耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

英国メディアに無視された“安部前首相”の訪英

2007-10-10 10:06:54 | Weblog
 始末の悪い幕切れとなった“安部政権”だが、9月16日の記事(「“水に落ちた犬は打て”~阿部退陣によせて」:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070916)で書いたとおり、もうすっかり社会の関心から遠のき、新聞・テレビから姿を消してしまった。参議院選挙で示した自公政権に対する国民の憤懣も、同じ自公政権が続いているにもかかわらず、ソフト路線の福田政権の登場でとたんに凋んでしまったようにみえる。

 
 『老子』七十五章には「為政者の悪」としてこう述べる。

 <人民の生活が苦しいのは、為政者が租税を取りすぎるからだ。これでは、生活できるはずがない。
 人民が反抗するのは、為政者が強制手段に出るからだ。これでは、服従するはずがない。
 人民が生命を大切にしないのは、為政者が欲望をそそりたてるからだ。これでは、長生きできるはずがない。
 人民を愛する政治とは、作為せず自然にまかせる政治のことである。>(中国の思想『老子・列子』/筑摩書房)

 年間3万人余の自殺者が続く現代の社会悪を、2,500年前の『老子』は射抜いていたというべきだろう。小泉、安部と続いた「暗愚政治」で貧富の格差が拡大したばかりか、「民の心根」も細り、憂いは増すばかりである。この暗い気持ちに追い討ちをかけるように、森嶋瑤子さんは「ロンドンから」こんな話を寄せている。

 <…イギリスのメディアの報道はゼロに近かったから、日本の新聞その他からのニュース源を持たなければ、ロンドン在留の日本人の多くは安部首相の来英さえ知らなかったと思う。私がショックを受けたのは、BBCの報道~というより無報道~だった。
 当時のブレア首相と並んで記者会見にのぞむ阿部首相がテレビの画面に出たのだが、それはそこでブレアが行なった彼の見解発表(それが何に関するものであったか忘れたが)を報道するのが目的であったようだ。したがって、隣に立っている人が誰であるかの紹介は全くなし、彼を知っている日本人以外は彼が何者かは分からずじまい。安部首相はたまたまその場に居合わせた無名の人物以外の何者でもない取扱いであった。…>(朝日新聞社発行月刊『図書』10月号)

 これを読んで思わず、天を仰いでため息をついた。これがわが国の「総理大臣」なのだ。森嶋さんは、四半世紀前の1981年6月に訪英した鈴木善幸首相が、この安部首相同様メディアからほとんど無視されたことにもふれ、派閥のたらい回しで決める日本の政治風土を「コンベアベルトに乗って回ってくるのを選ぶのは、寿司なら構わないとしても首相がそれでは困る」と皮肉ったタイムズ紙の社説を引用し、最後をこう結んでいる。

 <素材の品質を厳選し、手をかけて特選品をつくることにこだわる日本人だが、何年経っても政治家にはこのような厳選主義の適用はなく、日本流にいうなら「たらい回し」、イギリス流なら「コンベアベルト」で流れているだけと海外でまで見られているのは情けない。>


 半世紀前、“毒舌評論家”大宅壮一は、テレビの普及を横目で見ながら「マスコミ機関によって『一億総白痴化』運動が展開されている」と言った。今はメディアによる『愚民化』と言うらしいが、それは『愚民政策』を狙う権力の意向でもあり、『愚民化』は権力の延命に好都合なのだ。

 参照:「一億総白痴化」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

 藤原肇著『小泉純一郎と日本の病理』(光文社)では、組織のトップを「指導者(Leader)」「トリックスター(Fool)」「詐称者(Imposter)」の三種類に分類し、小泉純一郎を「詐称者」の典型と指摘している。こうした「詐称者」の“詐術”にまんまとはまってしまう国民が多いことは、「民度」が低い証拠なのだろう。いつになったら、「人品」ともに備わった人物をリーダーにすることができるやら、やれやれ…。
 

