団地小説短編集を歩く

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小説キャナルタウン 5 和田岬線 新川支線 新川(貨物)駅 (兵庫臨港線)

2017-01-19 19:27:37 | 日記
   小説キャナルタウン 3 兵庫運河住吉橋の謎(2016.12.26.投稿)の続きです。

         新川(貨物)駅の論点整理をします。

   新川駅の歴史ついてのウィキペディアの記述

  ・1893年(明治26年)12月3日ー山陽鉄道の新川荷扱所(貨物駅)として開業。当時は、和田岬線上にある扱いであっ

                    た。

  ・1906年(明治39年)12月1日ー山陽鉄道が国有化。

  ・1911年(明治44年)11月1日ー和田岬線上から別の貨物支線上の駅に変更。

  ・1919年(大正8年)10月15日ー新川駅に昇格。

  ・1932年(昭和7年)12月16日ー神戸市場駅まで貨物支線が開通。

  ・1933年(昭和8年)6月21日ー兵庫港駅まで貨物支線が開通。

  ・1974年(昭和49年)10月1日ー「荷貨一元化」により小荷物の取扱を開始(一般駅となる)。

  ・1976年(昭和51年)10月1日ー小荷物の取扱を廃止(貨物駅に戻る)。

  ・1984年(昭和59年)2月1日ー兵庫臨港線全廃により廃止。

   市民のグラフこうべ 平成2年8月号 特集 和田岬線の風景 の記述

       ノスタルジー和田岬線 1世紀の歩み

       沿線企業の操業が相次ぎ、隆盛の一途

   前略  また、引込線も次々に設けられた。現在も健在で活躍しているのは川崎重工兵庫工場の引込線だけになって

       しまたっが、兵庫新川の運河から陸揚げされる物資の運搬を目的として明治33年に開設された新川貨物線

       (その後中央卸売市場、兵庫港へ延長)のほか、鐘紡兵庫工場、日本製粉、川西機械(神戸工業→現・富士通)

       などが、それぞれ和田岬線から工場内へ引込線を設けていた。

       なお別の記事で 「新川駅の開設は明治33年、廃止は昭和59年」の記述がある。

   明治30年6月の兵庫運河株式会社第6回事業報告書の付属地図

      

   この地図に描かれた和田岬線から新川までの路線の解釈である。和田岬線は明治23年の開業であるがこの路線は

  当時存在した路線を記載したのか、計画中の路線を記載したものかが問題となる。まさか運河の上にレールを引く計画

  などあり得ないから、当時すでに新川支線があり新川運河の接続して新川駅があったと考えるのが妥当であり、兵庫運河

  の建設に伴い明和通まで後退した。これで新川駅の名前も納得できるものとなる。

   これが前回までのお話です。しかしあくまでも推測。新たな証拠を探す必要があります。

     陸軍部測量局の2万分1迅速図・仮製図
    
     

   和田岬線が兵庫駅近くで途切れていますがこれは上半分が、「兵庫」明治19年測量、下半分が「須磨村」明治31年

  測量のためです。

        

   地図記号と新川付近の拡大図です。地図記号で注目していただきたいのが「支分部及避部」の表示です。今で言えば

  ポイントと待避線という意味でしょうか。新川手前にポイントがあり複線以上になっており新川駅があったと思われます。

        

   比較のために、和田岬駅(左)と鐘紡引込線(右)の拡大図です。いずれもポイントがあって複線以上になっているものと

  思われます。

   なお、この地図は国土地理院で旧版地図として購入出来ます。図書館で「地図で見る神戸の変遷」をコピーしたので何度も

  コピーを経たものとなり大変見にくいものとなってしまいました。

   市民のグラフこうべ 特集和田岬線の風景 の一枚です

       

   「昭和40年代初期の”一つ目機関車”DD13型式。写真の左端の信号機は和田岬本線、川崎重工兵庫工場引込線、新川

  貨物線用の三つがあった」の説明がある。新川支線の痕跡が信号機の名前に残っているのかも知れません。

     神戸市全図 

       

