耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今は昔の“ストライキ”の話~その7

2007-10-26 10:39:21 | Weblog
【辻産業労組】のストライキ ~犬の背に「ゼッケン」

 
「辻産業」は、咽頭ガンで声帯を切除し「声無き市長」(のちに声帯発声法を習得)として有名になった辻一三元佐世保市長が創業した会社である。当時、従業員約300名(他に臨時工100余名と下請け工多数)で、大野工場が手狭になったため光町に新工場を建設中で、主生産品は舶用デッキクレーン、ウインドラス(揚錨機)などであった。この組合は造船総連に加盟したばかりで、一度もストライキの経験がない。

 1969年、アポロ11号が月面に着陸した7月20日は、中小統一要求額に沿って提出した夏季一時金をめぐる闘争で唯一取り残され、労使交渉が行き詰まっている状況下にあった。辻市長のワンマン経営が長く続いたこの会社は、労使を「主従関係」と捉え、社会情勢とはほとんど無縁の社風を誇っていた。労使交渉に社長が出席することはなく、主に中川専務、豊福常務、東京事務所長をしている市長の次男(現社長)が交渉当事者である。

 これまでの組合は会社の「親睦団体」みたいなもので、組合員には会社の言いなりの執行部に不満が鬱積し、新年度の組合選挙で林原委員長、高木書記長ら「本格派」の新執行部を選出したばかりである。私が「オルグ」に張り付いた時は、すでに圧倒的多数で「スト権」を確立し、残業拒否をしながら交渉に当たっている最中であった。交渉に加わった私は「オルグ」として挨拶かたがた造船総連本部の考えを述べ、早期円満解決を望んでいることを会社側に伝えた。

 交渉は難航した。辻産業の賃金は造船総連傘下の中小企業グループでも最下位で、組合員にはこの格差を一時金で補うべきだとの強い要求があった。この闘争の経緯について山科弘勝書記長は機関紙『愛宕』(同年12月発行)で次のように述べている。

 <…近代的な新工場の建設と我々労働者に対する条件の度合いを考えるならば、その不均等きわまる労働条件の中で、以来ひそめていた感情が一度に爆発し闘争に発展した。この経済闘争を強行することが、つまりは労働者の権利主張であり、初回の全面ストライキでもあり、慎重なる判断の元に延べ184時間の間組織の総力を結集し、闘いを展開した。>

 新工場の建設で工場移転も決まり、生産体制の確立を目前にしたこの機会を逃しては組合の要求は達成できないと踏んだ執行部の判断を組合員が全面的に支持したのだ。山科書記長は「労務管理の問題も闘争長期化の一要因であった」とも述べているが、これは、いわゆる会社の「前近代的労務管理」を正す目的を指している。

 はじめてのストライキというのに、組合員とその家族会は一致団結して最後まで闘い抜いた。ある日、大野工場の闘争本部にいた地区同盟のK事務局長と私は闘争委員の一人に呼ばれた。階段の踊り場に出てみると、ゼッケンを付けた犬が工場内をうろついている。なんと書いてあるのか聞くと、片方に「豊福がガン!」、もう一方に「労使対等!」と書かれているという。団体交渉で豊福常務が最強硬派だったし、いびつな労使関係を正す組合員の強い欲求も表明しているのだ。当然のことながら、犬は工場内だけではなく近所もうろついているらしい。

 新工場への移転をはさんで挙行されたストライキは、臨時工・下請け工の入場を阻止する新工場前でのピケが難問だった。このピケに関しては友誼団体からの動員をめぐって嫌な思い出がある。いわゆる「過激派」「左巻き」とのレッテルを張られていた筆者の要請を妨害する連中に悩まされたのである。臨時工対策としては、臨時工の一時金と「本工採用替え」に関し臨時工代表者を団体交渉の場に出席させて会社に直接要望を述べさせ、共闘意識を高めてストライキへの理解を取り付けていたが、下請け工への働きかけはほとんどできないままだった。長期化したストの終盤、ある下請け会社の社長に「明日はブルを持ってきてピケを突破する!」とすごまれたりしたが、この一時金闘争は決して「勝利」とは言えないまま終結した。山科書記長はこう述べている。

 <結果的に数字こそ満足しがたい額ではあったが、組合員ほとんどが不満ながらも承諾したことは察する所である。…辻産業特有の従業員に対する労務管理は、今後最大の焦点となろう…。>

 この長期ストライキが、「労使関係」に関する会社の考えを転換させる契機になったのは疑えないことである。要求額が満たされなくても、労働者たちは闘うべき時を知っている。つまり「労働」が正しく評価されない限り損得抜きでも闘うのが労働者なのだ。したがってオルグの心得第一は、企業経営者が労働者を経営上どう位置づけしているかを見抜くことにある。
 
