夏目漱石を読むという虚栄
はじめに
~文豪伝説の終わりのために
夏目漱石の『こころ』は意味不明だ。
長い間、私はこのことを秘密にして生きていた。恥ずかしかったからね。怖くもあった。今でも怖い。『こころ』を理解できないと公言するのは罪みたいだからだ。「天に代って誅戮(ちゅうりく)を加える夜遊び」(夏目漱石『坊っちゃん』十一)の標的にされそうな気がする。
『こころ』に含まれた言葉の多くの意味が、私には理解できない。どうしたら理解できるようになるのか、見当もつかない。だから、努力のしようもない。
私が〈意味〉と言っているのは、普通の意味だ。創作の動機や作品の文学史的価値などのことではない。たとえば、書き出しの文に含まれた「先生」の意味がわからない。
『こころ』の意味が知りたくて、論文などを少しばかり覗いてみたが、無駄だった。『こころ』と同様、私には意味不明だったからだ。辞書さえ役に立たないことがあって、『こころ』に含まれた意味不明の語句を調べると、それそのものが引用されていて、しかもその説明では納得できない、なんてことが決してまれではないのだ。
古典には全注釈といったものがある。『こころ』にもそんなものが必要だと私は思うのだが、ほとんどの人は思わないらしい。文豪がその言葉にこめた深遠な哲学などを理解するのは無理だとしても、表面的な意味ぐらい、楽に読み取れるらしい。本当だろうか。
普段は漫画かライト・ノベルみたいなものしか読まない普通の中高校生が読書感想文を書かねばならないことになって、有名だからというだけの理由で『こころ』を読み出したら、抵抗なくすらすらと読めて、知らない言葉が出てきても前後関係から簡単に意味が推定できて、段々面白くなってきて、ちょっとばかりぐっときて、誰かに自分の気分を伝えたくなって、さらさらと感想文を書きあげ、臆せず提出し、それを文学の専門家ではない教員がざっと読んでさっと採点し、生徒はその点数を見て納得する。
なんてことは、お芝居としか思えないのだよ!
なんて指摘は野暮なのであって、お芝居だってことぐらい、みんな、百も承知で、意味不明の言葉に出会っても慌てず騒がず、にっこり笑い、〈一応わかります〉と爽やかにご返事ができたとき、日本では一応一人前と認められることになっていて、そんな忖度ごっこの演技力が〈コミュ力〉などと呼ばれているのかもしれない。意味不明だからこそ、『こころ』は〈コミュ力養成ギブス〉として重宝されてきたのかもしれない。
日本人は、なぜ、『こころ』を読むのか。いや、読めたふりをするのか。虚栄のためだろう。倫理的な人間を装うためだろう。だが、意味不明の倫理など、ありえない。
いつからか、私の周囲には意味ありげなだけで確かな意味のない文言が汚れた大気のように広がっていた。このグレー・ゾーンを作り出す汚染源の一つとして、私は『こころ』を再発見したのだ。二十数年前のことだ。それまでは、読み返すどころか、本屋で背表紙を目にするのさえ不愉快だった。図書館ではナ行の棚を避けがちだった。
〈『こころ』には確かな意味がある〉とされる社会は変だ。〈『こころ』には確かな意味があるとされる社会は変だ〉と公言できない私は変だ。〈『こころ』はわかりやすい〉といった類の伝説を処理しないことには、何を聞いても読んでも誤解してしまいそうだ。何を言っても書いても誤解されそうだ。そんな気がして『こころ』批判を始めた。ところが、うまくいかない。この先、何年やっても、うまくいきそうにない。
(終)