“易”に関する「公開講座」を聞きにいく

2007-10-08 17:18:13 | Weblog
 去る土曜日午後、長崎県立大学の「公開講座」を聴講した。テーマは“中国古代数学のルーツ(易学)と社会認識”で、講師は同大学専任講師のイン(伊から人偏を除く)清シュ(シ偏に朱)さん。インさんは中国吉林省出身で「中国経済論」「計量経済学」が専門。中国・吉林大学、韓国・坂洲大学、日本・京都大学で学んだという。

 「易学」の話が聞けると楽しみにしていたが、1時間半の講義は「数学のはなし」と「統計学のはなし」で時間切れとなり、予定にあった「易学のはなし」(“易学の数学”“易学の統計”“易学の未知の部分”)と「結論」(“統計学と易学”“人類の探究”“人類の合理的な逆選択”)は聞くことができなかった。

 元来、「数学」と聞けば頭が痛くなる人間で、予備知識も何もなかったが、「二進数」とか「パスカルの三角形」などについては、“易”に関連があることぐらいは知っていた。

  「二進数」:http://www.asahi-net.or.jp/~AX2S-KMTN/ref/bdh.html
 
 「パスカルの三角形」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%89%E8%A7%92%E5%BD%A2


 1月30日「易の世界」(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/m/200701)でふれたが、『易のニューサイエンス』(蔡恒息著/当方書店)では、「易と数学」について数式を用いてかなり詳しく論じている。そのすべてを理解するのはとても無理だが、中国科学史の権威ジョセフ・ニーダム(1900~1995)に関する次の興味深い記述は記憶していた。

 <ニーダム博士は、厖大な資料にもとづき、ヨーロッパの科学思想の淵源を詳細に追求していくと、いずれもライプニッツに通じることを知った。ライプニッツの二進法思想が、後にプール代数に発展し、形式論理と微積分変化量とが統合され、彼は近代のコンピュータと数理論理学の創始者となった。興味深いことに、ライプニッツの二進法思想は、八卦に啓発されて発明されたものであった。>

 コンピュータの0=陰、1=陽で、“易”の六十四卦もこの0(陰)と1(陽)の組み合わせで表示されており、ライプニッツは「六十四卦図」を見て二進法思想を確立したというのである。

 さらに、宋代の数学者・楊輝著『詳解九章算法』には有名な「楊輝の三角形」があり、それは「周易の三角形」を来源とするという。この三角形こそ「パスカルの三角形」そのものである。すでにパスカルより5世紀も早くその理論は確立していた。


 “易”は、一般に「占い」として知られているが、実は、インさんの「講座」の副題は「あなたは占いを信じますか」となっていた。数学や統計学のはなしも、この「占い」と密接な関係があって、統計上の“予測の難しさ”から「現在科学の限界」に迫りたかったようである。

 最後に、インさんが提出された問題を一つ。

 <100円支払えば1回、6面サイコロを振ることができ、それぞれ次の賞金がつくとすると、あなたはこのサイコロゲームに参加しますか。
 1=20円、2=50円、3=100円、4=100円、5=150円、6=150円>

 それぞれの出る確率は6分の1である。さあ、どうしますか。



映画『日本の青空』~“憲法誕生の真相”をみる

2007-10-06 11:55:45 | Weblog
 ご覧になった方も多いと思うが、昨日、“日本の青空”上映会に行った。まことに清々しい映画だった。サブタイトルに「日本国憲法誕生の真相」とあるように、「新憲法」誕生の呼び水となる「憲法草案要綱」を執筆した憲法学者・鈴木安蔵一家を軸に、占領下における「憲法制定」の濃密なドラマが描かれている。