 本部役員として最後のオルグとなった辻産業労組のストライキは、労働界の右傾化が顕著であった時期だけに、組織内でいよいよ孤立化していく自分を発見する場ともなり、自ら目指す運動の厳しさを予感させた。民社党・同盟系や大企業第二組合が「労使運命共同体」を信奉し、労働運動を空洞化させるなかで、やがて辻産業労働組合も辻市長の「私兵」として先祖がえりするのだが、だからと言ってこれを責めるのは酷だろう。こんにち、ニート・ワーキングプアに代表される「非正規雇用」を蔓延させた元凶は民社・同盟系の組合指導者たちであることは歴史が証明する。政権獲得を目指す“民主党”内で、彼らを代表する議員たちが、いまや党内の「悪性腫瘍」になっていることは間違いあるまい。


 この機会に、辻産業創業者の「辻一三」にふれておく。

 参照:「辻一三」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E4%B8%80%E4%B8%89

 辻一三は1963年から4期16年、佐世保市長を勤めた。戦後まもなくの1947年、佐世保市議会議長に就任していることで分かるように、戦後の辻一三の来歴は企業と政治の一体化にあった。政治家として高い評価を受けている辻一三は、企業人としても卓越していたと言えるかも知れない。しかし、労働者に君臨し続けた彼を、近代的な経営者とみなすには抵抗があるだろう。

 彼は地方の保守政治を代表する人物で、中央政界の意向に忠実であったことは周知の事実である。1964年の原子力潜水艦佐世保初入港をはじめ、1968年初頭の「空母エンタープライズ」入港事件ではデモ隊と機動隊の衝突で重症20名、軽症72名、ガスでの洗眼、カスリ傷など900名が治療を受け、学生の逮捕者27名にのぼったが、辻一三はつねに政府懸案の実務者だった。その後の相次ぐ「原潜入港」をもじって彼が「原潜市長」と呼ばれたのも宣(うべ)なるかなである。

 彼が手腕を発揮したのは、佐世保の「基幹産業」佐世保重工が経営危機に陥った時である。彼は、政治的に「漂流」を続けていた原子力船“むつ”の修理入港受け入れを表明して政府に「恩」を売り、福田赳夫首相、長野重雄日商会頭、メーンバンクの日本興業銀行池浦喜三郎頭取などに佐世保重工救済を要請、来島ドックの坪内寿夫社長に経営再建を委ねさせる。

 佐世保重工経営危機の主因は、遅きに失した「百万トンドック」建設計画など、経営者が造船界の趨勢を見誤ったことにあるが、この「百万トンドック」計画にもっとも熱心であったのが辻一三である。その経緯をかつて私はこう書いた。

 <この会社(佐世保重工)の発足当初から佐世保市は有力な株主であるが、時の市長(辻一三)は、造船不況の実態を無視して能天気な経営者に同調、目前に迫った地方選挙を横目で見ながら、ドック建設用地として半ば有休化していた米軍基地(約30万平方米)に目をつけ、「百万トンドックなしにはやがて佐世保市の灯は消えるであろう」と訴え、“市民ぐるみ”の基地返還運動を展開する。市長の“卓越した政治力”(会社幹部の言)と労働組合の協力で基地返還が決まる。“栄華の夢”が凝縮する百万トンドック建設に異論をはさむ社員はまるで異端者扱いを受け、競争原理の苛酷な経済社会を生き延びる唯一の社是に刃向う反逆者とみなされた。>(『労働組合は死んだ』)

 この「百万トンドック」計画が頓挫し、経営危機が表面化すると辻一三は原子力船“むつ”受け入れを表明、「佐世保市を原子力船のメッカにする」と言い出す。ミスター日経連と呼ばれた桜田武は、辻一三のこうした政治姿勢を痛烈に批判した。

 <一企業を政治的な工作で再建するなど発展途上国の政商のすること。>

 佐世保重工再建に乗り出した坪内寿夫は、徹底的な「企業合理化」策を講じる。人間性無視の「坪内経営」についていけず大量の退職者が出たが、辻一三はこの機を逃さず自社のために佐世保重工の「有望人材」勧誘に乗り出す。一方では「会社再建」に貢献する姿勢を示しつつ、一方では「濡れ手に粟」の狡猾な態度。坪内寿夫は『プレジデント』への寄稿文で辻一三を痛烈に批判し、終生、辻一三に対する恨みを捨てなかったと言われている。こんにち辻産業は、中国でも造船業を営む優良企業に成長している。

 これが勲三等旭日中綬章を受賞し、佐世保市名誉市民として顕彰されている人物である。

 
 先日書いた教訓より再度引いておく。

 <歴史の多くは勝ち残った強者によってつづられる。史料を残すのも、捨てるのも思うままだ。>