明日10月5日は、禅宗の開祖とされる“達磨大師”が入滅した日である。“達磨大師”は150歳で遷化したそうだが、「他宗派の僧侶に毒殺されたというのが真相」だという。
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8
禅宗の根本義は、
【不立文字(ふりゅうもんじ)】=悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではないということ。
【以心伝心】=仏法の奥義を、言葉や文字を借りず師の心から弟子の心に伝えること。
【直指人心・見性成仏】=人間が生まれながら持っている仏性を直接に体得せよ、ということ。
とされている。
「禅」とは梵語「禅那」の略で、「静慮(静かに思念すること)」を意味する。また、「禅」を解字すれば「示」と「単」になり、示は人心を「直示(直指)」すること、単は「単伝」すなわち単独修行で伝えることをいう。“達磨大師”の有名な「面壁九年」の坐禅は、これらの意味を表象している。達磨系の禅は「教化別伝」、つまり、釈尊の本当の教えは文字に記された経典にはなく、釈尊の心そのものの中にあるとしたわけである。
さて伝説では、“達磨大師”は面壁九年の坐禅によって手足が腐ってしまい、ここから玩具としての“ダルマ”になったと言われている。わが国の「ダルマ信仰」は何に由来するか、“陰陽五行説”学者の吉野裕子著『ダルマの民俗学』(岩波新書)からみてみよう。“陰陽五行説”の基本は【五行配当表】にあることは前にも述べたが、もう一度おさらいをしておく。
【五行配当表】
五行 木 火 土 金 水
五色 青 赤 黄 白 黒
五方 東 南 中央 西 北
五時 春 夏 土用 秋 冬
五事 貌 視 思 言 聴
五臓 肝 心 脾 肺 腎
五腑 胆 小腸 胃 大腸 膀胱
五味 酸 苦 甘 辛 塩(注:旧字に替えて)
生数 1 2 3 4 5
成数 6 7 8 9 10
“達磨大師”の「面壁九年」の「九」は、陰陽における陽(奇数)の極数、同時に、火の生数二および成数七をあわせた数で、「九」は「火」の力を最大に発揮する数とされている。吉野裕子氏は、この「九」が“達磨大師”の二つの大徳を象徴するという。(<>は引用)
一つは、【五行配当表】で“五事”をみれば五行の「火」に対応するのは「視」、すなわち「目」である。インド人である“達磨大師”の特色は、その巨大な目。
<こうして火の活きた物実(ものざね)としての目と、面壁九年という強力な火の数をもって、達磨大師は、宇宙の実相を感得した。>
もう一つは、「火剋金」(火は金を溶かす)の五行法則(相生・相剋の法則)による言語剋殺。
<五行配当では、「言」は金気。強力な火の数「九」は言語を完全に封殺する。言語剋殺は禅宗の真骨頂である。>
「ダルマさんダルマさん、にらめっこしましょ」という遊びは、目を大きく開いて相手をにらみ、口を閉ざす。「にらめっこ」=「目」、「口を閉ざす」=「火剋金」(言語剋殺)で、こんなところにも“達磨大師”と五行法則の関連が見られるという。
吉野裕子氏の結論。
<日本において達磨大師の信仰と、ダルマさんの俗信のあいだには、一見、天地のへだたりがあるが、両者は「火」を接点として重なり合うものであり、この微妙な接点が拡大され、俗信の方向に向かっての展開を示した。それがダルマさんなのである。>
「ダルマさんはなぜ赤いか」。俗説では、“達磨大師”が赤い衣を着ていたことに由来するとか、赤色には魔除けの効果があるなどの説もみられるが、(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%8B%E3%81%BE)吉野説からたどれば、五行の「火」=五色の「赤}に由来することは言うまでもなく、説得力もある。吉野裕子著『ダルマの民俗学』では、「ダルマが赤い」根拠を仏教の「四大」からもさぐり、詳しく推考している。同書で指摘する「陰陽思想と禅の教義」の類似についての次の記述は、吉野説の根幹を示唆しているように思える。
<…万象の把握を二元に求めているかのように見える陰陽思想が、じつは「一」、あるいは「無」によって象徴される普遍的絶対の存在にその思惟の基礎をおいていることを示す。それはまさに達磨大師によって見証された「無住空寂」の宇宙の相(すがた)と重なり合うのである。>
“達磨大師”の「面壁九年」は何を教えているのだろう。「坐禅は安楽の法門である」といわれるが、一に「安心(あんじん)」(仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地=『大辞泉』)を得るための「行」と言えるだろう。二祖・慧可は腕を切って“達磨大師”に入門を乞うたといわれるが、南宋の無門慧開(1183~1260)の著『無門関』の一節を挙げておく。
達摩面壁す。二祖、雪に立つ。肘(注:旧字に替えて)を断って云く、
「弟子、心いまだ安からず。乞う、師、安心せしめよ」
摩云く、
「心を将(も)ち来れ、汝が為めに安んぜん」
祖云く、
