夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6400 どこへも行けない『行人』
6430 「露骨に云う事」
6431 「義侠(ぎきょう)心(しん)」
「略奪婚の先に幸せはあるのか?」(新潮文庫版『門』裏表紙)の「略奪婚」は誤用だろう。ちなみに、平成の俗語では、女が既婚の男に離婚させて自分と再婚させることらしい。
<その他多くの慣行が、想像力にとむ著述家によって掠奪婚の残存とみなされてきた。たとえば、花嫁を抱き上げて玄関の敷居をまたぐこと、花嫁にヴェールをかけること、結婚式のときに指輪をはめること、旅にでかける新郎新婦めがけて靴を投げること、舅姑に対する〔夫の〕回避(アポイダンス)、あるいはまたハネムーンの間「新郎が自分の花嫁を彼女の親族や友人から隔離しつづける」ということ――である。
(E・A・ウェスターマーク『人類婚姻史』「第五章 掠奪婚」)>
私は「想像力にとむ」人々の拵えた物語を探しているところだ。実証不要。
<「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」
平岡は茫然(ぼうぜん)として、代助の苦痛の色を眺めた。
「その時の僕は、今の僕ではなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶(かな)えるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。今位頭が熟していれば、まだ考え様があったのだが、惜しい事に若かったものだから、余りに自然を軽蔑(けいべつ)し過ぎた。僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分の為ばかりじゃない。実際君の為に後悔している。僕が君に対して真(しん)に済まないと思うのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいにやり遂げた義侠(ぎきょう)心(しん)だ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこの通り自然に復讎(かたき)を取られて、君の前に手を突いて詫(あや)まっている」
(夏目漱石『それから』十六)>
どっちが「前」か、誰にわかろう。
「苦痛の色」は意味不明。
「未来を犠牲に」は意味不明。
「それ」の指す言葉はない。
「頭が熟して」は意味不明。
「若かった」というが、「三年前(ぜん)」(『それから』十六)だ。〈気が「若かった」〉の略か。
「義侠(ぎきょう)心(しん)」は男色文化の美徳。「男伊達」(『日本国語大辞典』「義侠」)だ。「世間体」(下四十八)や「明治の精神」などの類語だろう。騎士道精神とは異なる。
「自然」は意味不明。真意は〈被愛妄想的気分〉か。
「宿仲間」では嫁候補を共有する「義侠(ぎきょう)心(しん)」の風習があった。いや、そうした妄想を二郎は抱いていて、しかし、それを明瞭に自覚することができなかったのではないか。
二郎は、二人の女が欲しかった。「あの女」は「母」の「若い影」のような女で、「看護婦」は母性的かもしれない女だ。前者は静に相当し、後者は静の母に相当する。Sは「宿仲間」に仕立てるためにKを下宿に連れ込んだ。その真相を語り手Sは隠蔽している。
6000 『それから』から『道草』まで
6400 どこへも行けない『行人』
6430 「露骨に云う事」
6432 「色情狂」
三沢は「精神に異状がある」(「友達」三十三)という女性について語る。
<「君に惚(ほ)れたのかな」と自分は三沢に聞きたくなった。
「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解(わか)る筈(はず)がないさ」と三沢は答えた。
「色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな」と自分は又三沢に聞いた。三沢は厭(いや)な顔をした。
「色情狂と云(ママ)うのは、誰にでも枝垂(しなだ)れ懸るんじゃないか。その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て、早く帰って来て頂戴ねと云うだけなんだから違うよ」
「そうか」
自分のこの時の返事は全く光沢(つや)がなさ過ぎた。
「僕は病気でも何でも構わないから、その娘さんに思われたいのだ。少く(ママ)とも僕の方ではそう解釈していたいのだ」と三沢は自分を見詰めて云った。
(夏目漱石『行人』「友達」三十三)>
「色情狂」は意味不明。
「解釈して」は意味不明。
<性愛行動には、年齢、性別、時代、地域による個人差があり、正常・異常の区別は困難な場合がある。時には犯罪と関係することがある。
(『百科事典マイペディア』「異常性欲」)>
三沢は自分の被愛願望を満たせるような「解釈」をしたいのだろう。ちなみに、〈被愛妄想〉は「色情狂と訳されたこともある」(『ブリタニカ』「被愛妄想」)という。
「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」
三沢の口元には解ったろうと云(ママ)う一種の微笑が見えた。
(『行人』「友達」三十三)
こうして「性の争い」は終止符を打つ。不可解。私の読解力では、どうにもならない。
三沢は二郎に「嫉妬(しっと)」をしていなかったのか。三沢が「嫉妬(しっと)」をしないのなら、二郎も「嫉妬(しっと)」をしないのか。「看護婦」に対する二郎の「興味」は演技だったのか。
<自分は「あの女」の為に、又「その娘さん」の為に三沢の手を固く握った。
(『行人』「友達」三十三)>
何の話か、全然、わからない。二つの「為に」が意味不明。
6000 『それから』から『道草』まで
6400 どこへも行けない『行人』
6430 「露骨に云う事」
6433 「物を偸(ぬす)まない巾着(きんちゃく)切(きり)」
三沢に関する話は不意に終わる。彼が被愛願望を吐露したからか。
<彼の正義感は、葉隠四誓願の一つであり、そのまま校訓の一つともなっていた「大慈悲」の精神と結びついていて、彼をして、半ば無意識のうちに「愛せられる喜び」から「愛する喜び」へと、その求める心を転ぜしめていた。
(下村湖人『次郎物語』第三部「一運命の波」)>
「彼」は次郎。次郎が「半ば」意識したのは、彼の不幸が「半ば」だったからだろう。
<幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』「第2章 愛の理論」)>
被愛願望は、被愛妄想と被害妄想の混交だ。
<おれは物を偸(ぬす)まない巾着(きんちゃく)切(きり)みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭になる事さえあったのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十二)>
「物を偸(ぬす)まない」の含意は〈愛を奪う〉だ。盗みは「罪悪」だから「恋は罪悪」だろう。
<彼は自分にたよるものを要求していた。自分を信じ、自分を賛美するものを要求していた。そして今や、杉子自身にその役をしてもらいたくなった。杉子は彼のすることを絶対に信じてくれなければならなかった。世界で野島程偉(えら)いものはないと杉子に思ってもらいたかった。彼の仕事を理解し、賛美し、彼のうちにある傲慢(ごうまん)な血をそのままぶちまけてもたじろがず、かえって一緒(いっしょ)によろこべる人間でなければならなかった。
(武者小路実篤『友情』上篇五)>
「傲慢(ごうまん)な血」は意味不明。
<あなたを差し向ける私はベアトリーチェ。
戻りたいと強く願っているあの場所から降りてきました。
愛こそが私を動かし、話をさせるのです。
(ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』第二歌)>
野島は、杉子をベアトリーチェに仕立てようとしたらしい。
(6430終)