 参照:「日本の青空」http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/

 映画に出てくる“白州次郎”については7月28日「“また対米支援のための改憲かい”~白州次郎が生きていたら」で書いた。

 参照:「」http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070728

 その記事では書かなかったが、白州次郎は「サンフランシスコ平和条約」ならびに「日米安全保障条約」の締結にも立ち会っていて、後に自説を披露している。一つは、「朕戦いを宣す」と言って戦争を始めた昭和天皇は戦争責任から逃れられず「退位」が望ましいこと、もう一つは、「日本は(憲法で)国家としての戦争を放棄したのだから、、日米協定で米軍基地を日本に置いて戦争に備えることも、憲法上難しい」ことを米側に伝えていたこと、いずれも実現はしなかったが、他の日本側代表にはない瞠目すべき見解であった。


 この映画で印象に残ったのは、“大原社会問題研究所”所長の加藤剛演じる“高野岩三郎”である。映画の中心的場面は高野岩三郎の呼びかけで結成された『憲法研究会』だが、鈴木安蔵をはじめメンバーの意見は“象徴”とはいえ「天皇制の存続」であった。ひとり高野はこれを不満として別に「日本共和国憲法私案要綱(のち「改正憲法私案要綱」)」を提出し、「根本原則 天皇制ヲ廃止シ之ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制ヲ採用」と“天皇制廃止”を明確に打ち出していた。

 参照:「日本共和国憲法私案要綱」http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045/045_001r.html


 こんにち、『日本国憲法』改正の是非が論じられているのは、主に第九条をめぐってのことのようである。映画“日本の青空”製作に当たって、各地の「九条の会」が大きな力になっていることからもこのことは窺える。だが、平和憲法であり、民主憲法である『日本国憲法』をもう一度見つめなおしてみよう。

 なぜ、『日本国憲法』第一章が「天皇」とされているのか。真に民主憲法を望む立場から、「天皇」条項を認めていいのか。色川大吉著『ある昭和史』(中央公論社)の次の言葉は忘れられない。

 <たとえ「象徴」という名のもとであっても、天皇が少しでも国政に特権を持つのは民主主義の原則に反する。それゆえに政治的な天皇制は完全に廃止されなくてはならない。
 「完全に」とは、復活の余地を全くなくすという意味である。なぜなら天皇制はつねにわが民族の上流階級、支配階級に味方し、利用されてきた存在だからである。>

 
 白州次郎は、昭和天皇の戦争責任にふれ「退位」が望ましいと考えていたが、高野岩三郎は「新憲法」制定に当たって、民主主義の観点から「天皇制廃止」を絶対条件とした。卓見といえるだろう。白州次郎の唯一の著書である『プリンシプルのない日本』(メディア総合研究所)の「プリンシプル」とは「原則」と訳されているようだが、この「原則」からみても『日本国憲法』の「天皇制」は論じられねばならない課題といえよう。この課題を避けては本当の“日本の青空”は見られないのではなかろうか。

“ダルマ”さんはなぜ赤い?

2007-10-04 09:01:10 | Weblog
 明日10月5日は、禅宗の開祖とされる“達磨大師”が入滅した日である。“達磨大師”は150歳で遷化したそうだが、「他宗派の僧侶に毒殺されたというのが真相」だという。

 参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8

 禅宗の根本義は、

【不立文字(ふりゅうもんじ)】=悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではないということ。
【以心伝心】=仏法の奥義を、言葉や文字を借りず師の心から弟子の心に伝えること。
【直指人心・見性成仏】=人間が生まれながら持っている仏性を直接に体得せよ、ということ。

とされている。

 「禅」とは梵語「禅那」の略で、「静慮(静かに思念すること)」を意味する。また、「禅」を解字すれば「示」と「単」になり、示は人心を「直示(直指)」すること、単は「単伝」すなわち単独修行で伝えることをいう。“達磨大師”の有名な「面壁九年」の坐禅は、これらの意味を表象している。達磨系の禅は「教化別伝」、つまり、釈尊の本当の教えは文字に記された経典にはなく、釈尊の心そのものの中にあるとしたわけである。

