ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 6450

2023-02-13 23:28:06 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6450 被愛感情

6451 『狂気の愛』

 

Nの小説が無駄にややこしいのは、作者が被愛願望を隠蔽しつつ、その気分を読者に伝染させようと頑張るからだ。

 

<果(ママ)てな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面をすかして見ましたが暗くて何にも分りません。気のせいに違いない早々帰ろうと思って一足二足あるき出すと、又微(かす)かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。

(夏目漱石『吾輩は猫である』二)>

 

この体験をもって、富子の母親は、〈寒月は富子に「恋着した」(『吾輩は猫である』三)〉と仄めかす。言いがかりにしても、おかしな話だ。

〈被愛妄想=「恋着(れんちゃく)」〉という公式のようなものがあるらしい。しかも、男から被愛妄想を抱かれた女は穢されたことになるらしい。私にはよくわからない話だ。

 

<カフェにとびこんで来た女性――彼女もまた前夜、手紙を書き、わたしは、それがすぐに、それがわたし宛ての手紙だったにちがいないという空想にひたって、彼女から手紙が届くのを待っている自分におどろいた。もちろん、そのようなことがありうべくもなかった。五月二十九日の七時半、再びカフェで手紙を書きはじめた彼女は、眼を天井にやり、ペンを走らせ、壁に視線をあつめ、再び天井に眼をやって、ついぞわたしと視線が会(ママ)うことがなく、わたしは徐々にいらだってきた。わたしがほんのすこし身動きをしても、天井を見上げた彼女の眼はまばたきもせず、ほどんど何らの表情も示さなかった。ほんの数メートル先のところで、その眼は長い炎のような光を放ち、眼に見えぬ乾いた雑草に向かって投げられ、この世ならぬ優雅なバストが、周囲の不動性に君臨しはじめていた。わたしはだんだんこうして互いに無言の状態をつづけていることに、自分がこの場にそぐわないのではないかという内心の苦痛を如何ともしがたく感じていた。手をのばせば、チャンスはすぐそこにあったというのに。

(アンドレ・ブルトン『狂気の愛』)>

 

Sの「信仰に近い愛」(下十四)は「狂気の愛」として描かれていない。だから、不可解。

〈「信仰」そのものである「愛」〉は、たとえば、次のように歌われる。

 

<わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)さへ見えてよに忘られず

(『万葉集』巻第二十 4322)>

 

妻の霊魂が離脱して夫の前に現われた。そのように、夫は信じている。当時の人々はこういう現象が起きると信じていたのだろう。現代人なら、勿論、夫の幻覚と考える

 Nの小説では、なぜ、被愛願望は隠蔽されがちなのか。被愛感情について、作者が表現できないからだ。分離不安や女性恐怖その他が混雑しているからだ。

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6450 被愛感情

6452 妄想ではない被愛感情

 

『浮雲』が中断した原因は、文三の被愛感情を作者がきちんと描けなかったからだ。お勢の心理がきちんと描かれなかったからではない。

 

<「余(あんまり)だから宜(い)い……人の感情を弄んだの本田に見返ったのといろんな事を云って讒謗(ざんぼう)して……自分の己惚(うぬぼれ)で如何(どん)な夢を見ていたって人の知(しッ)た事(こッ)ちゃありゃしない……

(二葉亭四迷『浮雲』「第十二回 いすかの嘴(はし)」)>

 

お勢の台詞。聞いているのは文三。「人」は文三だ。本田は、文三の友人。

文三の抱いた被愛感情は「夢」つまり妄想だったのだろうか。だが、そのように読むと、『浮雲』は作品として解体する。お勢が本音を口にしているのか、強がって嘘をついているのか、私にはわからない。作者にもわからなくなったらしく、『浮雲』はこの回で中断する。

自覚できない恋愛感情は、次のように表現される。

 

<「今夜きっと、パティーの夢を見るわ」アンがいった。「どうしてかしら、なんだかわたし、この家の人間のような気がするの。いつかそのうち、家の中を見るチャンスがあるんじゃないかしら」

(L.M.モンゴメリー『アンの愛情』「アン、パティーの家に出合う」)>

 

次は被愛感情に浸る場面。

 

<自分のマンションに戻ると、南は電気もつけないまま、床にドスンとバッグを置いた。

突然、涙があふれてきた。南はおもいきり泣き出した。ソファにだきついて、声を上げて泣いてしまった。

瀬名はひとり、コーヒーをいれて飲んでいた。ソファに座ると、電話と花火が目に入って来た。

しばらく何かを考えていた瀬名は、突然立ち上がった。バタンとドアを開け、鍵もかけずに玄関から飛び出していく。表通りまで出ると、タクシーを探した。空車を見つけ、必死に手を挙げる。せっかく乗り込んだタクシーは、すぐ渋滞に巻き込まれてしまった。イライラしている瀬名に、運転手が気の毒そうに話しかけてくる。「金曜日だからねえ……混むんだよね……」