   明治24年10月8日初版、明治28年12月31日再版の民間発行の「神戸市全図」です。運河工事中の記載がある

  一方、新川支線の記載がありません。不都合な事実でありますがこのように解釈出来ないでしょうか。つまり、新川支線

  線は兵庫運河本川の建設予定地を利用して敷設された。兵庫運河本川の建設に伴い新川支線は廃止の予定であった。

   兵庫運河株式会社の付属地図では新川駅部分が兵庫運河本川から外れています。色々想定されますが、新川駅が運河

  予定地よりも大きかったためはみ出してしまったからではないでしょうか。

   では、新川駅の開業はいつ頃でしょうか。あくまで私の想像ですが、和田岬線の貨物取扱開始と同時期か極めて近接した

  早い時期だと思います。理由としては、

  ・僅か600メートルほどの短い、平坦な路線である。

  ・兵庫津の人々は鉄道が整備された神戸港を横目に見ながらどんなに歯がゆい思いをしていたか。

  ・山陽鉄道にとっては資本金を取り崩しながら新線建設をしている時期に確実に日銭を稼げる路線である。

  新川運河と兵庫運河本川は元々同じ計画でした。しかし資金的な問題等で新川運河部分のみが明治9年に完成しました。

     兵庫運河完成後の新川支線

     最新神戸地図 明治41年11月15日発行

        

   右は新川貨物線部分の拡大です。「市民のグラフこうべ」によれば新川貨物線と新川駅の開設は明治33年となっていま

  す。明治32年に兵庫運河が完成していますので時期的には合うと思います。

   ここで今まで使用してきた新川支線と新川貨物線の関係について考えます。つまり新川貨物線が新川支線の跡をそのまま

  利用したのか否かと言うことであります。駅の大きさを確保するため分岐部分を兵庫駅よりに移動したかのではないか。地図

  を見ると移動した可能性もあります。また多少空白期間があることをを考えれば新川支線は(予定通り)一旦全て撤去された

  が、その後やっぱり不便なので新川貨物貨物線と新川駅が作られた可能性もあります。兵庫津→兵庫運河→兵庫運河支線→

  兵庫駅と荷物を運ぶのはでは不便すぎます。この場合新川支線が存在した事実は変わりませんが、神戸市の記述は正しいこと

  になります。

   いずれにしても、この地図の線路を新川貨物線と呼ぶのは無理があります。以前に新川まで行っていた路線があったから

  新川貨物線と呼ばれたのです。

    商工地図 大正12年 と同じ年の 地形図

   

   地形図はパソコン画面から写真を撮りましたので不鮮明で申し訳ありません。新川貨物線は東に延びています。商工地図

  地図では付近に石材店が集中していますので引込線のようなものでしょうか。

     都市地図 昭和12年発行   

       

   新川運河を越えて中央市場・兵庫突堤に向かいます。兵庫臨港線の時代になりました。

      昭和56年頃の年住宅地図

       

   住吉橋がなぜ高いのかがよく分かる地図です。また新川運河から離れた場所にあるのになぜ新川駅があるのかの疑問の

  元になった地図です。

      昭和31年の住宅地図  

       

   住吉橋のたもとに新川駅(の一部)が有ります。この頃はまだ兵庫運河から直接の荷揚げがあったのでしょうか。

       消えるかも知れない兵庫臨港線の遺跡

        

   現在は富士通テンの所有地です。中央にある曲線の道路状のものが軌道敷の跡ですが、重機が入って工事をしています。

  ガードマンに聞いたところ排水溝の整備工事らしいですが、大手建設業者が工事をしていますので、それだけで終わらないと

  思います。


       実は、団地小説短編集を歩くはUR賃貸住宅の魅力をお伝えするブログです。

       小説キャナルタウンはキャナルタウンウエストのページです。そこで

        突然ですがキャナルタウンクイズです。

        

    問題 1  キャナルタウンウエストと言えば中央を流れる運河が有名ですが運河の水は何の水でしょうか。

         ア.海水  イ.川の水 ウ.水道水  エ.地下水  オ.工業用水  

    問題2  キャナルタウンウエストはUR都市機構の団地ですが運河部分の用地の所有者は誰でしょうか。

         ア.都市機構  イ.神戸市  ウ.JR  エ.国  オ.兵庫県

        答は次回の 小説キャナルタウン 6 に掲載します。

  
   番外編 1・2 で繰り返し述べましたが私は鉄ちゃんでも廃線マニアでもありません。なぜこんな話題に関わることに

  なったのかは小説キャナルタウン 1・2・3をご覧下さい。鉄道に関して基本的な知識を持ち合わせていませんので全く

  とんちんかんなことを書いているかも知れません。もし専門の方がご覧になっておられて多少意味のあることでしたら

  後をよろしくお願いします。ついでに申せば私はパソコンが殆どわかしません。プロフィールも書きましたが表示方法が

  分かりません。ましてご返事の受付方法なぞ全く分かりませんのでご無礼をいたします。