 
 さて伝説では、“達磨大師”は面壁九年の坐禅によって手足が腐ってしまい、ここから玩具としての“ダルマ”になったと言われている。わが国の「ダルマ信仰」は何に由来するか、“陰陽五行説”学者の吉野裕子著『ダルマの民俗学』(岩波新書)からみてみよう。“陰陽五行説”の基本は【五行配当表】にあることは前にも述べたが、もう一度おさらいをしておく。

 【五行配当表】

 五行  木  火  土  金  水
 五色  青  赤  黄  白  黒
 五方  東  南  中央  西  北
 五時  春  夏  土用  秋  冬
 五事  貌  視  思  言  聴
 五臓  肝  心  脾  肺  腎
 五腑  胆  小腸  胃  大腸 膀胱
 五味  酸  苦  甘  辛  塩(注:旧字に替えて)
 生数  1  2  3  4  5
 成数  6  7  8  9  10

 “達磨大師”の「面壁九年」の「九」は、陰陽における陽(奇数)の極数、同時に、火の生数二および成数七をあわせた数で、「九」は「火」の力を最大に発揮する数とされている。吉野裕子氏は、この「九」が“達磨大師”の二つの大徳を象徴するという。(<>は引用)

 一つは、【五行配当表】で“五事”をみれば五行の「火」に対応するのは「視」、すなわち「目」である。インド人である“達磨大師”の特色は、その巨大な目。
 <こうして火の活きた物実(ものざね)としての目と、面壁九年という強力な火の数をもって、達磨大師は、宇宙の実相を感得した。>

 もう一つは、「火剋金」(火は金を溶かす)の五行法則(相生・相剋の法則)による言語剋殺。
 <五行配当では、「言」は金気。強力な火の数「九」は言語を完全に封殺する。言語剋殺は禅宗の真骨頂である。>
 
 「ダルマさんダルマさん、にらめっこしましょ」という遊びは、目を大きく開いて相手をにらみ、口を閉ざす。「にらめっこ」=「目」、「口を閉ざす」=「火剋金」(言語剋殺)で、こんなところにも“達磨大師”と五行法則の関連が見られるという。

 吉野裕子氏の結論。

 <日本において達磨大師の信仰と、ダルマさんの俗信のあいだには、一見、天地のへだたりがあるが、両者は「火」を接点として重なり合うものであり、この微妙な接点が拡大され、俗信の方向に向かっての展開を示した。それがダルマさんなのである。>

 
 「ダルマさんはなぜ赤いか」。俗説では、“達磨大師”が赤い衣を着ていたことに由来するとか、赤色には魔除けの効果があるなどの説もみられるが、(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%8B%E3%81%BE)吉野説からたどれば、五行の「火」=五色の「赤}に由来することは言うまでもなく、説得力もある。吉野裕子著『ダルマの民俗学』では、「ダルマが赤い」根拠を仏教の「四大」からもさぐり、詳しく推考している。同書で指摘する「陰陽思想と禅の教義」の類似についての次の記述は、吉野説の根幹を示唆しているように思える。

 <…万象の把握を二元に求めているかのように見える陰陽思想が、じつは「一」、あるいは「無」によって象徴される普遍的絶対の存在にその思惟の基礎をおいていることを示す。それはまさに達磨大師によって見証された「無住空寂」の宇宙の相(すがた)と重なり合うのである。>

 
 “達磨大師”の「面壁九年」は何を教えているのだろう。「坐禅は安楽の法門である」といわれるが、一に「安心(あんじん)」(仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地=『大辞泉』)を得るための「行」と言えるだろう。二祖・慧可は腕を切って“達磨大師”に入門を乞うたといわれるが、南宋の無門慧開(1183~1260)の著『無門関』の一節を挙げておく。