「ここでいいです」タクシーを降りると、瀬名はひたすら夜の街を走っていった。

南は、クッションを抱いたまま、ソファにぐったりと坐っていた。頬(ほお)には涙の跡がある。目を泣きはらしたまま、ぼんやりしていると、チャイムの音が鳴った。

 

 (北川悦吏子『ロング バケーション』9)>

 

映像とはちょっと違う。

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6450 被愛感情

6453 『エディプスの恋人』

 

恋愛妄想を現実の出来事として表現すると、次のようになる。

 

<彼女からのメッセージはことばによってではなく、わたしの心に直接、直感として伝えてくるていのものでした。したがってそれは、ある意味でことばよりも明確ではあったのですが、反面それはことばとして再現しにくいものが大部分でした。読心能力者であるあなたに、私の心をお読み下さいと申しあげたのはここのところです。

(筒井康隆『エディプスの恋人』)>

 

「彼女」は「わたし」の亡妻。「あなた」は主人公の七瀬で、テレパスという設定。

 

<――自分はそれ程の影響をこの女の上に有しておる――三四郎はこの自覚のもとに一切の己れを意識した。

(夏目漱石『三四郎』十)>

 

意味不明。

「普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている」(『三四郎』十)と語られる。語り手は冗談めかして実状を隠蔽している、「普通の人」が読めば、「迷信家」は〈妄想家〉が適当。けれども、そのように解釈すると、『三四郎』は作品として解体する。

 

<それでいて御嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼には能くそれが解っていました。能く解るように振舞って見せる痕迹(こんせき)さえ明らかでした。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十三)>

 

「それ」の指す言葉は不明。「子供」は意味不明。

「それ」は〈そのこと〉が適当。〈「眼には」~「解って」〉は駄目。

「痕迹(こんせき)」について具体的な話はない。この語は妄想幻想の暴露みたいだ。

 

<この症状の厄介(やっかい)な所は いくら 相手から つれなくされても 時に 否定さえ されても すべては 「自分は愛を 試されている」と考え 余計に 思いを深くして しまうところにあります 

(中村卯月『被愛妄想』)>

 

Sは、静と結婚した後も、被愛願望を満たせないでいる。ただし、〈欲求不満の原因は、妻にではなく、自分にある〉と思いたかった。そのために、〈SはKを殺した〉という記憶を偽造した。あるいは、誇張した。〈静はSを嫌う〉という物語を自分自身に対して隠蔽するために、〈Kの自殺に関する罪悪感のせいでSは静を避けてしまう〉という物語を捏造したわけだ。作者はこの工作に加担している。

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6450 被愛感情

6454 勘違い野郎

 

被愛妄想の一歩手前。

 

<何とわたくしの心と愛情との深さを御存じ(ママ)のあなたさまが、よくまあわたくしを永久にお棄てになるお氣になり、さうして只新ら(ママ)しい欲情の犠牲に供へるためにだけわたくしを思ひ出して居られるのではないだらうかなどと考へさせるやうな恐ろしい目にわたくしを逢はせるそんなお氣に、よくもおなりなされたものでございますね。

(佐藤春夫訳『ぽるとがるぶみ』)>

 

『フランス軍中尉の女』(ライス監督)参照。

 

<「ここのどこかに確かにチュンサンがいる……。私は感じる。私が来るということを知ってどこかに隠れてしまったんだ……。きっと、チョンアさんとキム次長がこの計画を立てたんだ……。そう、きっとそうだわ」

ユジンはこの近くにチュンサンが隠れていると思うと、全身にけいれんがおこったように震え始めた。

(キム・ウニ+ユン・ウンギョン『もうひとつの冬のソナタ チュンサンとユジンのそれから』第4章)>

 

SFでは次のようになる。

 

<彼女は明らかに自分の内に答を捜し求めているようだった。そして、答が見つかったとき、それは彼女自身にとっても発見だった。

「なんだか、いつもあなたの姿を見ていなければいけないような……気がするの」

(スタニスワフ・レム『ソラリス』「ハリー」>>

 

ハリーは男の被愛願望が作り出した人格だ。

『惑星ソラリス』(タルコフスキー監督)と『ソラリス』(ソンダーバーグ監督)参照。

Nは、被愛感情がどのようなものか、想像できなかったようだ。

 

<妄想を決して手放そうとしない相手の頑迷ぶりに、エリザベスは気力が尽きた。言葉を返すのはあきらめ、そのまま挨拶(あいさつ)もなしで部屋を出た。何度断ってもミスター・コリンズは女の媚態(びたい)としか受け取ってくれないのだから、これはもう、父に口を利(き)いてもらうしかあるまい。父なら例の調子で身も蓋(ふた)もなく断ってくれるだろうし、父の態度を社交上手の手練手管と勘違いするほどの間抜けはさすがにいないはずだ。

(ジェーン・オースティン『自負と偏見』第十九章)>

 

Nの小説に出てくる男たちは、コリンズ並みの勘違い野郎だろう。

(6450終)

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 掌に掌を | トップ | ネンゴロ 1972 »
最新の画像もっと見る

評論」カテゴリの最新記事