萌芽落花ノート
55 銀幕の寓話
一 青い棘
鬼より怖いと噂されるドモヤスが「どどっ」と吃って秘書を斬った。
時価ウン千万円という噂の宝石〈青い棘〉を盗もうと決めた夜のことだ。悪事を働こうとすると躊躇う。だから、その女々しい気分を切り捨てるために、もっと悪いことを先にしでかす。だから、秘書を斬った。
秘書の机の上で銀色のシガレット・ケースがオルゴールのように厭味ったらしく開いたせいでもある。
オルゴールの可能性も計画に入れておかねばならない。それと、いつも乗る私鉄の駅の数もある。鈍行の停車駅から急行の停車駅を引いて、身の上心配ある故山上と掛けて、にんまり。千円から特急券の料金を引いた数と等しいのである。釣銭が三百六十五円とは洒落ている。では、たまには帰省してみようかなどと、あらぬ方向に思念が怯えた兎のように走った。
加えて、足長のかつての恋人というか片思いの彼女の処女性を疑ってみる。現在はトマト・ジュースのマリーと呼ばれ、立派な娼婦として活躍中だ。彼女に、「早速逢いたし」と電報を打つために歯医者を訪れ、前歯を三本抜いてもらった。
どうやって、そこへ?
魔法瓶の底に長いこと仕舞ってあった紅色の軽気球に飛び乗って、である。
風が滝のように下る夕暮れだったから、気球は断然勇ましく出立できたのだ。八十日間かそこら、下宿のあたりを一周の後、うまうまと〈青い棘〉の奪取に成功したと、新聞は、そう報道した。
その間、ドモヤスはアパートの一室から突っかけを履いて、古びたジーパンのポケットに両手をぐさっと差し込み、口笛吹き吹き、廊下を歩いて便所で小便を垂れて戻っただけなのだ。
嘘のような嘘の話が嘘のように歩き回る。そんな噂を、君ら、信じるか?
犯罪は常にバーゲン・セールの夜明けのように、あるいはLサイズのコンドームを常用する短小男のように、あるいは、ええっと、何だっけ、ありふれた比喩だが、買ったばかりのネクタイのように、春風に靡くものなのだ。
そんなことも知らないで、生きて来たの、今日まで?
独り言。
易しくそっと撫でさすれば、秋空だって落ちてくるのさ。
独り言。
そんなことも知らないで……
ドモヤスの企みは極めて難解だったので、思いもよらぬほど、すらすらと事は運び、我ながら照れ臭くて、成功を疑いたくなったほどだから、耐えかねて、水銀のような呻き声を上げながら、ついに吃り方を忘れてしまった。
ドモヤスは、〈暁の饒舌少年〉と改名し、鋼鉄の吃音でリズムを刻みながら、ヘビー・ペッティングに苛立つ処女たちを、さらに苛立たせて稼ぎまくった。
人生の明るい裏街道を垣間見てしまった少女は、今更マリーとは名乗れず、ヤス、ただのヤスの前で別人のふりをした。足元で蝦蟇が唸る。
知って知らぬふりのヤスは、おどおどしながら、「君、どこから、どこへ?」と尋ねてみる。実は、この偽装工作こそ当局を過剰なまでの混乱に陥らせた第二の原因だった。ヤスの左手は満員電車の中で老女の和服の胸に突っ込まれている。この老女は完璧な処女であったばかりか、海に潜っても陰毛一筋さえ濡らさない小笠藁流マクベス夫人だったので、「まあ、きれえ」と微笑んでしまった。
肉襦袢が何色だったか、確かめる暇もなく、ヤスは慌てて感情的に環状線に乗り換え、ぐるぐると旋回し続けた。孤独と絶望の終わりのない退屈。
そんなこんなで、吃音が蘇り、気がつくと、青い棘が……
前歯が二本だけ、青く光っていた。
彼に何ができようか。
「お医者様、ありがとう。今度からは、痛くしないでね」
こんなことしか言えない。
「これで何でもおいしく戴けそうです」
こんなことしか言えない。
独り言では吃らない彼も、外階段を上りながら息切れしてしまい、生きる限界を知ったつもりになれた。あくまで、つもり。
完全犯罪は誰の目にも明らかであったのにもかかわらず、官憲はちっとも動かず、ドモヤスは野放しなのだ。
独身女性が何日も着古した下着を白旗のように干し続ける夜、ドモヤスは殺意を殺しながら、よたよたと出歩いているのに、偉そうに、近頃では麻薬的犯罪の香りを垂れ流す民放各局のワイド・ショーで、ひ弱な僕たちのために人生相談を担当している。
(55一終)