 達摩面壁す。二祖、雪に立つ。肘(注:旧字に替えて)を断って云く、
 「弟子、心いまだ安からず。乞う、師、安心せしめよ」
 摩云く、
 「心を将(も)ち来れ、汝が為めに安んぜん」
 祖云く、
 「心を求(注:旧字に替えて)むるに了(つい)に不可得なり」
 摩云く、
 「汝が為めに安心し竟(おわ)んぬ」


「カインの弟殺し」(創世記)~名画“エデンの東”を想う

2007-10-02 12:17:43 | Weblog
 毎号“版画”で飾る岩波書店発行の月刊『図書』10月号の表紙は、≪労役に従うアダムとエヴァ≫(作者不詳)の木版彩色画(19世紀前半)である。坂本満氏は解説で言う。

 <右後景に二つの祭壇。その右側は人祖アダムの最初の二人の子供の、弟アベルが羊を、左は兄カインが農作物を神に捧げる。聖書の神はときとして無残で不公正であった。神はアベルの羊を喜び、カインの供物を無視したのである。それに憤ったカインは弟を殺す。…>

 『聖書』(「新共同訳」/日本聖書協会)「創世記4・カインとアベル」では、カインが弟を殺したあとをこう記している。

 <主はカインに言われた。
 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
 カインは答えた。
 「知りません。私は弟の番人でしょうか。」
 主は言われた。
 「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口をあけて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらうものとなる。」
 カインは主に言った。
 「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
 主はカインに言われた。
 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
 主はカインに出会う者がだれであれ彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。>

 
 神はなぜ、カインの献(ささ)げ物である“土の実り”を無視し、アベルの“肥えた羊の初子(ういご)”に目をかけ受け入れたのだろうか。
 
 『カインとアベル』というサイトによれば、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(「創世記3・蛇の誘惑」)」とあるように、エデンの園から二人を追放するにあたって「歴史上初めて生物から血が流され」て“皮の衣”が作られた。この事実から導かれることは、「神が受け入れられる捧げ物とは、すなわち罪を贖うべきものであり、それには動物の血が流される必要があった」ので、神はアベルの“肥えた羊の初子”を選び取られ、カインの“土の実り”を無視されたという。さらにこの物語には伏線があって、「この子羊はもちろん新約における真の神の子羊イエスを予表している」のだという。

 参照:http://www.dr-luke.org/Characters/CainAbel.html
 
 『カインとアベル』に関しては「護教的」解釈のほかいろいろの見方があるらしいが、それにしても、歴史上初の殺人者となったカインはあまりにも可哀そうではないか。ここに神の“無慈悲”をみてしまう。

 
 さて、印象に残る映画を挙げよ」と言われれば、文句なしに『エデンの東』と答えるであろう。『聖書・創世記』のこの物語を頭に入れてエリア・カザン作、ジェイムス・ディーン主演の名画『エデンの東』を鑑賞すると、「物語」が巧みに脚色されているとはいえ、カイン(キャル)への同情は一層深まる。成人式を迎えたばかりだったが、久留米の映画館で友人のS君と観終わった二人は、涕も拭かずしばらく立ち上がれなかったことを鮮明に憶えている。あらすじは下のリンクを見てもらうとして、ラストシーンだけ記しておく。

 <…脳卒中で倒れた父アダムは病院のベッドに横たわっていたが、死は時間の問題だった。冷ややかな看護婦が担当だった。キャルとともに見舞っていたアブラ(弟アロンの婚約者)は、アダムの耳元で言うのだった。
 「愛されないほど辛いことはありません。愛されないと心がねじけます。キャルがそうだったのです。彼を愛しています。彼を立ち直らせてあげて…」
 アダムの口元が動いた。キャルが耳を寄せた。キャルの目が潤んでいた。
 「あの看護婦は気に入らん。お前に看護して欲しいって…」
 アブラは泣いた。
 父と子の気持ちが通じ合った。>

 『エデンの東』:http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/EAST%20OF%20EDEN.htm