『夏目漱石を読むという虚栄』の予告
1/3 軽薄才子は根暗
『こころ』に関する私の批判をまとめて『夏目漱石を読むという虚栄』と題し、近く公開する。
「みんな知ってる。でも読んだこと、ある?」
(『こころ まんがで読破』帯)
「でも読んだこと、ある?」を拡大解釈すると、〈「でも」ちゃんと「読んだこと、ある?」〉となる。
NHKの『こころ』の輪読会に参加した作家が〈読んだと思っていたが、読んでいなかった〉と告白した。しかし、彼の記憶違いだろう。若い頃に読んだことがあるのだが、ひどく誤読していたので、再読時にはまるで違う印象を得たのだろう。だから、〈読んでいなかったみたい〉と思ってしまったのだろう。
この作家とは逆に、若い頃の印象に固執する連中がいる。彼らを〈夏目宗徒〉と呼ぶ。彼らは決してちゃんと読まない。意味不明とわかってもなお、文豪の高遠な哲学や何かがこめられていると思い込み、ありもしない意味を探し続ける。そして、捏造し続ける。
○
「欲しがりません、勝つまでは」という戦時中の標語がある。
これの真意は、理屈だと、〈負けます、欲しがったら〉だろう。勿論、発信者にそんな意図があろうはずはない。真意は、〈欲しがります、勝てたら〉でもない。勿論、〈欲しがりません、負けるまでは〉でもない。この標語は意味不明なのだ。
この標語は、負ける可能性を無根拠に排除するためにある。〈負けるものか〉ですらない。この標語は〈必勝〉を暗示しているが、〈必勝〉の根拠は示していない。つまり、虚偽を暗示している。
意味不明の文言によって暗示された情報の真偽は問えない。疑いようがない。信じるしかない。信じられなければ、あるいは信じたふりができなければ、〈馬鹿〉とか〈売国奴〉とかいった烙印を捺されてしまう。
会田誠推薦の『輝け!大東亜共栄圏』(駕籠真太郎)が参考になるかもしれない。
○
人々に悲惨な暮らしを強いるのは、権力者ではない。権力者と普通の人々の間には深い溝がある。それを軽薄才子どもが意味不明の文言によって埋めてくれる。批判できないような不合理な文句を拵える。キャチフレーズなどの中途半端な嘘に接した人々の判断力などは、しばしば、鈍ってしまう。少なくない人々が酔い痴れる。軽薄才子は権力者のための花道を準備するのだ。
詐欺師に騙されてしまうのは、仕方のないことだ。よくできた嘘を見破ることは困難だ。歴史はよくできた嘘だ。私たちは歴史家に騙されて暮らしている。
一方、騙されまいとすれば騙されるはずのない中途半端な嘘に騙されてしまう人々が少なからずいる。詩歌でも哲学でも宗教でもない、しかし、それらのどれとも思えそうな中途半端な嘘に、騙されてしまう人々がいる。彼らは被害者であると同時に、共犯者でもある。
○
戦時中、「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」(下三十)と唱えて特攻を志願した少年がいたという。
これはKの台詞だが、意味不明。この台詞の真意を知っているのはKだけだ。彼はわざと真意を隠蔽し、我を張っている。彼は軽薄才子だ。ただし、根暗だ。〈根暗だから軽薄ではない〉などということはない。逆だ。根暗こそ軽薄才子の最後の姿なのだ。多岐亡羊。
さて、〈軽薄才子は悩むしかない〉といったことを、『こころ』の作者は表現しているのだろうか。表現する意図があるのだろうか。あるとしたら、あるいは、ないとしたら、その証拠は本文のどこに認められるのか。
人々は『こころ』をちゃんと読めているのか。
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ミットソン:『いろはきいろ』#051~088
志村太郎『『こころ』の読めない部分』(文芸社)
志村太郎『『こころ』の意味は朦朧として』(文芸社)
(続)