「心を求(注:旧字に替えて)むるに了(つい)に不可得なり」
摩云く、
「汝が為めに安心し竟(おわ)んぬ」
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8
禅宗の根本義は、
【不立文字(ふりゅうもんじ)】=悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではないということ。
【以心伝心】=仏法の奥義を、言葉や文字を借りず師の心から弟子の心に伝えること。
【直指人心・見性成仏】=人間が生まれながら持っている仏性を直接に体得せよ、ということ。
とされている。
「禅」とは梵語「禅那」の略で、「静慮(静かに思念すること)」を意味する。また、「禅」を解字すれば「示」と「単」になり、示は人心を「直示(直指)」すること、単は「単伝」すなわち単独修行で伝えることをいう。“達磨大師”の有名な「面壁九年」の坐禅は、これらの意味を表象している。達磨系の禅は「教化別伝」、つまり、釈尊の本当の教えは文字に記された経典にはなく、釈尊の心そのものの中にあるとしたわけである。
さて伝説では、“達磨大師”は面壁九年の坐禅によって手足が腐ってしまい、ここから玩具としての“ダルマ”になったと言われている。わが国の「ダルマ信仰」は何に由来するか、“陰陽五行説”学者の吉野裕子著『ダルマの民俗学』(岩波新書)からみてみよう。“陰陽五行説”の基本は【五行配当表】にあることは前にも述べたが、もう一度おさらいをしておく。
【五行配当表】
五行 木 火 土 金 水
五色 青 赤 黄 白 黒
五方 東 南 中央 西 北
五時 春 夏 土用 秋 冬
五事 貌 視 思 言 聴
五臓 肝 心 脾 肺 腎
五腑 胆 小腸 胃 大腸 膀胱
五味 酸 苦 甘 辛 塩(注:旧字に替えて)
生数 1 2 3 4 5
成数 6 7 8 9 10
“達磨大師”の「面壁九年」の「九」は、陰陽における陽(奇数)の極数、同時に、火の生数二および成数七をあわせた数で、「九」は「火」の力を最大に発揮する数とされている。吉野裕子氏は、この「九」が“達磨大師”の二つの大徳を象徴するという。(<>は引用)
一つは、【五行配当表】で“五事”をみれば五行の「火」に対応するのは「視」、すなわち「目」である。インド人である“達磨大師”の特色は、その巨大な目。
<こうして火の活きた物実(ものざね)としての目と、面壁九年という強力な火の数をもって、達磨大師は、宇宙の実相を感得した。>
もう一つは、「火剋金」(火は金を溶かす)の五行法則(相生・相剋の法則)による言語剋殺。
<五行配当では、「言」は金気。強力な火の数「九」は言語を完全に封殺する。言語剋殺は禅宗の真骨頂である。>
「ダルマさんダルマさん、にらめっこしましょ」という遊びは、目を大きく開いて相手をにらみ、口を閉ざす。「にらめっこ」=「目」、「口を閉ざす」=「火剋金」(言語剋殺)で、こんなところにも“達磨大師”と五行法則の関連が見られるという。
吉野裕子氏の結論。
<日本において達磨大師の信仰と、ダルマさんの俗信のあいだには、一見、天地のへだたりがあるが、両者は「火」を接点として重なり合うものであり、この微妙な接点が拡大され、俗信の方向に向かっての展開を示した。それがダルマさんなのである。>
「ダルマさんはなぜ赤いか」。俗説では、“達磨大師”が赤い衣を着ていたことに由来するとか、赤色には魔除けの効果があるなどの説もみられるが、(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%8B%E3%81%BE)吉野説からたどれば、五行の「火」=五色の「赤}に由来することは言うまでもなく、説得力もある。吉野裕子著『ダルマの民俗学』では、「ダルマが赤い」根拠を仏教の「四大」からもさぐり、詳しく推考している。同書で指摘する「陰陽思想と禅の教義」の類似についての次の記述は、吉野説の根幹を示唆しているように思える。
<…万象の把握を二元に求めているかのように見える陰陽思想が、じつは「一」、あるいは「無」によって象徴される普遍的絶対の存在にその思惟の基礎をおいていることを示す。それはまさに達磨大師によって見証された「無住空寂」の宇宙の相(すがた)と重なり合うのである。>
“達磨大師”の「面壁九年」は何を教えているのだろう。「坐禅は安楽の法門である」といわれるが、一に「安心(あんじん)」(仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地=『大辞泉』)を得るための「行」と言えるだろう。二祖・慧可は腕を切って“達磨大師”に入門を乞うたといわれるが、南宋の無門慧開(1183~1260)の著『無門関』の一節を挙げておく。
達摩面壁す。二祖、雪に立つ。肘(注:旧字に替えて)を断って云く、
「弟子、心いまだ安からず。乞う、師、安心せしめよ」
摩云く、
「心を将(も)ち来れ、汝が為めに安んぜん」
祖云く、
「心を求(注:旧字に替えて)むるに了(つい)に不可得なり」
摩云く、
「汝が為めに安心し竟(おわ)んぬ」