」を考慮すれば、易者などだ。「医者」に相談する場合、「恐ろしい影」は科学系の幻覚などだ。易者などに相談する場合、「恐ろしい影」は呪術系の霊魂などだ。「恐ろしい影」がSの「外(そと)」に存在するのなら、『こころ』は怪談だ。「胸の底」に潜んでいるのなら、『こころ』は心理小説だ。作者は何をしているのだろう。

 

<よくみられるものに「思路弛緩(しろしかん)があります。話が徐々に別の話題へそれていったり、唐突に別のことを言いだしたりします。重症になると、他の人にはまったく話の意味が理解できない「滅裂思考(めつれつしこう)」になります。

(『家庭医学大事典』「統合失調症」)>

 

語られるSの心理状態がどうなっているのか、よくわからない。だが、語り手Sの思路はかなり怪しくなっている。実際に怪しいのは、作者だろう。

(1150終)

(1100終)

 

 

 


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